私達は「清洲古城跡公園」から、「清洲公園」に向かいました。
近くの川は五条川というようですね。
そして、それから300年後の1891年(明治24年)10月28日に、濃尾地震という地震がほぼ同じ場所で起こっています。
「清洲古城跡公園」には、この時の大地震の石碑がありました。
画像は、お借りしました。
立看板に書いてあることに由ると、織田信長の銅像は27才で桶狭間の戦いに行く時の様子で、銅像も桶狭間に向いているそうですよ。
立看板の地図を拡大してみました。
JRと新幹線の線路をくぐるように向かいます。
近くの川は五条川というようですね。
この辺りは、天正大地震というマグニチュード8くらいの地震が、1586年1月16日と18日にあり、かなり広範囲に被害があったようです。
時代は、まさに戦国時代で、大混乱状態だったのだと思いました。
wikipediaの震度分布を見ると、本当に恐ろしい感じですね。
震度6~7の地震が広範囲に渡っていますし、その10年後にも何度も大きな地震があったそうです。
そして、それから300年後の1891年(明治24年)10月28日に、濃尾地震という地震がほぼ同じ場所で起こっています。
もう、明治時代になっていましたが、この時も広範囲に被害があったらしいです。
地震分布の「激烈」は、ピンクの丸印になっていますが、まさに清須の辺りは一番揺れた場所のようですね。
分布図で見ると関東地方と四国九州まで、揺れています。
「清洲古城跡公園」には、この時の大地震の石碑がありました。
画像は、お借りしました。
天正地震の時も、濃尾地震の時も、この辺りは液状化したそうで、清洲城下の人達を名古屋城下に移したのは、天正地震の被害のためだったそうです。
これは天正地震の後、江戸時代になった1610年から始まった「清洲越(きよすこし)」と言われ6万人の人達が名古屋に引っ越し、名古屋地区は碁盤の目のように町を整備したのだそうです。
やっぱり、地形を見て先を見通した徳川家康はスゴい人だったのだと思いますね。
今回、織田信長が言っていた地盤の中心の要石については、私もよくわからないのですが、茨城県の鹿島神宮と香取神宮にある要石について、水戸光圀が関係していることと似ているのかと思いました。
「清洲公園」は、まだ新しいようで、織田信長と奥方の濃姫の銅像が揃ったのは、平成24年とのことのようです。
立看板に書いてあることに由ると、織田信長の銅像は27才で桶狭間の戦いに行く時の様子で、銅像も桶狭間に向いているそうですよ。
濃姫は斎藤道三の娘で、美濃から来たから濃姫と言われていたらしく、本名はよくわからないようで、帰蝶とか胡蝶とかいろいろとあり、実像も後で物語として作られた感じで、ミステリアスな存在のようです。
名古屋の「ノリタケの森」にいた時にIさんが、清洲城からだと近い岐阜城に行こうと言っていて、岐阜と言えば一昨年の四国の旅に一緒に行ったWご夫妻がいるのでは?と、一応電話をしてみたらと言われて、私がご主人のしんやさんに電話をすると、丁度二人で買い物をしているとのことでした。
また、着いたら電話をしますと伝えて、岐阜城に向かいました。
岐阜城は、かなり遠くから山のてっぺんに建っているのが見えました。
まさに、濃姫の父の斎藤道三の城だった訳で、その後は織田信長もいたのですが、その時代にあの高さに城を作るというのは、大変なことだったろうと思いました。
岐阜城が建っているのは、金華山というのですね。
調べると329メートルの標高があるようです。
私達が岐阜城のロープウェイのところに着いたのは、もう午後3時になっていました。
続きます。