真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

Rayの呟き~道と教(宗教)とはどうちがうのか

2023-01-08 20:23:02 | Rayの呟き

孔子・中庸:天の命ずるこれ性(たましい)と謂い、性の率いるこれ道と謂い、道を修めるこれ教えと謂う。道は須臾も離れるべからざるなり。離れるべきは道にあらざるなり。

道は性理の本体で真理です。これを人に与えれば性(霊)となります。故に「性理」または「良心」とも言います。

この性理は私たちの先天的(生まれる前からのもの)根本で、生命の大本です。人は誰でも皆これを受けてこの世に生まれ、またそれぞれの因果や性理に応じて死にいたります。

このように生と死は必ず経由する路であり、古来最も神秘的なこの「性理真伝」を文字で書や経典などには書きあらわさず、口頭で授けられ「以心伝心」のうちに伝えられてきました。

そして、唯一絶対の造物主の天命により、この世に降りてこの道を伝えるために来た者は、たとえ仙佛、聖人といえども、この機密をもらすことは決して許されませんでした。

そして、儒教の四書五経、仏教の金剛経、老子五千言の道徳経・清浄経・黄庭経などのところどころにこの証を秘蔵し、それとなく読む者に暗示を与えてきました。
時の実りによって、老子には元始(ゲンシ)、孔子には項屣(コウモ)、釈迦には燃燈佛(ネントウブツ)が法灯を伝授しました。このように天命を受けた明師が降臨して、この道を伝えてきました。

それに対し教は、道の伝授により、道より発生したところの法と行事によって人々を教化する行為です。道が主体で教は功用になります。樹木にたとえればその根元が道、枝葉が教です。いわゆる五教(仏教・儒教・道教・キリスト教・回教)は皆この道から発生したものです。

儒 教 存心養性 執中貫一  (一を貫く)      忠恕    聖(ひじり)

仏 教 明心見性 万法帰一(一に帰す) 慈悲  仏(ほとけ)

道 教 修心煉性 抱元守一  (一を守る)  感応 神仙(せんぶつ)

耶蘇教    洗心移性 黙祷親一  (一に親しむ) 博愛 神(かみ)

回 教 堅心定性 清真返一 (一に返す)   清真 僕(しもべ)

※日本伝承の 一厘の仕組み、〇チョンも同じ道の心印です。

このように五教の起源と宗旨は同一です。この「一」は、「道」であり「真理」であり、孔子はこれを「吾が道は一をもって之を貫く」と言われました。

教は善行を奨励し、修養して徳を積み、出世(社会を離れ)して修行を極め、道を得るための準備をする段階です。道は教の真髄で、道を得ることより師の指示・伝導を直接得ることができ真の人として進化に万全の備えをすることができます。

孔子の弟子の子貢が「孔先生の文章や学問は学ぶことができましたが、先生の性と道に関して学ぶことができなかった」と謂っています。前者は教であり、後者は道のことです。

これが道と教の相違点であり、教は何時でも授けられますが、道は非常時(歴史的な節目)でなければ授けられません。

道は時には隠れ、時には顕現するものです。それは、道は時に応じ世にくだり(興り)人を選んで伝授するからです。

教はどんな時代でもあります。道が伝えられない時でも教は存在し、道が盛んに興るときでも教はやはり存在しています。

その理由は、教は人道の基本を強化するものであり、なるがゆえに道は教を離れることはなく、教もまた道を離れることはありません。

なぜなら道がもし教を離れれば、教が道から離脱し、異端邪説に走ってしまうからです。

道を信奉すれば、生死を超越して、輪廻を離脱し、西方極楽に登り、あらゆる災難を避け、恨仇を解消し、罪を消滅し、運命を改善して果報が得られます。

故に古人が「天上天下を通じ唯一道のみ最も尊し」と言われたのも決して虚言ではありません。

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「明明上帝無量清虚至尊至聖三界十方萬靈真宰」根源創造主が自ら名乗られた現在の聖なる呼称

