真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

弥勒真経~四、天心収圓(てんしんしゅうえん)にして聖号(せいごう)を掛(かか)げ 時到りて神兵を点ずるを待つ

2023-01-15 17:46:46 | 弥勒真経 解釈

天真とは天然真人のことであり、弓長祖(ゆみながそ)の御号である。

収圓とは、諸々の佛仙神聖及び九十六億の原子、千門万教の諸霊共に法船に登り、龍華三会(りゅうげさんえ)に赴くことである。

聖号を掛(かか)ぐとは、凡(およ)そ龍華会に赴かんと欲する一切の縁者はすべて先に号を登録し、名前を列記しなければならない。

然る後に初めて龍華会に赴くことが許される。

神兵とは法力であり、一度、時至らば神兵を点ぜられ、法力を顕して収圓を守り助けるのである。

つまり、弓長祖が世に現れて万民を収圓されることを予言された一章である。

続く


第八章 天道の修道法 (一)得道から了道までの行法

2023-01-15 17:44:24 | 天道の淵源

(一)得道から了道までの行法

古今を通じて秘伝付法している天道の三宝は、十六代劉祖(りゅうそ)の頃に紅陽時代を終え、それを受けて十七代祖路祖(ろそ)が白陽の初代祖となり、一般庶民の縁者に普く伝えることとなりました。

恩師弓長祖(ゆみながそ)は千九百二十五年、路祖御逝去後、実質的に道務を総掌され、三十年正式に道盤を担われ、全世界伝道を号令され、更に偏疆地(へんきょうち)に法輪を転じ、法船に登ることを容易ならしめられました。

師の恩徳によって有縁の人には一段と早く得道することができるようになったわけです。

誰でも引保師(いんほし)の紹介と保証を得て荘厳な儀式に参加せられ、一指を受けて真の面目が明らかになり、超生了死を得ることができます。

得道とは要するに、神秘の門戸、生死の関扉(かんぴ)を開かれることであります。

我々が開導され得た玄関竅(げんかんきょう)と、聖人仙仏がかって修行者の折に求めていた法と全く同じ法門であります。

今までは単伝独授の時代であったために、広域の修行者に頂点を極められなかっただけで、佳(よ)き時代に生まれることができた我々は、普伝の機会に先にその法の真髄を授けられました。

凡そ得易いものは失い易く、逆に得難いものは失い難く、艱難辛苦を経過して得た成果は永遠にその胸裡(きょうり)、脳裡から去ることはありません。

その点から言って、今の我々はもっと修行と参悟を重ねる必要を痛感します。

古聖は何万何十万名の修行者の中から選ばれて法授されましたから一旦得道すれば成道了道するまで精進を止めることがありません。

得道することが最も至難事で、血のにじむ程の苦行も畢竟(ひっきょう:結局、つまり)、永楽を求めるためで、霊的の快適愉楽(ゆらく)を無限に堪能するために、肉体の酷使・練磨を繰り返していました。

得道から了道までの段階には、修道→学道→悟道→伝道→行道→成道→了道の順序があります。これらの事柄を体得し、急ぎ課せられた役目に精勤して還源すべきであります。

先ず六根を清浄にして内外に醍醐味を満喫すべきで、世の一切の煩悩と憂愁となるべき事柄を少しでも清算し、心身を洗滌(せんじょう)し、凡俗に混じっていても心の作用によって、この生老病死のあ哀怨・苦惨を遠離(おんり)すべきであります。

