真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

タルタリア文明の巨人達~まとめ編~

2023-01-19 22:24:19 | ONEメッセージ

タルタリア文明の巨人達~まとめ編~


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天のデザイン(轍:わだち)

2023-01-19 21:00:24 | 道すなわち真理

決して誇張するのではなく、世界の神秘学者・由緒ある大学の研究者・宗教学者・自然科学や生物学者、そして物理や量子学の最先端に於いても「真理」が明らかになるということは、驚愕することなのです。

日本の東大や京大も皇統などの文部として「真理」の探究を最高レベルの課題としています。

それは古代に於いては、皇位を決定づける「天命」に中るからです。

もちろん紀元前600年前神武天皇から始まった天皇のは「天命」は降されず、皇統は「天皇制」として本来「天命:道すなわち真理」が有ることを継承する役割となりました。

現在、茶道・華道などの襲名制度を保っている「道」の世界には、八紘一宇などを担う隠された口伝伝承の実態があります。

人類の秘法(道=真理)その鍵がどのように伝えられてきたのでしょうか、正しい宗教の経典にはその極意が伝承されてきましたが、時代が下るほどに異端が跋扈し真実は有名無実となってしまいました。

老子には元始(ゲンシ)、孔子には項屣(コウモ)、釈迦には燃燈佛(ネントウブツ)が秘伝の法灯を伝授しました。

老子は、道徳経、第一章の中で「道可道、非常道、名可名、非常名、無名、天地之始、有名、万物之母、故常無欲、以観其妙、常有欲、以観其竅、此両者、同出而異名、同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門、」

【解釈】:道というは、常にいうその道ではない。その名でもない、名が無いが、「天地の始め」であって、その名をあえて、「万物の母」という。つねに無欲である故にその妙を観る。「天地の始め」であり「万物の母」この両者は、同じ根源から出ているが、名を異にしている。これを玄(玄関)という。玄の中の玄を、あらゆるものを生み出す神秘の中の神秘、それを衆妙の門という。(衆妙の門:多くの人々に付与された命の微妙な出入り口)、玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源、と解釈してます。

※  「玄関」と言う日本語の漢字は、中国では使われていません。仏教の経典の中にしか使わない聖なる言葉を日本語では人の出入りする「戸」のある場所、聖なる「玄関」と言う言葉を日常に使っています。

清静経では、「大道は無形にして天地を成育し、大道は無情にして、日月を運行し、大道は無名にして万物を長養す。吾その名を知らず。強いて名付けて道という。」

 ※老子は道徳経・清静経・黄庭経の三経を遺しています。

【解釈】:大道は本来形象はないが、よく天を生じ、地を育てることができる。本来感情はないが日月を運行することができる。本来名称をもって表現できないが、天地間の万物を養育することができる。私自身、その名前を知らない。それで強いて道と名付けた、と伝えています。

釈迦は、弟子スプーティに「解脱に至る道(真理)は、どのような道でしょうか。」と問われ、「解脱に至る道によって解脱を得るのではない。また道でないものによって解脱を得るのではない。スプーティよ、解脱がそのまま道であり、道がそのまま解脱である。一(真理)を得ることが、その一切である。」と答えました。

また、摩訶迦葉に法灯を伝える時「吾に正法眼蔵あり、涅槃の妙心、実相無相にして微妙の法門、不立文字、教外別伝、これを摩訶迦葉に附嘱す。」「粘華微笑(ねんげびしょう)、玄嚢鼻直(げんのうびちょく)」と説き、正しい法が眼の蔵(老子:谷神)にある。それは涅槃(天国)へ通じる道で、あるといえば無い、無いようである、微妙な法門である。文字を立てず(文字に表すことはない)、教えの外に別に伝える(誰にでも教えるものではないし、教えるというものでもない)、一人から一人に単伝独授するもので、これを摩訶迦葉に附嘱(一指相伝)し、その機微を顕しました。そして鼻を捻って微笑し(粘華微笑)それは鼻の玄嚢の直すぐ上である、と記しました。

