真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

Rayの呟き~神霊による復活の大事

2023-01-13 21:43:02 | Rayの呟き

間もなく、偽キリストや偽弥勒仏の救世主が顕れますが、先んじて鬼神と言われる様々な邪神がネットを賑わしています。

昔ながらの『飴と鞭』で巣窟に誘い込み、傲慢な人々を骨抜きにしています。

この有様で『棚から牡丹餅』を待つ人々が量産されています。

スピリチャルメッセージも間もなく5次元統合の前段階を終えます。

つまり、ネット上から発信されるメッセージは無くなります。

心はよりどころが無くなり死んだようになります。

人々の社会生活も大きく変わり、朝起きて出かけて行く子供たちの学校や会社も無くなります。

このような事実を受け止めなければなりません。

今のあなたには、それがどういうことかわからなくとも、どうすればよいのかわからなくとも、人類の復活が訪れるというそのことしかありません。

復活をただちに開始して、あなたの力が及ぶ限り、その日、その時まで、ず~っと忍耐強く続けることです。

人生の中で積み重ねてきたこと、心に刻んで大切にしてきた思いやり・勇気・信頼も、すでに打ち破られて、まさに空白になっていることを知らなければなりません。

これまでの勤勉な生活も、人生の夢も、悪習慣も共にあなたの記憶から消去されてゆきます。

根源創造主の極光の目に隅々まで照らされ、赤裸々なあなたの一切は逃げ隠れる所はなくなります。

何一つ漏らされるものはありません。

大きな家や産業の子孫達も、家財がたくさんあるため、各々の下心が四分五裂し、事にかこつけて争奪が始まり、長老が臨終の時に、彼等が継承するのは金銀や田んぼや住宅ではなく、驚くばかりの焼き焦げた債務である。

その渦に巻き込まれた人も、自分から入ったか、そのつもりがないのに巻き込まれたかに関わらず、全て持っていた一切を失ってしまいます。

『裸一貫から家を興す』人の子ならば、まさに福を蒙り収穫でき、その人は紛争から遠ざかり、弱者の世話をし、上のものに寄り縋って出世を求めることなく、下の者を凌(しの)ぎ辱めることなく、孤立しているように見えるが、しかし独立している。何もしていないように見えますが、最終的には彼が努力していた全てを保育するようになります。

現在、天の声を代言している大天使は、将に声を出せなくなり、そして天のために意訳する真正の祭司も隠退します。

天の大能が顕れる時に、人は将に二種類の反応があります。

圧倒的多数の一種類は、耐えられなくなり、すぐに気絶して死傷し、何も知らず、何も持つことはできません。

そして別の一種類は、即ち、狂暴なハリケーンが吹いて、火の舌のように分散してぼうぼうと燃え盛り、火災が全ての人の頭上にある際に、天は『我は、我の霊を全ての血肉の身の有る人身に注ぐ、末日において、我は我の霊を我の児女と僕人と使女の中に流し込む』これは極めて少数の人が耐えられます。

先知の予言のように『神霊に充満される人は、将に彼等は、各々の方言で、天の予言を述べることを発見する』

新しい時代は、神霊に充たされた彼等によって綴られて行きます。

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弥勒真経~二、寶「宝」を領し魯(ろ)を斎(すく)う霊山地(りょうせんち) 拈華(ねんげ)を印と証し三乗を考(ため)す

2023-01-13 21:38:09 | 弥勒真経 解釈

人々が正法を求め仙仏の得た秘寳(ひほう)を領受(りょうじゅ)したいと欲するならば、必ず、魯の地(山東、即ち祖師の出生地)に明師を尋ね訪れてその口訣(こうけつ)を求めるべきである。

されば、初めてよく古聖の得た寳を了悟できるし、然る後、俄(にわ)かに霊山(りょうぜん)の古仏修業の寳地を観ることができる。

これは道が東土に降って来たことを証明するものである。

釈尊が拈華微笑(ねんげみしょう)して心印を伝えた其の法をわれわれも、老〇様(ラウム)の子として領受することができる。

これは共に有縁(うえん)の人であると言えるし、すでに霊山の寳地を捜し当てたひとである。

正に勤修(ごんしゅう)して怠ることなく終始伝えて止めることがなければ、将来は定めし心印の効果を立証することができる。

一人一人の功果の大小は試験され、成功した人はすべて三乗九品(さんじょうくぼん)の位に列することができるのである。

続く


第六章 真実なるもの (四)情理的と合理的・非合理的及び妙理

2023-01-13 21:36:07 | 天道の淵源

(四)情理的と合理的・非合理的及び妙理

理を情理的、合理的に考えることができます。

合理性に物事を当てはめて解決しようとします。

不合理を否定した合理は当然と思いますが、合理か不合理かを未だ判明しない非合理性をも拒絶することは賢明ではありません。

今は非合理であっても未来に合理化することが沢山含まれているからです。

合理的な考えは、目先の生活環境に照らし合わせているので、例え大きい所から言って合理的であっても、差し当って合理性がない場合があります。

この点から言って、聖者の経典や神仏の諭(諭)に是が非常に多く含まれています。

これを妙理と言った方が良いかも知れません。

この妙理を認めるか否かに人間の価値・不価値や人格の高い低い、信念の強い弱い、信仰の深い浅いの度合いにかかっています。

妙理は悟ることによって、或いは一層合理化になり変わるでしょうが、凡人は多くそれによる合理化を計らないで、目前の損得をもって決めつけます。

善悪を直ちに己の立場と尺度で断定しようとし、近代の法律と国情の習慣に照らし合わせて一切を量ろうとします。

しばしばその中には血も涙もない処理が行われ、刃物のような冷たい浮目を見るものもあります。

情理的とは目前の事態を善悪・理・非理、いずれともはっきり区別することなく、その発する以前と未来も併せて考慮し、情状酌量をして現在より一層より良い結果になさしめるもので、長い目で見て人を活かし、物を利し、事を円満にまとめる慈愛的性質を含んでおります。