修行者の毎日は客観的に普通人の苦と変わることがないかも知れません。

あるいはそれ以上にも見られますが、その根底から苦の因を削除してしまったので、主観的には苦は失っています。

霊は永遠に実在するのですから、霊自体が苦を感覚意識しなかった時は同時に久遠(くおん)の楽を得ることに繋がります。

この状態が悟りですが、悟りに至るには器の大小に関係があります。

人によって迷いから瞬間的に大悟することがあります。

ただ、そのような状態に至るには、夙世(しゅくせい:前世から)の善因善徳があるのと、得道した時から深く参悟を決意して内外の行に励むことによって到達します。

つまり修道・学道に志すことです。

法を得ながらそれを我が身心に於いて修めないのは、宝の山に入って空手のままで出て来るのと同じく宝の持ち腐れです。

一般人は身心の満足のみ要求します。

不安と煩悩しかない人生に貪欲して究極何の役にも立たないにも関(かか)わらず、心身を擦り減らしています。

古聖は俗塵を離れて清静の地、安心立命の法を探し求めました。

これには相当の犠牲を覚悟し、至誠息(や)まず、不退転の強い決心が必要であります。

これに比較して我々は他動的に法門をに会い、苦労知らずに極楽天国へ帰る法を得られました。つまり前借りをさせて頂いた訳です。

しかし、前借りをしても修道という条件は後になっても果たさなければなりません。

今と昔の修行法に多少の違いがあっても、智を高め、徳を積むことに変わりはありません。

むしろ、今の時代の方が古に比べてずっと輝かしい功徳と智慧を兼ね備えることができます。

在家のまま俗事に留まって道を修めることが許されます。

遠く深山幽谷に蔵(ひそ)むことなく、温かい家庭と在りの儘(まま)の環境で聖人の道をたどることができます。

年齢の差なく、老幼男女共平等に同等の功徳が建てられます。

勿論それには常にして変わらない誠を抱き、怪力乱神を語らず、迷信惑信に走らず、正しい真理に従って行い、妄想を断ち、疑惑を解き、規則に基づいて修めれば成道・了道は決して難しくはありません。

古聖は得道するために修道していましたが、今の我々は成道するために修道するのです。

得難い心法を得たら、次は旦に修行者の求道精神と確個不動の信心と恒常不変の決心と大慈大悲の仁愛の心があればよいのです。

天道の修道法に大きく分けて内功・外功の二通りがあります。これを忠実に修め、学び、悟り、身を以て行えば天人に祝福され大きく成就して大成果が得られます。

道を修めるには、先ず道とはいかなるものであるかを学ばねばなりません。

学道の方法細則に五箇条があります。

博学・審問・慎思・明弁・篤行の順序で学ばなければ、物事の正しい道理を知ることができませんから

博く学んで遺すことなく知ることです。

学んで理解することができないことはこれを問います。

故に審(つまびら)かに問うて惑いを解くことです。

次にこれを理解して自ら思索してこそ深く悟る事が出来、それ故慎んでこれを思い考えるべきです。

慎んでこれを思い考えたならば心に自得できます。

自得したものはその公私・義理・是非、真妄の区別を明らかに弁別してこの様にして善を択んだ上は、これを実際に周囲に施して、篤(あつ)くこれを実行して失わないようにすべきです。

博学・審問・慎思・明弁・篤行の五つの内、博学と審問は人に学び、人に問うものですから外的智識であり、慎思・明弁の二つは、自ら思い自ら弁ずるものでありますから、内的智識であります。

内外智識の集積によってさらに妙智が生じ、臆せず篤く実践行道することです。道を学ばなければそれまでのことでありますが、然し一旦縁あって法を得、道を修めることを決意し、玄妙の奥裡を学ぶ以上は成就しない限り中止したり廃止したりせず、必ず成し遂げるまで学び、問い、考え、分別し実行しなければなりません。

天質明強の他人が一たび書訓を読んで分かるならば、我々は百遍読んで分かればよい訳で、努力と精進を限りなく行っていれば自分が明理できるだけではなく、そのような態度は人をして感奮興起させることができ、直接・間接周囲に影響して浄化の助けになれます。