2023-01-08 20:21:21 | 道すなわち真理

世界は急変しています。

その根本は、人類史上初めて唯一絶対の根源創造主が主宰する時代に移行しているからです。

豆や瓜が実って収穫できるようになるには創造の妙があり、種から根が付き茎が繁茂して実をつけます。

人類も根源創造主によって宇宙が創生され、主の分霊が地上に降りて、聖なる目的のために壮大な歴史を営んできました。

収穫と同じように、人類もその成果を落実する時に至りました。

これから一万八百年間、役目を果たしたすべての生命が、道すなわち真理を得て、根源創造主の元、故郷「理天」に還ることになります。

過去も未来も決してその姿を顕すことがない存在です。

日本の古代文献の竹内文書では根源創造主のことを竹内文書は、創造神(第1代神)「元無極躰主王大御神 (モトフミクライヌシノオオミカミ)と称しています。

道教・老子:萬靈真宰(ばんれいしんさい)・無極聖母(むきょくせいぼ)天地生育之母(てんちせいいくのはは)

儒教・孔子:上天(じょうてん)・明明上帝(めいめいじょうてい)

仏教・釈迦:阿弥陀(あみだ)・西天仏母(せいてんぶつぼ)瑶池金簿母(ようちきんぼ)

キリスト教・イエスキリスト:神・天に在します父

回教・マホメット:アラー・天主・大神

日本神道:天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・国常立尊(くにとこたちのみこと)

