オープン・シグナル〜第5章パート1前編〜アトランティスとムーの黄金時代〜
次は意の業です。身の業・口の業は形に現れていますので、これは努力すれば非常に改めることができますが、この意の業は目に見えないものが業を起こしているので改める事が非常に難しいわけです。
同じ業でも身で犯したものを過ち、口で犯したものを錯(あやま)ち、意で犯したものを罪と申します。
意の業は先ず念が起きるわけです。
念は物を貪ることから始まります。
貪(どん)とは、名誉、利益、財貨、色、酒を貪ることです。
例えば、自分は持っていないけれど他人は持っている、それを自分のものにしようとする、これも貪です。
貪(むさぼ)りが起こり、それが完全に自分の手に入ってしまうならば、問題ないかも知れませんが、我々の心の中の貪りが完全に果たされることは、ほとんどない訳です。
嗔(しん)とは、求めても手に入らないと嗔(いか)りが起きます。
私たちの佛性は非常に浄(きよ)らかで圓満なものでありますが、嗔りが起こって来た時には、あの真黒い雲が十五夜の月を被(おお)うが如く、私達の明らかな佛性が被われ、無名の境地に陥(おちい)るのです。
你火我不火、燒你不燒我。(你〈なんじ〉は火〈おこ〉るも我は火〈おこ〉らず、你を燒いて我を燒かず。)
火という字は、嗔(おこ)るという意味です。
腹が立った時、胸が熱くなるでしょう。結局その胸の中に火が起こってくるわけです。
あなたがおこっても、私は起こらないようにしなければなりません。
もし、あなたが嗔(おこ)った場合、あなたの佛性が燒かれていくのです。
私がおこらなかったならば私の佛性は燒かれません。
続く
(十)五元五徳に中和・還源した状態
老〇様(ラウム)から賦与された当初の霊性は純善無悪であり、平等に具わって、絢爛(けんらん)たる霊光を放っていましたが、歴年の輪廻の中に汚され、傷つき神通力を失ってしまいました。
もし心を鏡に映すことができるならば、恐らく真面(まとも)に自分の姿を見られないはずです。
誰しも醜い自分の心を見て気絶すると思います。
当初は美しい菩薩性を有していても、塵がかかればきれいに拭うべきです。
天は、いかに慈悲があっても、自分で曇らした心は淘汰を免れることはできません。
汚れた水を再度利用するには、一応、濾過槽(ろかそう)で濾(こ)して真水にしなければなりません。
人智の極みで発明された電気計算器以上に精巧な電子計算器をもって、神様は我々百世の功罪を瞬間にして割り出すことができます。
地獄というと迷信に思われますが、天理は厳しく正しい処置法を講じられて人々の善と悪を審判されるのです。
肉体の三食の食事以上に心の糧を求めて満足し潤すべきであります。
法を受けるのはそのためです。
正法に遇り会えば真の面目に帰られ、上天に返れます。
罪業を重ね悪徳を行った人はいよいよ残霊と化して輪廻転生の道に入らねばなりません。
全く一人一人の思考の違いによって苦の因果を受ける人もあり、楽の因果を受ける人もあります。
六万年前、例え仏聖の器として人界に降ったとしても、それを修める人と修めない人の差に差に従って万世の衆生から敬仰(けいごう)を受けられる人もあり、罵(ののし)られる人もあるのです。
例えば二人の息子に同額の資金を与えて商売をさせても、片方は数年後に巨万の富を得る場合もあれば、一年足らずして元金を損した挙句(あげく)、さらに多くの借金を背負う場合もあります。
散じた心霊を収め、集中・統一するのが聖賢の行であり、定まった心意を乱し、放蕩し、自棄するの凡夫の行です。
俗化して腐敗するのは丁度、水が流れに従うごとくに楽ですが、正道に就き、本性を輝くように磨くのはあたかも、逆水に船を漕ぐが如く、常に不抜の努力と忍耐がなければなりません。
人間出生と同時に後天の五行と先天の五行が一致して相影響しつつ生長してゆくものですが、五元と五物、五徳と五賊の主導権の握り具合によって、善悪正邪が転倒してしまいます。