学道・悟道の課程を纏めると、

(1)御聖訓と各教の経典聖書を広く読みます。

(2)真理・妙義を深く究めます。

(3)文字・文章に表現できない仏聖の玄関・真髄を悟ります。

(4)誠心正心、身を修め、人格性格を高めます。

(5)家を斎(ととの)い、研修会に出て自他共に磨き、聞法(もんぽう)を深くし  ます。

(6)悪趣・癖性を改め、対内・対外的に模範となります。

(7)守玄の功に励み,聖賢の言動に効(なら)います。

(8)慎思明弁・明善復初し、天道の使命を明らかに悟り、善を択び、衆生済度に身命を賭けることを決意します。

以上が内的自修の在り方で、この段階に至ればそれを具現化して形の上に顕すべきです。

それが伝道・行道であります。

天道が三期の世に降って来たその最たる使命は、九十六億の原子を共にこの際理天へ帰らすことですから、その線に沿った仕事に各々の智能を傾けて尽くせば良いのです。

順に挙げて書くと、

(1)縁・不縁に由らず自分の体得した法義を説き続けます。

(2)得道者を一人でも増やし、良き人材へ成全します。

(3)仏堂を開設し、勤めて礼拝します。

(4)愚悪な人を良善に導き、近隣遠友を普く感化します。

(5)衆生の難儀を助け、災難を救います。

(6)力に応じて財施(ざいせ)・法施(ほうせ)・無畏施(むいせ)を行ます。

(7)間違いに走らず正しい方向へ大衆を導きます。

(8)聖訓を印刷し、道書を注疏(ちゅうそ:経書などを分かりやすく解説する)して広く配布します。

(9)各階層に進出して道義を説き、法船を方々に駕して得道の便を計ります。

(10)亡霊を救い、三層済度に心魂を注ぎます。

以上が伝道・行道の大要ですが、斯様(かよう)な聖事に生涯を通じて奉仕することができれば、成道・了道して天命を完(まっと)うできる訳であります。

成道・了道の状態とは、

(1)仮の身体を脱し、凡を越えて故郷である理天に帰ることです。

(2)輪廻を根絶して無量寿・無量光の境地に入れます。日月と寿(とし)を競い、天地の化育と参賛できます。

(3)功徳円満になり、白陽万八百年に芳名が掲げられられます。

(4)後世の人から尊敬と崇拝を受け続けられます。

(5)無極に帰り、天事を弁理されます。

(6)九代の子孫・七代の先祖が超抜を受けられます。

(7)霊は逍遥自在を得られ、功徳の大小高低に応じて仙仏の位を享(う)けられます。

この様に細大漏らさず、我々の思念・行為が上天に登録され、天榜(てんぼう)に号が掛下られて、先天・後天に於いて不滅の栄光を受けて尽きる所がありません。

従って、今の修行に苦が深ければ未来の楽も又比例して大きく得られます。

素直に神仏に使役される人は幸せです。

心から天命を受け入れられる人は、天時・地利・人和の三拍子に遇(めぐ)り会う縁を得られます。

以上大別して修道から了道までの在り方を順次列挙しましたが、これに又個人差別があり、学・悟・伝・行に早い遅いがあって、画一的ではありません。

それは因縁の為せる業に(わざ)に由りますが、今の時点で知覚・感覚を同様に有している我々に皆挙(こぞ)って天時到来に目覚め、至法伝来に迎合して共に新しい正しい時代を造って頂きたいのであります。

次に、内攻・外功を更に分解して参悟の助けに供します。

多少前述と重複する所もありますが、これが強調の重点と思って頂きたいと思います。

続く


性理題釋~六十七、三五凝結(ぎょうけつ)の功

2023-01-15 17:41:02 | 性理題釋

六十七、三五凝結(ぎょうけつ)の功

三五は道教に止まらず、儒(じゅ)と仏においても亦同じであります。

儒教では三綱五常(さんこうごじょう)であり仏教では三皈五戒(さんきごかい)であり、道教では三花五気(さんかごき)であって、その名をことにしながら理は同じで、功をなし遂げた時には、一仙(いちせん)・一仏(いちぶつ)・一聖(いちせい)となるのであります。

これは即ち外の三五であり、又内にも三五がありますが、これを簡潔(かんけつ)に申しますと、無極老〇(むきょくろうぼ)様の壇詩(だんし)に『二五相交えて性命全く、三五凝結して人天を貫く』ともうされています。

一例をとって申しますと、一月(旧暦)の月の初めの月光は暗いが、三五の十五、即ち十五夜になれば月が円満になるのと同様に、人生も三五の十五才になれば成丁(せいてい:成人)するのであります。

