真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

Rayの呟き~道と教(宗教)とはどうちがうのか

2023-01-18 22:49:59 | Rayの呟き

孔子・中庸:天の命ずるこれ性(たましい)と謂い、性の率いるこれ道と謂い、道を修めるこれ教えと謂う。道は須臾も離れるべからざるなり。離れるべきは道にあらざるなり。

道は性理の本体で真理です。これを人に与えれば性(霊)となります。故に「性理」または「良心」とも言います。

この性理は私たちの先天的(生まれる前からのもの)根本で、生命の大本です。人は誰でも皆これを受けてこの世に生まれ、またそれぞれの因果や性理に応じて死にいたります。

このように生と死は必ず経由する路であり、古来最も神秘的なこの「性理真伝」を文字で書や経典などには書きあらわさず、口頭で授けられ「以心伝心」のうちに伝えられてきました。

そして、唯一絶対の造物主の天命により、この世に降りてこの道を伝えるために来た者は、たとえ仙佛、聖人といえども、この機密をもらすことは決して許されませんでした。

そして、儒教の四書五経、仏教の金剛経、老子五千言の道徳経・清浄経・黄庭経などのところどころにこの証を秘蔵し、それとなく読む者に暗示を与えてきました。
時の実りによって、老子には元始(ゲンシ)、孔子には項屣(コウモ)、釈迦には燃燈佛(ネントウブツ)が法灯を伝授しました。このように天命を受けた明師が降臨して、この道を伝えてきました。

それに対し教は、道の伝授により、道より発生したところの法と行事によって人々を教化する行為です。道が主体で教は功用になります。樹木にたとえればその根元が道、枝葉が教です。いわゆる五教(仏教・儒教・道教・キリスト教・回教)は皆この道から発生したものです。

儒 教 存心養性 執中貫一  (一を貫く)      忠恕    聖(ひじり)

仏 教 明心見性 万法帰一(一に帰す) 慈悲  仏(ほとけ)

道 教 修心煉性 抱元守一  (一を守る)  感応 神仙(せんぶつ)

耶蘇教    洗心移性 黙祷親一  (一に親しむ) 博愛 神(かみ)

回 教 堅心定性 清真返一 (一に返す)   清真 僕(しもべ)

※日本伝承の 一厘の仕組み、〇チョンも同じ道の心印です。

このように五教の起源と宗旨は同一です。この「一」は、「道」であり「真理」であり、孔子はこれを「吾が道は一をもって之を貫く」と言われました。

教は善行を奨励し、修養して徳を積み、出世(社会を離れ)して修行を極め、道を得るための準備をする段階です。道は教の真髄で、道を得ることより師の指示・伝導を直接得ることができ真の人として進化に万全の備えをすることができます。

孔子の弟子の子貢が「孔先生の文章や学問は学ぶことができましたが、先生の性と道に関して学ぶことができなかった」と謂っています。前者は教であり、後者は道のことです。

これが道と教の相違点であり、教は何時でも授けられますが、道は非常時(歴史的な節目)でなければ授けられません。

道は時には隠れ、時には顕現するものです。それは、道は時に応じ世にくだり(興り)人を選んで伝授するからです。

教はどんな時代でもあります。道が伝えられない時でも教は存在し、道が盛んに興るときでも教はやはり存在しています。

その理由は、教は人道の基本を強化するものであり、なるがゆえに道は教を離れることはなく、教もまた道を離れることはありません。

なぜなら道がもし教を離れれば、教が道から離脱し、異端邪説に走ってしまうからです。

道を信奉すれば、生死を超越して、輪廻を離脱し、西方極楽に登り、あらゆる災難を避け、恨仇を解消し、罪を消滅し、運命を改善して果報が得られます。

故に古人が「天上天下を通じ唯一道のみ最も尊し」と言われたのも決して虚言ではありません。

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弥勒真経~七、天花(てんげ)の老〇玉泉(ぎょくせん)を垂れ 収圓顕化(しゅうえんけんげ)して古東(ことう)にあり

2023-01-18 22:47:21 | 弥勒真経 解釈

天花とは道の高きことの形容できない意味を例え、老〇玉泉を垂れとは、無生老〇が金線(きんせん)の大道を降ろして暗(ひそ)かに賢良なる人を選び、群衆(ぐんしゅう)を普度(ふ土)することである。