達磨大師は釈迦以来の四諦句として「教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏」とその奥義を禅宗に遺されました。一つ一つの四字成語をよくよく観察してみて下さい。どの経典でも、これは名のつけようもなく、経典の文字をいくらあさっても解るものではないと伝えられています。

一指相伝:一を指して相伝える、直指人心:直かに人の心を指す、など似たような表現ですが、ではそれが具体的に何を意味するのかと考えると曖昧になります。つまり求めなければ得られないものの特徴です。

また、面目と言う言葉は、顔面の目と言う意味であり、すなわち「大元である」という意味ですが、熟語には「面目一如」一の如く、「面目一新」一に新(親)しむ、「面目躍如」躍するが如く、「一」に関することでそれによって改まること飛躍(脱皮)するとは…、このように日常の様々な言葉の中に「道:真理」は隠されています。

この「道」は、無形無相、無声無臭で、見ることも聞くことも嗅ぐことも触れることもできません。これが道の実体です。

イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれも私(道)によらないでは、父のみもとにゆくことはできない。」 (ヨハネ伝第14章)と言いました。

※    イエスの墓が青森県三戸郡新郷村大字戸来にありますが、地名の「三戸」「戸来」あるいは「戸来人」などの「戸」の由来について論語の中で次のように解釈しています。

雍也第六:子曰誰能出不由戸何莫由斯道也

解釈:子曰く、誰か能く出づるに戸に由らざる。何ぞ斯の道に由ること莫からむ

真理を得ていない場合は次のように教訓的な解釈になります。

「誰か外に出るに戸によらないものはない、どうして、(生きるに)この道によらないことがなかろうか。普通戸の無いところから出入りすることはなく、人は、無意識的に戸を用いる。道路も、無意識的にそこを通るが、もとからあったものでなく、人々が往来するから道路となったものである。道路には通る人々により、悪しき所に通じるものも、善き所に通じるものもある。道とは、ここでは、人が生きる道のことであるが、さまざまな道がある。無意識的に生きているのかもしれないが、先人の道を辿っているものである。(周公のごとく)生きた人の道(斯道)によるべき、・・・」

孔子が伝えているのは「人間の魂はどこから来てどこへ往くのか、この戸による・・・」つまり、元きたところに帰る道のことでした。

神は、イエスによって「道であり、真理であり、命(性命=霊)」ものを証するために、十字架で磔の機会を与えました。この時の場所は「ゴルゴダの丘(しゃれこうべの丘)」でした。つまり人の頭の部分です。そしてイエスと共に2人の盗人が処刑されました。三人が同時に磔になりました。

 ※実際はゴルゴダの丘もありませんし、キリストも処刑されていません。預言者のが伝える神々の創造を真理を伝えるために聖書に印したものです。原罪の意味も同じような啓示です。皆さんもこれからあたらしい世界を創造する中で善悪を越えた伝承の必要を知るでしょう。完璧は完璧ではありません。真理が唯一です。

汝姦淫するなかれ”と言いますが、姦淫の源は目にあります。目で色を見ることで心が動じ罪を犯します。つまり左右両目は磔になった2人の罪人で比喩し、イエスは真中の十字架で〝私は真理である“ことを比喩しました。

また仏教の「如來」は、済いとは「菩薩が來るが如し」と言う意味に使います。この「來」と言う文字は「十」の字に「人」と言う文字を3人を書いた字です。つまり十字架に3人が磔になったことと同じになります。

如=女の口=玄牝之門(老子道徳経で“玄なる牝の門”と表現)

來=十(十字架)に从(罪人が2人従う)もうひとり、「人=キリスト」が真ん中にいて十字架に人が3人、3っの目を意味していました。

そして「戸」と言う文字について、聖書の中で「戸をたたく」と言う真理に関する機密の表現がありますが、「戸」の「一」の字を取ると「尸」(しかばね)と言う字になります。「一」は「点」の伸びた形で、「一なるもの」の意味です。つまり真理の表現です。「尸」が「一」を得て「戸」になる、つまりこの「戸」が「真理」を表現しています。京都の大文字焼きの「大」の字も「人」が「一」を得て「大」になる、やはり「一」が真理であることを継承しています。