大道も此の如くであります。

何を二五となすかと申しますと、それは日月であります。

又何を三五となすかと申しますと、性の上に二五を加えたものを申すのであります。

二五は天に於いてはは、日月をなすのでありますが、能く相対して照らすのであります。

人も、もし回光(えこう)して凝結し、分散せぬようにすることが出来るならば、それが即ち本原(ほんげん)へ返還する法であります。

経書上の話には、道義(どうぎ)が沢山含まれているが、もし明らかならざれば,一性一竅(きょう)を抱いて推解(すいかい)すべきであります。

明師を訪ね、指点(してん)を得たならば、自然に一節一節を知る事が出来るのであります。

わかった後には一切を抛開(ほうかい:一切を投げ捨てる)することが出来るであり、又よく自らこれを修めてなし遂げることが出来るのであります。

何故かと申しますと、経典に『吾説く所の法は、筏(いかだ)の如きの喩(たとえ)にして、岸に上り得れば、亦船を要せぬ如きなり』と申されました。

続く


弥勒真経~三、中原三星(ちゅうげんさんしょう)の地に落ち 四川王桃心(しせんおうとうしん)にて大いに証す

2023-01-15 00:33:33 | 弥勒真経 解釈

中原とは中央枢軸(すうじくのことであり、中心玄関のことである。

三星の地とは三大明星の寶地である。

つまり二つの星(二目:にもく)があり、丁度日月(にちげつ)の明(めい)の如く、真中に一顆(いっか)の明星(玄関)があって宇宙に充満し、三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)を遍(あまね)く照らす無縫(むほう)の寶地である。

此の三星の寶地は正に修錬をする人にとって手を下(くだ)し、功夫(くふう)を用い、究極に落着する場所である。

四川とは眼耳鼻舌(げんじびぜつ)の四門であって川に準(なぞら)えているのは四つの流れが中央戊己(ぼき:つちのえ、つちのと)の土(とら)に連なっている。

丁度、田の字型になって中央に合流する。王とは法王であり、主人翁(しゅじんおう)である。

桃心(とうしん)とは桃の中の核心である。

桃の皮と肉を脱せば内部の核心を見ることができる。

核心とは玄関の一竅(いっきょう)である。

修業の善男信女はよく三星の寶地に依(よ)って修錬し、時に応じて習い、守り、住し、常に玄機(げんき)を参悟すれば、功徳円満(くどくえんまん)になって、にわかに法王を見ることができる。

これは玄関の一竅こそ不二法門(ふじほうもん)であることを証明し、此処(ここ)によって成道することを示している。

続く


第七章 真の学問と学の階級

2023-01-15 00:31:44 | 天道の淵源

第七章 真の学問と学の階級

學問の道は極めて広泛(こうはん)で奥深く、一生かかっても極めつくされるものではありません。

これを会得するのに、平易な物もあれば困難なものもあり、滑らかなものもあれば険しいものもあります。

何れも努力を必要としないものはありません。

學問は人に及ばないものであるが、又人より失い易いものであります。

ちょうど逆水に船を漕(こ)ぐようで、進まなければ即ち後退してしまいます。

限度が無いから自分の程度が分かりません。

學問は真理に近づく道でありますから分野や性質が違っても完成への到達点は一つであります。

人によって道程の差異はあっても、極めるのに純粋性がなければなりません。

頭脳・性別によって早晩の別はあっても、熱意が欠ければ不可能です。

孟子は「学問への道は放蕩化(ほうとうか)・散漫化した心を収めることに外ならない。」といわれました。堕落・怠惰(たいだ)した心に鞭を加えて、奸巧(かんこう:ずるがしこい)なく精勤し完成にいそしむことです。いかなる道であっても、習い學ばなければ成就できません。

老子は、「わたしは聖人ではない、學んで知ったのである。」といわれました。

孔子は、「わたしは、生まれながらにして道を知り物識りになったのではない、ただ古の道を好んで黽勉(勉強)怠らずして、ついに求め得ただけのものである。」また、「わたしは、何でも知っていると人は思っているらしいが、別に何でも知っている訳ではない。

ただ、どんなに卑しいつまらぬ人でも誠意をもって聞く時、袋の底を叩いて中のものをすべて外に出し尽くすように、その善悪・陰陽・因果その他何でも両端から説き質して本当のことを懇切に教える。