老〇が金色燦然(こんじきさんぜん)たる一条の天道を降ろした原因は賢を選び、原人を指点(してん)して一人一人、根に帰り、親を認め、正門に依らしめるためである。

諸霊及び九十六億の原人は等しく法船に登らなければならない。

それは収圓の日がいよいよ終局に至った時はすなわち法船が開く日でもあるからである。その時、得道したすべての人々は龍華大会(りゅうげたいかい)に赴くことができる。

又、種々の顕化(奇跡)が行われて古き東土の地に大いなる不可思議事(ふかしぎじ)が催(もよお)されるのであります。

続く


第八章 天道の修道法(二)内功の行法ーその3

2023-01-18 22:45:10 | 天道の淵源

(二)内功の行法ーその3

始めは朝晩の空気清浄時に、姿勢を楽にして半時間から一時間、又はそれ以上に増やします。

開目は陽にして動じ易く、閉目は陰にして沈み易く、従って軽く閉ざして陰陽相通ずる状態にするのが望ましく、先に濁気を出し尽くしてから徐々に清気を吸入すべきです。

吐く息と吸う息の間隔は長いほど法輪が大きく転じ、ついには始まりも終わりもない大円鏡智となり、綿々として果てるところがありません。

その中にすっかり虚無幽玄の境に入り、一切の煩悩・雑念を遠離してしまいます。

調息に入る前には予(あらかじ)め何かを思念したり、一つの幻相に執われたりしてはなりません。

玄関は天地の根に相当する所ですので呼吸息々として根に帰さなければなりません。

玄関は谷神の処であることは、道徳経の「谷神は死せず。是を玄牝(げんぴん)と謂う。

玄牝の門、是を天地の根と謂う。

綿々として存するが若(ごと)く、之を用いて勤(つか)れず。」の中に証(あか)されています。

玄牝の門、すなわち玄関に綿々として絶えることなく霊気を存続し、これを用うれば、いつまでもその働きが継続し、自身は少しも疲労を覚えることがない意味です。

道は尽きざる生命を持ち、無限の働きをなすものですから、道を得れば無限性に通じます。

得た道の中心が玄関ですから、玄関に全心霊を集めていれば霊光の輝きは日とともに盛んになります。

谷神とは、道に譬(たと)えた詞(ことば)で、道は万物を生じ養うから、養いの神と解されます。また、谷は低く底をなしているのであり、あらゆる水などの流れ込む所です。

老子は、谷の姿が道に似ているために谷をもって道に譬えられました。

従って人身を一小宇宙に譬て言えば、凡(あら)ゆる霊気の環(めぐ)リ集まるところは谷なる玄関地です。

玄関すなわち谷神地に霊気が流通し、自然に次第に純熟して来ますと、法雨や甘露が上漕から下漕に流れ、浩然の気となり、更に充実して神霊と化し、大虚に還源して、老〇様の大霊に融合できます。

守玄中、霊気が全身を循環する過程に、もし景色や人物の姿が見えたり、声音や韻律が聞こえたり、動物や草木の幻影が浮かんで見えたりするのは未だ行が熟していないからです。

神仏の姿や過去のことが連想されたり、未来のことが予告されたりするのも完全に色相から離れていない証拠です。

すぐに雑念・妄想に冒されたり、睡魔に襲われるのもよくありません。初めの数か月は不慣れのために迷いが生じたり、苦労も多いことですが、徐々に時間と空間を超越して真無に入れます。

心を常に一処に在し、凝り固めの工夫が日進して純熟すれば心念を固(もと)より起こる処なく、去る処もなく、我もなく、住する処もなくなります。

たとえ泰山が崩れても驚かず、美女が前に群をなしても動揺しません。内功の煉磨が加熱して来るとその顔姿から形容できないほどの尊厳と柔和と慈悲の聖気が現れて接する人の頑な(かたくな)な心を温めます。

本性が常道に立ち復(かえ)るから私心がなくなり、寛容な人柄となって太古の聖者の風格が備わります。

自己の本性に目覚め、明らかに見ることができますから、人生の疑惑がすべて自然の中に瓦解(がかい)され、忽然(こつぜん)と無生を悟って久遠の生命を得られるのであります。

守玄の成就を得た状態になれば醍醐感を満喫し、幽雅な仙境に入った趣に浸って感激を抑えられないほどになります。

決して怪・力・乱・神の類ではなく、無限の真理に通じ、大虚空(だいこくう)に融合した喜びなのです。それは言葉の表現や文章の描写では尽くされません。

味覚はやはり自分の舌で味わうべきであって、人の体得を見聞きして会得できるものではありません。

老子様は、「人によく常に清静なれば天地ことごとく帰す。」と言われましたが、全く守玄した時は森羅万象が求心的に我に帰り、修煉によって集結した大霊光が今度は遠心的に人々に及び、波紋が拡がるように、または放射状的にすべての霊に浸透して救いの力となります。