キリストの墓がある「三戸」「戸來」の地名については、東北方面の方はご存知のように青森県には「一戸」「二戸」と言う地名があり、キリストの足跡が秘められていると思われます。

「戸來」は「如來」と同じ意味で、そのときがくれば十字の秘密が公開され、真理が得られることを印しています。キリストが日本に、しかも東北に来た(さらに南米に向かったと言う説もあります)ことの意義はやがて歴史の真実として明かされ、世界がひとつになり、宇宙とつながる史実となってきます。聖人はそのために足跡を残すべく天命を担っていました。

昨今、次第に歴史の真実が明らかになってきていますが、「真理」に基づいて歴史が明らかになるのはこれからです。エジプトも中国もどの古代文明もすべて十字などの形象で顕した「真理」を探求する歴史そのものでした。天のデザインは細微に渉っています。             

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【Ray:大師が「明師の一点」を受ける場面があります!】観音菩薩伝~第42話 大師、長眉の老翁に会って指点を受ける

2023-01-19 20:58:04 | 釈迦略伝・釈迦仏説因果経・観音菩薩伝・慈航渡世問答・達磨大師伝

第42話 大師、長眉の老翁に会っ指点を受ける

 このようにして大師と保母そして永蓮の三人は、筆舌に尽くせぬ飢えと寒さに堪え忍びながら、雪蓮峰を登りました。全く紆余曲折の多い行程でしたが、五日目に漸く頂上に達することが出来ました。頂上に登りきるとそこには比較的平らな地面があり、ふと見ると萬年雪を被った一座の廟堂がありました。こんな山の頂に一体誰が住んでいるのだろう、大師の心中にもしやと思う気があって胸が高鳴りました。保母と永蓮も一瞬神秘感に打たれ、お互いに顔を見合わせて頷き、大師に従って庵の前に到着しました。三人の瞳は、希望に燃えて輝いています。長い間の艱難辛苦が報われる、目的地に到達したのです。千萬の感慨で、胸が一杯です。究竟涅槃の妙証を得、聖諦義を明らかに悟れる感激が寸前に迫って来ました。

 三人は合掌しながら跪いて廟堂を拝み、立ち上がって三歩歩いてもう一拝しました。畏れ多いという気持ちが、自然にそうさせたのかも知れません。無意識のうちに大師は、御自分の得道時を感得しておられました。

 廟堂は石積みの簡素な作りで、崖の上に一軒だけぽつんと建っています。大師は霊覚で、その中から荘厳華光が無量円光を描いて燦然と輝いているのを観じました。大師は静かに廟前に跪き、改めて深く礼拝してから内(なか)へ入りました。内は狭い石室で、中央の奥まった所に一人の老翁が坐っていました。眉毛は長く両頬まで垂れ、純白な僧衣を纏い、悠然と端坐し瞑目しております。三人が入ってきたのに気付いているのかいないのか、体も動かさず顔色も変えずその身相は威厳と慈愛に満ち、面容は神々しくて百毫の光明を放っています。

 早速叩頭礼拝を為した大師は、老翁の顔を見てはっと胸を打たれました。昔、花園へ御指示に来られた老僧によく似ておられます。大師は、忘れる筈がありません。その御風貌は深く脳裏に刻み込まれていて、昼夜四六時中、その印象は片時も脳裏から離れたことがありません。歓喜が湧いて大師は、二人に言いました。

「功徳甚深の師父様です。私達が来るのを待っておられたのです。謹んで御尊前に進み出て、御指示を仰ぎましょう」

 二人は感極まり、身が引き締まりました。大師は恭しく奥へ進み、五体を地に伏して礼を尽くし、終って胡跪(こき)し、合掌しながら

「上座に坐(おわ)します御尊師様。弟子妙善、約束を違えず所説の妙法を憶持して失わず、永い歳月を求法一途に勤行し、今また一行三人は興林国を発って今日ここまで参りました。師の御尊顔を拝し得ますことは、この上ない幸いでございます。どうぞ御慈悲を垂れ給われて弟子達の迷朦を御指示下さり、般若・陀羅尼の心法を授記して下さいますようお願い申し上げます」