それで教えを受けた人にとって、私は何事も知り尽くしているように見えるかも知れないが、ただ自分としての誠意をもって教えているだけである。」と謙遜されました。

學問の大事は博く学ぶのと、深く思考することです。

大事なことを忘れず、変わらない熱意をもって追求して已まず、積極的に勉強して気を散らさず、日々発奮して気を換えてなりません。

何れの學問を極めるにしても、自己完成の學を好むものにして始めて出来るものです。

顔回(孔子の弟子)の「學を好み、怒りを遷さず、過ちを再びとしない」態度は典型的であります。

一人一人の霊気によって頭脳も違います。

これを孔子は、人間の天禀(てんぴん)には四通りの等差がある。

第一は、生まれながらにしてあらゆる徳義を知り尽くしている者があるが、これが最上級である。(恐らくは聖人がこれに当る)

第二は、学びてこれを知る者が次であり、

第三は、初めは學に心坐さず、いよいよ行き詰まって困ったあげくに苦しみ苦労して学んでやっとわかる者はその次であり、

第四に、行き詰まって困りながらも学ぶことを知らず、苦しんで学んでも大事なことの分からない人、学ぶ気のない人は、更にその下である。

と、四段階に別けて論じられました。

學問は中道の道に達してこそ円熟が得られます。

中道の道に反した學問の存在はあり得ません。

孔子は、子路に六言六蔽を引用し學問の重要性を説かれました。

つまり學には仁、知、信、直、勇、剛の六つの徳目があり、學を好まない為に生ずる六つの弊害が起こることを知らしめたのであります。

一、仁徳・美徳を好むことは極めてよいことであるが、學をこのことをしないと、愚の弊害に陥り陳腐(ちんぷ)します。

お人好しの行き過ぎは愚かであり、人に欺かれます。

愛着に溺れると反って人間を害毒します。

二、知を好んで、それと共に學をしてよく磨くことをしなければ、空想・妄想家になり、一人合点して取り留めのないことを考えます。行いに締りがなく、ただ徒に高きに馳せ、広きを喜ぶ弊害に陥ります。

三、信を好んで學を好まないと條理を弁えず、真実の信を弁えなければ、只徒に盲信してその言葉を守り、間違った約束を守って悪い仲間に落ち入り、物事を傷り害う弊害に陥ります。

四、直を好んで學を好まないと、人間を相手にして人間以上のものを求め、相手に無理を強要し、相手を生かさずに傷つけ責めるのを急ぐあまり、狭くてゆとりのない窮屈な弊害に陥ります。

五、勇を好んで學を好まないと、物事の道理が分からなくなり、乱暴・我儘になります。

徒に人に加える方面にのみ働くから、その末は、叛乱さえも起こすに至る弊害に陥ります。

六、剛を好んで學を好まないと、物事の道理が分からず偏見・狂気になり、落着するところを失って、徒に力を振り回す狂者の弊害に陥ります。

要するに六者は美徳ではあるが、その美徳を全うする為には、広い見識を立てる為の學が必要であることを教えたものであります。

これによっても如何に學問を積むことが肝要であるかが想像されましょう。

學問家とは、傲慢(ごうまん)・不遜(ふそん)の態度をさしているのではなく、學問臭いところがないのが真の學問であります。學の階級は継ぎの五通りの段階に区別されます。