印度のヒンズー教:ブラウマン

シーク教:ラマ

ギリシャ:ゼウスの神

エジプト:オシリス

根源創造主が主宰する時代が来ることは、古代から預言されていましたが、秘密のうちに伝承されてきたため、実際の内容について一般に知られることはありませんでした。

今回、時機到来と考え、本ブログのカテゴリ「天道の淵源」でその淵源を謹んで公開させていただきます。

これは正式な布告ではありません。

正式な布告は、1234年日本奈良県の興福寺に始まって、状況の変化に応じて暫時形を変えて行われてきました。

今から約100年前から中国で広がりましたが、文化革命などで衰退し、その後台湾に渡り台湾から世界に広がりました。

日本には70年前から一時100万人に広がりましたが、覚醒はひとりひとり違うため、正式な金線は極めて限られています。

※金線:天の詔が降りているライン

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第五章 白陽の世界

2023-01-08 20:19:59 | 天道の淵源

第五章 白陽の世界

白陽の世とは如何なる世であるか述べてみたいと思います。

未来一万八百年の事であるので一言にして述べつくせませんが、種々の御聖訓・御神示によって判明した分を組み立てて論点を絞ってゆきたいと思います。

白陽とはすなわち大同世界であります。

大同とは争いのない美しき道徳世界のことです。

末劫を終えた後にそれが実現されます。

その時の人々はみな人間として生まれ合わせたことを歓喜するでしょう。

生まれ出でた源を知り、帰るべき宿を知った人々は始めて己の実相を知り、真善美の姿に接して限りなく鼓舞するでしょう。

今の我々の頭脳と考えでは、とても想像できないほどの素晴らしい世界です。

人生最高の幸福をしみじみと味わう楽しい日々を迎えて悩みや煩いはなく、ただ希望と光明だけに満ち溢れた生活です。

人々はひたすらに修練に励み、ひとり一人が転職を尽くし、神から喜ばれる資格者になれるでしょう。

周囲に気兼ねなく、全身全霊を傾けて自己を磨き、より一層向上してゆけます。

我々の知識・才能は存分に活用され、人々から認められ、善徳者は尊ばれます。

貧富・貴賤の差別なく平等に扱われます。

天地はあらゆる人類の所有となり、好きな土地に住み、好きな時に自由に往来し、自由に交易ができます。

民族愛・国家愛は変じて人類愛・世界愛・生命愛となり、悪い方面に財力を消費せず、良い方面の施設が発達します。

天下は公のものですから、総て大事にしなければならない義務があります。

有能賢徳の人は、真っ先に選ばれて審議の道を推行し、曲がった道徳観念は一掃され、正しい情操感が体得されて、侵略・征服の野望心は芽生えなくなります。

表面だけではなく、真の心の和睦が得られ、人々はみな心と心が通じ合います。

老人・年配者はすべて自分の親と見なされて、孝養を尽くされ、子供・幼児はみな自分の息子・娘ともなされて愛着を受けられます。

みな妙智慧の開悟を得ているから正しい判断力を持ち、善意は認められ、悪意の人も浄化されてしまいます。

間違った考えを抱く人がいない為に行動についても誤解されることはありません。

智慧が増すから正確な聴力や思考を得られ、聞き違いやいい違いが生じませんから極解されることもありません。

人々は礼儀を重んじますが、決して虚礼ではなく、媚び諂いは通用せず、追従的八方美人型は醜く見られます。

妄想邪念が生じませんから心気の平和が得られ、真の安心立命が得られます。

天然採食が励行され、自然に順応した睡眠が摂られ、寝食ともに十分体のためになります。

恐怖不安がないから陰険冷酷な人にならず、罪と罰の連環作用がなくなります。

施しをした人は数倍の報酬を受けられるから良い行為は自然に盛んになり、軍隊はなくなり、刀槍干戈(とうそうかんか:武器)は庫に納まります。

暴力は許されず、暴力者もなくなるから武力での解決を必要としません。

お互いの気持ちが理解されるために、言葉の弁解を必要としません。

我欲・貪欲・利己的な考えは恥となり、だんだんと消え、悪徳者によって巨富を握る
者もなく、財力・勢力を誇る人は全く見られない存在となります。

彼我の区別をする必要もなくなります。

年功者は優先的に労りを受け、働ける人はそれぞれの適役に任用され、失業者・無職者もなくなります。

皆こころから奉職しますから喜々として不平不満を起こすことはありません。

少年や幼児は温かい養育を受けられるので、素直・純心のままで成長します。

悪の元となる環境・文化・施設がないので不良にならず、暗い家庭がないから憂欝や陰気の性格が生まれず、明朗天真な生活が営なまれますから、狡猾や悪賢い子供はいません。

鰥(やもお)・寡(やもめ)や孤児には、それぞれ完全な扶助が施されます。

廃残者・疾病者には十分の治療と慰安が受けられ、男子にはおのおの適性の士農工商の職務があると同時に、女子にも尽く(ことご)く衣食住の帰宿があります。

老〇様(ラウム)は男女を同じく数に造られていますから、おのおの縁に合った配偶者が得られます。

心から和合しますから離縁をする人がなくなります。

物品は人類生活の要素ですから、不要の物は徒(いたずら)に捨てられず適当に処理され、有用な物は活用され、貴重なものは大事に保管され、世宝として取り扱い収蔵されます。