と真心籠めて申し上げました。今まで瞑目して微動だにしなかった長眉の老翁は、大師の言葉が終るや静かに眼を開き、三人を見渡して言いました。

「善哉、善哉。大乗を行ずる者、大荘厳の心を発せる者、大乗を念ずる者よ、汝昔日よく菩提心を発し弘誓の願を立てられた。今また汝等三人は、幾多跋渉の苦しみを辞せず、千里の難関を踏破してよくぞ此処まで参られた。汝に深い前縁があったが故である。先ず、そなたに訊こう。そなたは一切の富貴と栄華を捨てて佛陀に帰依し、一心に修行を志して求法に来たが、佛門の真旨は何であるか。得道した後、如何なる願心を抱かれるか心意の所想を聞きたい」

 大師は、敬虔な心情を尽くして答えました。

「佛門の真旨は、世の迷える霊魂を四生六道の輪廻から救い、世の災難を消滅するにあります。佛陀や諸佛が道を求め、道を修め、道を伝えて身を千劫萬難に晒したのも畢竟この為と思います。弟子の願心としては、得道後は更に修練に励み、大慈大悲を以って三毒・十悪の業縁から衆生を目覚めさすように説法を続けて行きたいと思います。

 若し将来正道(しょうどう)を成就でき肉体を離脱した暁には、誓って三界十方を駆け巡って衆生や萬霊の苦厄を度(ど)し、声を聞いては救苦救難を果たし、世人をして正覚に帰せしめたいと存じます。弟子のこの決定心(けつじょうしん)は、佛門の真旨に合いましょうか」

 老翁は、深く頷いて言いました。

「そなたの固い決心は、大乗菩薩道を成就する人の言葉だ。なるほど、深い来歴は争われないものである」

「御尊師様。どうか佛道の真髄、如来の真実義と正法(しょうほう)を証(あ)かさしめ、吾が心霊を一切苦より解脱する法をお伝え下さい」

 老翁は、大師の初一念に感じ入り、徐(おもむろ)にそして厳粛に大師に道を伝え、佛道最上・最勝の妙法を授記されました。

 涅槃妙心(ねはんみょうしん)・正法眼蔵(しょうほうがんぞう)の機を明かし、以心伝心・心印神通の奥義を授け、教化別伝(きょうげべつでん)・真言秘咒(しんごんひじゅ)の口伝(くでん)を受けた大師の心は、極楽に昇ったような歓喜と感激で打ち震えました。今まで探し求めていた、真法奥玄(しんぽうおうげん)を得たのです。捨身して求めていた正法です。佛道最高の極法を得た大師の満身からは、光毫が輝きました。ここに改めて大悲願をたて、必ず終始一貫永劫に佛陀の得賜った心伝を奉じて衆生済度を心から誓われました。

 老翁は更に保母と永蓮に真経を一巻ずつ授け、終身肌身離さずに所持し、大師を守護して菩薩道を行ずるよう論されました。二人の感激は、まさに頂点に達しました。大師に従って修行を決意したことが正しかった、その労がいま報われ、その苦がいま補われた、保母と永蓮は今までの辛苦も忘れ、限りない悦楽に浸りました。

 長眉老翁は授記を終ってから大師に向かって、大師の前歴は慈航尊者(じこうそんじゃ)であって、今世はその転生である事実を打ち明けました。大師はこれを聞いて驚くと共に入世の本願、弘誓の甚深を痛感し、責任の重大さを一層強く自覚しました。老翁は、更に言葉を続けました。