小人の情理は私情にに流れる恐れがありますが、君子は情理一体の見解で必ず最高の効果を産み、鮮やかな解決を見出すものであります。

とにかく真理は厳粛なもので左右前後何れにも偏ってはなりません。

両端の軽重も長短も大小も全く同じようであらねばなりません。

孔子様の弟子に子路(しろ)様と冉有(ぜんゆう)様とがいました。

ある日、「師よ、善事を聞いたままそれを行ってもよろしいでしょうか?」 二人が同じ質問をしますと、子路様に、「家に父兄がいるから、当然父兄に聞いて直に行え。」と答え、冉有様には、「よろしい、速やかに行いなさい。」と答えられました。

そばで聞いていた他の弟子の一人公西華(こうせいか)様が、「師よ、なぜに同じ質問に両極端の言葉をもって教えられたのでしょうか?」と聞くと、孔子様は、「子路は、日常行動が非常に積極的すぎるが、冉有は普段消極的すぎる。各々性格に大きな差異があるのでそのように答え、二人に中和を教えたのである。」と答えられました。

過不足なく行動できる人こそ真理に通ずると言えます。」宇宙の真理は、常に有難い霊的作用があり、その中に静的と動的とを含んでいます。

真理とは絶対静にして常に厳しいものであり、常に流動して止まないものであります。

そして、厳しさの中に優しさを兼ね備えていますが、それだけでもなく、しかも両者に共通しているものは大いなる慈悲心であります。

この大愛を深く観ずることによって、あらゆる相対的見解を越えた絶対無の境地の処に到達でき、中和が得られるのであります。

この理を解せないものは偏狭な行動に走り、その結果が例え一時的には善と見えても、ある場合には必ず悪だと判断される範囲の狭い在り方となり、有期限・有範囲なものであることをよく知るべきであります。

善だと断定することは、片方の悪の観点に立脚したものであり、悪だと断定するには必ず悪の定規を自己流にあてた上の判断であり、至善は絶対善で、如何なるものの上にも当てはまるものであります。

真実の中に常に深い愛情を持ち、生活の中に豊かな潤いを持ち、厳しい中にも優しさを失ってはなりません。

自力本願だけに過ぎると果ては傲慢になり、他力本願だけに偏ると最後は怠惰になります。

その何れにも偏らずして中和の道を歩むことが真理に則した在り方であります。この点から言っても人生を始めから楽しいものと思うよりも、むしろ苦であると考えた方が賢明であります。

無を悟った人はその中に創造の厳粛なることに感極まりますが、有相に執着した人はやがて無に帰した時の儚(はかな)さと侘(わび)しさに悶え苦しみます。

一国の王者と言えども、一人の聖者よりも遥かに小さい存在であります。

現実的観点からすれば、、前者はあらゆる角度からみても勝れた幸福者に思えますが、永久的観点から擦ると、権力をもって人を服せしめたものは必ず滅亡します。

後者は空の本諦を悟り、情理一体の徳をもって人を心服せしめ、悦びを満たしめ、その霊覚は万古不易にますます輝くものであります。

まことに道を得た人は永遠に生き、道を得ない人は滅び去るのみであります。

どうか真実なる人間の行き方に志して頂きたいものであります。

続く


性理題釋~六十四、人心と道心

2023-01-13 21:33:56 | 性理題釋

六十四、人心と道心

気質の性から発するのを人心となし、理性より発するのを道心と申しますが、凡人はみな人心を持ち、又道心を持っている訳であります。

人心は危うく不安であり、道心は微(こま)かで現し難く、人心を制住(せいじゅう)出来なければ、則ち道心は日に日に亡び、人心を制住出来れば則ち道心が日に日に現れ、仙・仏・聖・賢となる事も難しくないのであります。

人心は気に属し、道心は理に属しますが、赤子(せきし)の時には、性は本より円明であるけども、知識が一度開けば、一分の(いちぶ)の習(なら)いに染まり、一分の良知が蔽(おお)われ、日時が久しくなれば愈々(いよいよ)蔽(おお)い益々(ますます)晦(くら)く、一片の情慾(じょうよく)に落ちてしまうのであります。

修道の法とは、内心の私慾に伐(う)ち克(か)つ事に外ならず、外に品行を立て、その上に、抽顛(ちゅうてん)の修行を勤めて一旦その功徳が満つれば、自然古い鏡が再び明るくなるが如く、本来の天真(てんしん)即ち道心を現すことが出来るのであります。

続く


【Ray:真理が得られない高度な文明!】アトランティス・レムリアの真実の歴史・ディスクロージャー エレナ・ダナーンさん

2023-01-13 06:47:32 | ONEメッセージ

Ray:テクロノジーの発展もドラコの系統!

アトランティス・レムリアの真実の歴史・ディスクロージャー エレナ・ダナーンさん