自己の利益や貪欲のためばかりを追求するような加害行為は許されません。

事業に対する熱意と労力は当然尽くすべきですが、決して個人的・家族的のためではなく、天下共有のため、大衆享受のため心からなされるでありましょう。

皆、兄弟同胞としてお互いに敬愛し、長幼に序あり、夫婦敬うこと賓客のごとく、皆一致協力して人類福利のために至誠忠勤に励むことになります。

風俗は違っても美しさに変わりはなく、おのおの異なった文化の形態が尊重されて栄え、奸邪の策謀をする人がいなくなるから、詐欺横行の悪事は絶滅されます。

増悪・怨恨がないから殺害や放火その他、罪を犯す者もありません。

遺失物は拾われる心配はなく遺失者に帰ってきます。

不足・不満・不平の人がいないから、盗賊・痴漢の跋扈する理由がなくなり、上下和気靄々として諸事を運営して、独裁者・権力者のために苦しむことはありません。

暴虐者がいないから、暗黒に処刑される政事は行われなくなります。

夜間の外出にも恐怖がなく、門戸に鍵をかける必要もなく、就寝中も門を閉める必要もありません。

人類愛だけではなく動物愛にまで及んで生物を食する者もなく、動物はそれぞれ共に群れをなして栄えてゆけます。

偸み殺しのない世、貪りや争いのない世となります。

以上が白陽の大同世界であります。

「五風十雨」と言って五日に一回のすがすがしい風が吹き、十日に一回の適量な雨が降り、昼間は晴天で夜間は潤いを満たすに必要な雨が降り、天災は全く起こって来ません。

それは、人禍による原因がないからです。

白陽一万八百年の間は、このような時代が続くと御聖訓に示されています。

我々は御聖訓を帯して、この最高理想に向かって努力せねばなりません。

目的に達するまで貢献を惜しまず、礎(いしずえ)となり、白陽の青史に掲(かか)げましょう。

最後に、「道脈図解(どうみゃくずかい)」に記された白陽八卦図の詳細を訳して添付します。

「白陽八卦は天地の正気であります。開闢混沌(かいびゃくこんとん)を呂祖(りょそ)は、

『天地開闢は地支(十二支)の名を以て系(みち)とする』と言われました。原(もと)は四古に分けられ、

『亥・子・丑』を太古となします。

 すなわちこれが混沌の分(世界が未だ成り立たずして天地の別がないこと)です。

『寅・卯・辰』を上古とします。

 すなわちこれが混沌の化(天地成立し事物の分化発展すること)です。

『巳・午・未』を中古となします。

 すなわちこれが混沌の関(天地万物が発育し純熟し事物が締め括(くく)られること)です。

『申・酉・戌』を下古となします。

 すなわちこれが混合の合(天地万物が究極に至り一に合すること)です。

分・化・関・合の四古の数が尽きると未(ひつじ)の会の初めであり、否極泰来(ひごくたいらい)の時です。

一元の内に大なる三陽の運があります。

青陽・紅陽・白陽です。三会(白陽)に至って収円普度されます。

先天・後天とも末期の一着の果を証せられるのです。

気運がここに至って卦位(けい)が復(また)移りました。

故に東は坤(こん)、西は乾(けん)、南は離(り)、北は坎(かん)と変わりました。

時が至れば自然に娑婆の世界が改められ、蓮華の国となり、花々しい世が改められ清静の世となります。

人は仏面仏心になり、家々は夜も戸を閉ざさず、天下は一家となり、万国は一理をもって通じます。

賢と能は選ばれ、信を講じ、睦を修め、老には終わる所があり、壮年などは用いられるところがあり、幼い子は培われて長ずる所があり、鰥(やもお:妻のない男)・寡(やもめ:夫のない女)・孤・独廃疾者(はいしつしゃ:障害者)は皆養われる所があります。

これを大同世界といい、そのような大順(だいじゅん:大いなる正当)の景象は漸次至ってきます。

続き


性理題釋~六十、聖賢と愚凡の区別

2023-01-08 20:18:32 | 性理題釋

六十、聖賢と愚凡の区別

聖賢(せいけん)と愚凡(ぐぼん)を分ける理は、大変簡単に明らかにすることが出来ます。

それは人間各々の気稟(きひん:気質)が同じでなく、物慾の異なることに因って、理性の発展が違うからであります。

気稟が浅く、物慾が少なければ、理性の発展が強く、志を立てて古聖(こせい)や先賢(せんけん)の法を効(なら)う者は、即ち聖人賢人であります。

然し、気稟は深く、物慾が多ければ、理性の発展が弱く、鏡花(きょうか)のような仮景(かけい)を貪恋(どんれん)する者は、即ち愚人(ぐじん)凡夫(ぼんぷ)であります。

言葉を換えますと、誰でも気と慾にうち克(か)って理性を明らかに復(かえ)す事が出来れば、即ち聖賢であり、気と慾にうち克って理性を恢復(かいふく)することが出来なければ、即ち愚凡であります。

譬(たと)えば、明るい鏡の本体は原来純明(がんらいじゅんめい)でありますが、然し、時の経過が多ければ、段々と塵埃(じんあい)がついて来て、もしも洗ったり拭(ふ)いたりしなければ、その明鏡(めいきょう)も決して再び明るくなることはありません。

人の理性も又この通りであります。

故に儒教では『存心養性(ぞんしんようせい)』を説き、道教では『修心煉性(しゅうしんれんせい)』を説き、又釋教(仏教)では『明心見性(めいしんけんしょう)』を説かれましたが、その法は同じからずと雖(いえど)も、人に理性を恢復(かいふく)せしめることを教える所は即ち一つであります。

続く