「そなたの世に尽くす任務は重大である。ここから帰った後も更に修業を積み、一日も早く成道できることを望んで已まない」

「御尊師様の御慈悲で道を得られ、長年の夙願(しゅくがん)を果し得たことを感謝申し上げます。最後に、一つ伺いたい事がございます」

「何事であるかな」

「実は昔、私がまだ宮殿に住んでいた頃、多寶国の行者ルナフールが参って、須彌山に白蓮があり、それが弟子に深い因縁があるとの事で、父王はカシャーバを遣わしたところ事実これがあったとの事でした。いま見廻したところ、その白蓮が見当たりません。尋ねた場所が違ったのか、或いはもう既に無いのでしょうか。実は弟子が父王の逆鱗に触れ花園に貶(おく)られた時、御尊師様が来られて須彌山の白蓮を得よとの御指示がありました」

 これを聞いていた老翁は、笑いながら言いました。

「そうだ。確かに白蓮はここにあった。カシャーバにも、麓で変化して見せた筈だ。そうしなければ、国中の医者が流離辛酸の苦しみを受けたであろう。だが今は既に南海普陀(なんかいふだ)の落迦山(らっかさん)に移り、蓮台と化している。残念ながら、既にここにはない」

 大師は一瞬失望の色を見せましたが、直ぐに気を取り直して訊きました。

「弟子にその白蓮が得られるでしょうか」

「白蓮を得る時と坐する時と二つあるが、今日そなたは既にその白蓮を得たのである。その証拠に、そなたの額を見よ。瘡痕(きずあと)は綺麗に癒(なお)っている。白蓮に坐するには、時期尚早である。それは、そなたの塵劫が未だ満ちていないからだ。此処から帰った後も更に霊光の純熟を修め、機が熟したら無漏法性の妙身、清浄の常なる体を得、世音を観じ菩提薩埵(ぼだいさった)を証せられる。その時には、普陀落迦山の蓮台に坐することができよう。かの紫竹林(しちくりん)こそ、そなたが菩薩を成就して鎮座する場所であり、化身済世の根拠地となる」

 大師は、感激に身を震わせて泣きました。保母と永蓮は期せずして大師の顔を見上げると、神々しく美しい大師の額からは瘡痕が完全に消えていました。老翁は、諄々と説きました。

「しかし、そなたが涅槃に入る場所は、耶麻山の金光明寺でなくてはならない。それは一般の民衆に肉眼を以って見せ、耳音を以って聞かせ、一人でも多く法門へ帰依させ、一切の苦厄を免れさせるためである」

 また、保母と永蓮に向かっても言いました。

「そなた達の正果成就の縁は、まだ至っていない。しかし最後には、菩提を証するであろう」

 二人は、感激して嗚咽するばかりでした。

「弟子の涅槃に入る時期をお教え下さい」

 この大師の言葉に老翁は、一個の白玉の浄瓶(じょうびん)を取り出して、それを大師に手渡しながらこう言いました。

「この浄瓶をそなたに授ける。これを持ち帰って、鄭重にお供えするのだ。やがてこの浄瓶の中から水が湧き、楊柳(ようりゅう)が生えて来るであろう。よく注意するがよい。その時は、そなたが成道し涅槃に入る時である」

 大師は授けられた寶瓶を両手で捧げ、押し頂いて礼拝しました。

「これで、総てを語った。汝等に言った事を忘れてはならない。道中留意して帰りなされ」

 老翁の別れの言葉に、大師は慌てて言いました。

「尊き御指点、御教示を賜り、この御恩は永遠に忘れません。まだ御尊師様の御尊名と御法号を伺っておりません。どうか、お聞かせ下さいませ」

 老翁は、微笑しながら首を振りました。

「今は。言わないでおこう。いずれ分かる時があろう」

「しかし、もうお伺いする機会が無いと思いますが」

「いや、機会は何時でもある。将来必ず分かる時があるから、早く帰るがよい。一刻の猶予は、一刻の成就を遅らせるだけだ。帰路には、色々の魔難に気を付けるがよい」

 大師は再び老翁に会える日を望みながら、庵を辞去することにしました。寶瓶を大事に包んで黄色の荷袋に収(しま)い、改めて老翁を拝み、保母と永蓮を連れ、名残を惜しみつつ帰路につきました。