精・神・魂・魄・意の五物が元精・元性・元気・元情の五元に統一でき、喜・怒・愛・楽・欲の五賊が仁・義・礼・智・信の五徳によって制御できるならば、五物・五賊は五元・五徳に還源できます。
そうなれば、自然に先天性が後天命を主宰します。
従って一切の行為はすべて中和・中節して最高の善に帰ることができます。
修行者は皆、円通無礙になることを求めています。ただし、中心の一点を得ずしては大円鏡智に至れません。
丸い円を画くのに分度器を使用しますが、真中の一点を確立してこそ付随して和(輪)が画けて欠ける所無く、余す所がありません。
一点は静の極みであり、輪は動の極みです。
動静相俟(あいま)てば成立しないものはありません。
我々の行為を多方面に和して行きたいと希(ねが)えば、常に静かなる時に霊門を守して離れないことです。
では、五元・五徳に還源した性命の状態を論述します。
仁は元性から出た働きで、至善至悪・純陽無陰の性質であります。
義は元情から出た働きで、公平無私、人我無差別の性質であります。
智は元精から出た働きで、声色不昧(せいしょくふまい)、円沢自在の性質であります。
礼は元神から出た働きで、心気平和、慇懃謙遜(いんぎんけんそん)の性質であります。
信は元気から出た働きで、性質不二、正確不変の性質であります。
静なればすなわち五元となり、動なれば五徳となります。
静は中であり、動は和です。
中心を確立すればその画かれる円は欠けず、乱雑にもなりません。
動静も中和も元は先天の主宰によるところで、五賊の喜怒哀楽欲も五物の精神魂魄意も究極は無の心、本性から流れ出たものですから、中に帰れば過不足なく適宜(てきぎ)に中和されます。
中を外れると節度が乱れて堕落してしまいます。
1.喜びが過ぎると慢心となります。中節すれば、いつまでも留まることなく、努力・奮励(ふんれい)と変じて いきます。
2.怒りが過ぎると乱暴となります。中節すれば、外面に遷り顕れることなく、反省・慎重と変じていきます。
3.哀しみが過ぎると痴保となります。中節すれば、心身をきずつけられることなく、希望・光明と変じていきます。
4.楽しみが過ぎると怠惰になります。中節すれば、放蕩に耽(ふけ)り溺れることなく、勤勉・礼譲と変じていきます。
5.欲望が過ぎると闘争になります。中節すれば、貪欲・妄想に流れることなく、施捨(せしゃ)・和合と変じていきます。
中の状態は全く、無欲恬淡(むよくてんたん:欲が無くあさりしている)・空寂の境地であり、和の状態は欲があっても限度を知り、弁え(わきま)えを持っております。
常に無欲恬淡であれば、五物五賊は各々その位を得て安んじられ、先天性の主宰と命令を素直に聞くことができ、有為を越えて無為の世界に入り、迷愚に落ちることがありません。
続く
五十四、回光返照
後天に於いて人は、思念が多いのでありますが、思いを外に向けると則ち順(したが)い、思いを内に向けると則ち逆らうのであります。
故に順行すれば鬼となり、逆行すれば道をなすのであります。
言い換えますと、外に放つと鬼をなし、内に収めると聖をなすのであります。
人々に修道をお勧めするのは、即ち心を回すことを申しますが、心を回すとは則ち外に向かっていた思いの向きを内に回す事であり、これを回光返照と申すのであります。
少しでも暇があって、もし敢(あ)えて此の裡(なか:明師指点の場)に心を収めて、人我の両相を忘れ、一念を保つならば、即ちこれ苦を離れ楽を得る方則であります。
仏教の経典に『二十六時中、念々莫離這個(ばくりしゃこ)』と申され、二十六則ち十二時中、一念一念は這個(明師の一点)を離れることなきようにと申されました。
孔子様は『学びて而して時に之を習う』と申し、学びて而してとは即ち明師の指点一穴で、時に之を習うとは、常にこれを守ることを申されました。これはすべて人々に心を収める修行法を行うように説いたのであります。
故に道に志す方は、これに注意しなければなりません。
続く
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