すなわち変化學、認識學、治平學、理数學、性心學であります。

これを説明しますと、

一、変化學

これは、通常の社会人が知っている狭義的な変化學ではなく、極めて広い範囲の意味を含んでいます。

すなわち神から与えられた宇宙・万象すべての物質が人間の頭脳の機知変化によって一つの物体、一種の利用価値のあるものに創り出されることを変化學といいます。

自然的形体から人為的加工体に造り換える學問であります。

一脚の机をもって例えると、机の本質も元は樹木で、人間の加工によって変化したものであります。

茶碗の元は粘土であり泥であったが、人間の手によって型作られ、それを炉に入れ焼かれることによって成り立ったものであります。

一組の機械も同じことで、元はただの鉄や鋼にすぎませんが、人間の精密な研究と努力とによって組み立てられたものであります。

数種の物質を応用加工して一個の生産機に造り換えるには、多大の精神力と代価を払わなければなりません。

数多い試験と失敗を繰り返してから漸く成功します。

また、性能の低いものから性能の高いものへ、粗末劣悪の品質から優良精密の品質へと改革・改良していくには相当の努力を必要とします。

生産の遅い、旧い悪い形のものから理想的な新しい良い型のものへと造り換え、自動大量生産化していく、これらの能力を有している人を発明家、又は學士・博士とも言います。

工学、農学、建築、物理、化学などはこの中に含まれます。

士とは、成功者対する美称であり、學とは、浅きから深きへ、悪しきものから好きものへ、不理想から理想へ、工夫改善することで、博とは広く見聞や研究をされた意味を表します。

二、認識學

これも広義的に説く認識學であります。

すなわち宇宙間、上は日・月・星座星雲の天体から、下は河川・山岳・海洋の一切、中は動物・植物・鉱物の動・不動の形物に至るまで如何なる品名と性質を有しているか、その形態の状態とによって、どの地方に生産・発生されるか、どうして始まり、どのような経過を辿り、如何なる結果に終わるかなどを詳細に解明する學問であります。

また、天地・気候・年代・潮流とどんな連携をもっているかが認識でき、そして人間に有効であるか否か、応用できるか否かなどを見極める學問です。

一つの薬物がどれ位病体・病状に影響するか、薬効の正確な判断は難しいことであります。

一つの薬品が化合して何種もの物品の製造に役立つかを知ることも容易なことではありません。

生物・天文・歴史・地理・考古・医学等はこの中に含まれることになります。

これらの能力を有している人を見聞家と称し、あるいは博士とも言います。

三、治平學

これは、徳を以て世の中を和合させ、統治する學であります。

我々によって発明・製造された一切のものは、人類が享受する為に為されたはずであり、人々の便宜を図り、人々の幸せを思うがために尽くされたものであります。

例えば花壇を造園するのも、人々に鑑賞させ楽しませるが為であり、一つの機械を発明するのも、我々に利用させ生活をより良く向上させるが為で、飛行機・気車・電車・船舶・自動車等の発明も、目的は人間の心を快適にさせ満足させるが為に追求されているに他なりません。

人間最大の希望は永遠に争いのない、苦のない、不便のない、太平の幸福にあります。

人間の本質は、決してそれを悪用して人類滅亡や幸福を脅かすことなく、又不幸、貧困、戦乱、災禍のない理想的な世界の実現を希望しています。

しかし、有史以来の世界は、時には乱れ、時には治まり、不正常であります。

人類の熱望するところの幸福の為には、昔から沢山の立派な英雄・豪傑(ごうけつ)や政治家が現れて暴虐(ぼうぎゃく)を除き、善良な民を安護してきました。

禍や災難を治めて平和たらしめ、天下の同胞が一方の塗炭(とたん)の苦しみから解脱せしめ、不安恐懼(ふあんきょうく)のない安居楽業(あんきょらくぎょう)の生活を享受させました。