この観世音菩薩の御真影は、砂盤を通じた予告どおり千九百三十二年十二月吉日、中国江西省東部の上空獅子雲中に示現されたものです。指示された時間と場所の空中に向けてシャッターを切った数十台のカメラの一つに、この映像が撮影されていたと伝えられています。これは妙善大師が昇天入寂された時、すなわち観世音菩薩として成道された時のお姿です。従って成道後の尊称は、大師から菩薩に変わり、菩薩道を極めた人の最高位となられました。


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弥勒真経~八、南北両極宗を連ねて緒(ちょ)なるも 混元古冊中央(こんげんこさつちゅうおう)に在り

2023-01-19 20:56:25 | 弥勒真経 解釈

南北両極とは世界のことである。この二つの極を枢軸(すうじく)として結ぶ南北東西の諸国に於けるすべての宗教・宗派は目下顕著に布教されているが、やがては祖師を認め信じ、根本の天道に帰り、ひとしく龍華大会(りゅうげたいかい)に赴かなければならない。

このことは混沌元始以来のあらゆる古書冊子に記されているが、すべて中央に帰る、中心を統べる、中和に集まることを証明し解かれている。

中央とはもとより天道であり、玄関の寶蔵地(ほうぞうち)である。天下の万事、万有はことごとくここに帰らなければいけない。

続く


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第八章 天道の修道法(三)外功の修法ーその1

2023-01-19 20:54:42 | 天道の淵源

(三)外功の修法  その1

外功とは外的に道務を推進して正法を普伝し、衆生を済度し、劫難を消滅し、人々の煩悩・不安・恐怖を除去する聖事に携(たずさ)わる行です。

三期にあたり恩師弓長祖は、老〇様の大命を拝して三曹の神人鬼を救い、万教を帰一し、白陽万八百年の道盤を掌(つかさど)ることになりました。

斯(かか)る大業に徒弟の一人として助力させて頂けることは幸運なことで、この時とこの場所に生まれ合わせた恵みを喜ばなければなりません。

この仕事を成就させるために諸天の神聖、満天の仙仏とともに下界し、あらゆる方法を講じて挽回を手助けしておられます。

弥勒祖師と恩師が天盤・道盤を相助けて統掌される事実を、もっと声を高くして世人に知らせる義務と責任があります。

老〇様は、この度の大収円事に、過去の青陽・紅陽に救済された四億の真人を挙(こぞ)って降世させた程で、老〇真書に「爾等群仙(なんじらぐんせん)等しく世に下り、荒(あれ:荒れ地)を開き草を打(な)ぎ、他(みろく)を幇助(たす)くべし。西方に一仏子も留めず、天宮(りてん)に一菩薩も留(のこ)さず。」とあります。

老〇様の御心情を察し、いかに世の悪化を嘆き悲しんでおられるかを理解できます。

親の御意志を承(う)け、それに副(そ)うことを成し遂げる行が孝ですから、この前代未聞の大神事に全身全霊を賭けて赤心を捧げ尽くすのが、大聖賢の器たる人の行ではないでしょうか。

今、天は我々に何を望んでおられるか、「天に順(したが)えば存(のこ)り、天に逆らえば亡ぶ」の理(ことわり)どおり、天の意を知り、天の命を聴き、天事に参画して永遠の世に留まることを願うべきです。

天界からの使命を受けて一大事を補佐するためにこの世に降ろされたことを考えて、我々は六万余年間、輪廻に彷徨(さまよ)ってやっと人身を得ました。

せっかくの機会を逸(いつ)せず、積極的に普伝に走り、万霊帰根のために献身するのを惜しむべきではありません。

孔子様は、「志士仁人(ししじんじん)は、生を求めて以て仁を害することなく、身を殺(さつ)して以て仁を成すこと有り。」と言われました。

志士とか仁人とか言われる人は自分の身を生かさんがために仁道を害(そこな)うことなく、むしろ反対に、自分の身を犠牲にしても仁道をなし遂げて行くべきで、キリスト様のように人々の罪を贖(あがな)うためには十字架に釘打たれても本望でありました。