天道は半聖半凡の修道法で許されていますから、従来の苦行的修道法と異なっています。

形式を廃し、心の伴わない戒律を強要せず、隔離された特殊環境での修行に重点を置きません。

在家のまま、凡俗のままで、全ての人々を救おうとされています。

老子様は、「其(そ)の光を和(わ)し、其の塵(じん)に同ず。」と言われたのは、燦(きら)めく霊光を和らげ、坐して守玄統一を行うのは初歩的段階であり、決して究極的目的ではありません。

従って仕事の合間や朝起きてすぐ、または睡眠前に一定の時間を計って心神を調整すればよく、要は道を念ずる心を培うことですから無意識の守玄が肝腎です。

二六時中、玄を守るようになれば特別の坐行を必要としません。

仕事中も対話中も中心を離れないことが内功の要諦(ようたい)です。

一日守玄すると言う事は極めて至難事(しなんじ)で、隙間があると霊気は流れて中心を失い、物に着してしまいます。

長い修行によって自己の心を制御して散漫させないようになれば、霊身一体となって徳を離れず、道を忘れず、物事の判断が正しい尺度に叶います。

たとえ眼を開けていても常に意でもって注視できるように実行できれば人格円満になり、挙動が謙虚になり、独り自ら高し清し的な態度になりません。

位が高くても誇らず、低くても媚(こび)ず、富豪にして驕(おご)らず、貧困にして濫(みだ)しません。

為す事、言う事がみな理に叶(かな)い、五感を通じて見聞味触することは、中を得て和が保たれます。

煩悩が消滅し、恐怖が削除されて妙智に一段と加霊され、無中の真、真中の無を悟って人事の物議を加味しだすようなことはありません。

霊の中和を得ることができ、喜んでも留まらず、怒っても遷(うつ)さず、哀(かな)しんでも傷つけず、楽しんでも淫(みだ)りにせず、人心常に清静にしてすべてに融和ができます。

喜怒哀楽の情は外物の誘惑や刺激に応じて初めて起こるものですから、その未だ発し起こらない時の中の状態に立っていなければ、情に流されて偏ってしまいます。

中に立脚していれば流されても過ぎたり、或いは及ばなかったりする欠点がなく、中節され当然の程合いに適(かな)って情の正しきを得て理に悖(もと)らないものであります。

これが和です。

つまり、中とは老〇様が命じて人間に賦与した性を言うのです。

中を守るとは、本性に帰ることで修行者の大前提であります。

かくて天性が玲瓏(れいろう)となります。

静中に静あり、動中に動ありで、これがまた一切の動の源であります。

釈尊 明心見性(めいしんけんしょう)、孔子様が存心養性(そんしんようしょう)、老子様が修心煉性(しゅうしんれんしょう)、キリスト様が洗心移性(せいしんいしょう)、マホメッド様が堅心定性(けんしんていしょう)と、すべてこの心性の還源を願って世人に教え伝えられていました。

みな純真なる天性を回復して無極に和合・融合することを一致して説いています。

とにかく急速に成就できなくとも漸進的に内功の修得に励み、自他の向上を計るように心掛けることを念願してやみません。

続く


性理題釋~七十、修養の工夫(くふう)

2023-01-18 22:43:08 | 性理題釋

七十、修養の工夫(くふう)

止まるを知りて而る後に定まるあり、とありますが、仏教では禅定(ぜんじょう)と申し、妄念(もうねん)を起こさぬことを禅(ぜん)と言い、坐して本性(ほんしょう)を見つめるを定(じょう)と申します。

止まるを知ることは、明師(めいし)の指点(してん)を受けなければ、止まることを知ることは難(むずか)しい訳であります。

定まるとは聖人であっても増(ま)さず、凡人(ぼんじん)であっても減(へ)らず、定まって変わらざる所の意味を申したのであります。

下句(かく)の、而(しか)る後に能く静かなり、能く安らかなり、能く慮(おもんばか)り、能く得(う)るとあるのは、すべてこの「能く」の字を用いております。

文字の上で固(もと)より定まるありと申したのは、増(ま)さず、減(へ)らず、垢(あか)つかず、浄まらざる境地であります。

又能くの字は一分の力をかりた言葉であります。

力には大小や長短の分別がありますが、静(しずか)・安(やすらか)・慮(おもんばかる)・得(うる)の修行法に於いても、原(もと)より性はことごとく同じでありますけれども、その用いられる力の同じでない事に因って、得る所の涅槃(ねはん)の妙徳(みょうとく)も亦同じではありません。

故に修行法には三乗(さんじょう)の法があり、蓮台(れんだい)にも九品(ぼん)の蓮台があると申すのであります。

続く