範囲の広い幸福を計った人ほど人から崇拝敬慕され、これらの能力を有している人を治平家、または英雄と称されます。文学・教育・法曹・政治・経済等はこの中に含まれます。

四、理数學

この理数學も現代社会の知っているところの狭義的なものではありません。

広義的理数學は、天地の開闢を知り、日月の盈虧を計り、陰陽の消長、寒暑の往来、世道潮流の変化、時運の変遷を理数の上から計算して悟得する學問のことであります。

人心の善悪を弁別でき、時勢の推移を見通し、事の成敗、過去・現在・未来を的確に判断・計議できる能力を有している人を知識家と称し、また賢人とも称されます。

易学・哲学・心理学・預言者などはこの中に含まれます。

五、性心學

この性心學も現代社会で知っている所の性心學ではなく、むしろ現代社会の知らない性心學であります。

これは、先天・後天の在り方、宇宙森羅万象を含む一切の有形無形のものの創造理を悟り、それに通ずる學であります。

すべての物体は、この定理・定数の範囲から出ません。

物事の終始本末を悟り、万古不易の真理を定義し、由来と未来の理を確立して人類を苦の因果の梱縛から脱せられる法を参悟する學であります。

霊の浄化、心の洗浄法を会得することは至難の業であります。

どんなことでも、根本原理を追求して至らねばなりません。

この原理は、千秋万古を経て真であり、常に不変の存在であり、如何に攻撃打倒しようとしても不動体であり、どんな強力な力でも覆すことはできません。

この真理を求め、これを掌握し、大霊に融合する「道」を得た人、それに到達した人こそ最高の學を修得する人と言えます。

前記の仕事を為し得られる人、または、これらの能力を有している人を知慧者と称し、あるいは聖人とも称されます。

神學・宗教學はこの中に含まれ、老子・孔子・釈迦・観音菩薩・達磨大師・キリスト・マホメッドなどはこの域に達せられた方々であります。

我々が学んでいる「道」は、すなわち性心學であり、最高位にあたる貴い存在であり、學の五階級の中でも第一等に算えられますが、さらに性心學は五段階に別けられます。

粗理(そり)・細理(さいり)・微理(びり)・玄理(げんり)・妙理(みょうり)

等であります。

【粗理】=あらいり

聖人は、幽玄なる奥理を人に説明するのに、人によって法を説く関係上、 普通一般の人に説くのを主旨とされています。

これは、因果応報の的確と、宿業罪業の報復を「瓜の種には瓜の実、豆の種には豆の実」と述べられています。

すなわち善を為せば善の果を得られ、清白の行いがあれば清白の報いがあり、時期が到来すれば必ずその報いが来るという平易な理であります。

一般人はこのような啓発によれば一番目覚め易いからであります。

【細理】=こまかいり

聖人が程度のやや高い知識層に説く主旨であります。聖人は、人々に道徳・倫理の根本を教え、義理と人情の必要を説き、禮教・仁愛の大事を納得させました。

社会は、天下の人の社会であって、自分1個人の社会ではないから、相互の親愛がなければなりません。

だから生きている以上は、人を愛し、世間の危機を救い、己の態度と行為を正しくし、意を誠にし、心を正し、身を修め、家を斎へ、国を治め、天下を平和にする順序を明らかに知り、対人関係に必要な孝・梯・忠・信・禮・義・廉・恥を具備することを教え、人格・教養・道徳を円満に修める為、必要な理を教えるものであります。

【微理】=かすかなり

聖人が程度の一番高い知識層に説く主旨であります。

聖人は、聖書・経典を根本にして宣揚し、人々に聖人と凡人、仙人と俗人、仏と衆生の元は完全に一体であり、同様であることを示した理であります。

我々の元は一様に、天地創造神・造物主から賦与された霊を持ち、父母から生育された身体を有し、天地から扶養されて生活していますが、ただここに迷いと悟りによって天淵との差に別れてゆくのであります。

この理をいち早く悟ることを教えたのが微理であります。

もし、明師から真傳心法の伝授を受けることができれば、人々は皆聖賢仙佛に成れましょう。

ただ、切実な決心があるか否かによって分別されていくだけであります。

この理を悟って偉大なる決意を持てば、万古流傳の名声を獲得できることは言うまでもありません。

【玄理】=おくふかいり
博く千経萬典を覧て、自己の真霊をますます深い玄理に結びつけて、日夜修行煉磨することであり、自己の霊光をいよいよ純熟に仕上げてゆくのを参玄と言います。

【妙理】=たえなるり
ここに到達した人は、もう一宗一派の所説に偏狭することはありません。

最高の真理を掌握し、態度は超然として深い妙理のみを悟得師、自分の真なる智慧を発揮して不変不易の理想境界へ至ろうとします。

これを「妙を悟る」といいます。

まず、妙を悟ってこそ「道の真諦」を発揮でき、輪廻と煩悩、因果と恐懼を脱れて人々に人生の最高幸福を悟らしめることができます。

この工夫に到達できる人の學は最高至極と言えます。

以上が性心學を区分けしても説明であり、学の大切を述べた論説であります。

理論上,學問の根幹をなしているものであります。

よろしく御精進を望みます。

続く