論語の中に、孔子様は、子貢(しこう)様の「仁者とは何か」との質問に、「夫(そ)れ仁者は己立(おのれた)たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。

能(よ)く近く譬(たと)えを取るを、仁の方(みち)と謂う可(べ)きのみ。」と答えられました。

つまり、仁者は自分がその立場に立ちたいと思う場合には、まず以て人を立ててやり、自分が事に通達したいと思う場合には、まず以て人を事に通達させてやることで、かくのごとく万事につき、ごく手近かに我が身の上にたとえを取って自分の心に考え、それを推して人に及ぼして行く、これが仁に到達する方法であるという意味です。

目下の天下が最も混沌としている時に、天道が唯一の救いの法として、人々を光明の彼岸へ導こうとしています。

老子様は、「大道廃(すた)れて仁義あり」といわれました。

世に大道が廃れたために仁義の大道が唱導され、霊を根本から救おうとされています。

こうして外的に人に接して正法を授け伝える行が外功の修法であります。

外功は天道を得た人であれば、誰でも篤(あつ)く行うべきです。

普伝には時期がありますから、短期間に緊急になさなければなりません。

天道の単伝時代には、内功を充実して明師の開悟を受けてから、外功を行じて衆生を済度していました。

菩薩行とは、仏たることを目的として修める自利(自己のために修行)と利他(他人の利益を目的とする行為)の円満なる大行で、つまり内功をして菩提・真理・妙理を求めつつ、衆愚(しゅうぐ)・衆迷(しゅうまい)を醒(さ)まし救う行のことです。

目的は人々を救うのですが、そこに到達するのに己が明瞭に悟境に至らねばなりません。

そのための修行が内功でしたが、今は先に悟りの法を与えて頂いた我々にとっては、天運に呼応して外功を建てる事を主題にし、外功によって影響する力と徳をもってさらに内功を容易に充実成らしめればよいのです。

むしろ外功のない所に内功はあり得ません。内功は磨くことで己の霊光を輝かす行ですが、外功は徳を積むことで器を大きくし霊気を増やし、徳力を広く修める行です。

宝石に例を取って言えば、内功は細工し、煉磨して仕上げる行で、外功は量を増やし、目方を重くし、質を充すよう計る行です。

小さな宝石を百年磨いても限られた分量以上にはなりません。

可能ならやはり量質ともに大きくして更に煉磨することが望ましいのですが、この徳を立てることは時と運と福の具わった人でないと作得(なしえ)られるものではありません。

『真実の徳、永遠の朽ちない徳を建立するには、一体どのような行をすればよいのか』が中心課題になります。

通常の善事・善徳は、人のため、社会のために利益になることに己を虚(むな)しくして尽くすことを指します。

慈善事業や公益事業、難事・難題の解決救済に我と我が身を忘れる人、私財を投じて災害・困苦の人々に施し与える人等、種々その人合った善事を行っています。

この様な善事が与える相手・環境に及ぼす時間と範囲との長短・大小・深浅によって徳の厚薄・高低に繋がって来ます。

その結果が良い後世となり、未来の幸福、善い果報となって現れてきます。

善事を行う人が意識するや否にかかわらず、その良善の報いはその善行が尽きるまで享けることができます。

しかし、これらの善行は有限な範囲にしか及ばされていない為に、大小があっても限りあるもので、徳の究極・絶対の徳ではありません。

及ぼす際限に至り、影響力を失うと、その徳も失われる訳で徳の根本ではありません。

これより一歩進んで心の不良化を正し、不足不満を充たし、不安と恐怖を除き、精神の安定を計るのが心の救いであります。

この法は聖人の経典・聖書を誦(よ)ませ、祈りと礼拝を教えて人の行為・生活全体が善良になるように計る導き方です。

これは大きな陰徳となって受けた人の生きている限り、尊敬と崇拝が受けられます。

しかし、これは身体という形が存在している間の心を救ったのであって、たとえ修めて来生の霊気に輝きがあったところで、霊自体を完全に生死の輪廻から解脱させることはできませんから、次の生においてまた迷昧してしまえば、その人の与えた徳も尽きて、これまた究極の徳、絶対の徳とはなりません。

究極・絶対の善事は霊魂を根源から救って理天へ帰らせる行をすることです。

六万年間の因果の縛りにある諸々の霊を親元に帰らせることほど、功徳のある行はありません。

再びと転生させなくともよい法を与えることは今後、何回も転生して受ける苦を助けてあげるより大事な救いとなります。

永遠に極楽・天国へ生命を救い得た功徳は世におけるいかなる利益・所得より大きいのです。

いつの時代でも誰もができることではなく、今の我々だけにこのような聖事を果たす機会が与えられたのです。

これが第一の奇功(きこう:珍しく優れた功績)です。

老〇様に代わって原人を済度すれば、倍速的に霊気が充実し、霊光が輝いて来ます。

人の本性を救い、原霊を回復させた数量が多ければ、その分だけ反応して功徳が重なります。失われた原子霊を回収させる業に多く貢献した人は、それに比例して自己霊も高く大きくなるわけで、大衆に接する度合いの多い人は元神の円通を容易ならしめます。

救う人と救われる人の霊気は一方的に流通せず、交互に利益を及ぼして、ますます明敏に高められて行きます。

そのためにはもっと心願を重くし、誠心を深くし、労苦を辞せず、時々刻々衆苦を哀れむことを念頭に存するべきです。

外功を行う最適な場所が仏堂ですから、開壇に尽力することが最大の貢献になります。

この世は五濁(ごじょく)の苦海であり、これを救うための仏堂は法船にあたる役目で、法船に依ってこそすべての霊を載せて理天へ帰らせることができるのであります。

いかなる人であっても、仏道に前において得道し法を授けて頂かなくてはなりません。

仏堂は家庭の一間に安設され、近隣知人に法を伝える便を計っています。

簡単な設壇ですが、天命ある天灯(てんのともしび)をひと度、点じますと百歩周辺に護法の神仏が擁護して亡霊・鬼邪等神格のない霊が入ることを禁止しています。

つまり仏道は理天に帰る神聖な中継地・聖地です。

一か所の仏堂を設置した功績は莫大なもので、いかに巨大な寺院・教会であっても正法を授け、神仏の直(じ)かの御降臨を得られませんから、一か所の仏堂設立に尽力した功績は何百・何千の寺社堂塔を建立するより大きい訳で、白陽万八百年の青史(せいし)に長く留められます。

奇功とは不可能時事を可能にする奇(く)しきことで、人の複雑な因果を解き開いて天の故園(固円)へ帰らせるのは最も困難なことです。

一人一人の因果は違いますから、一々解きほぐして自在身にさせるのですから、これ以上の大徳はありません。

三期の世の人は糖衣錠(とういじょう)の薬のように表面は善美という甘い皮で邪悪という苦い成分を含み、形の面では善悪を判別できなくなりました。

更に歴世の罪業を背負ってきていますので、真理・神仏に対する猜疑心(さいぎしん)で固まっているのを説き伏せるのに難儀します。

物象に神の顕化(けんげ)を見出そうとしたり、神霊を科学して理解しようとする人に真実の義を悟らせるのにも相当心身を費やします。

天を罵詈(ばり)し、神仏を冒涜(ぼうとく)し、行者に悪口雑言を浴びせたり、道脈・祖師を誹謗(ひぼう)した利する人達ばかりで充満しています。。

堕落の環境の中に破廉恥(はれんち)的行為や流行に血眼(ちなまこ)になっている人に清らかな天言を聞かせ、厳粛な本性に立ち返らせようとするのは、難中の難と言わねばなりません。

その困難を推して正しい心法を得べく説き聞かせるべきです。

そのために受けるいかなる誹謗や屈辱でも耐え忍び、大いなる慈悲を懐(いだ)いて倦(う)まず厭(いと)わず、互いの永性を願うべきです。

続く


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