ニルヴァーナへの道

究極の悟りを求めて

伊東乾著「さよなら、サイレント・ネイビー」(集英社)を読む

2006-12-24 04:44:18 | カルト
伊東乾氏の、「さよなら、サイレント・ネイビー」(集英社)を読みました。なかなか刺激的な本で、また、改めて、オウム問題について考える機会を与えられました。それで、日頃考えていることや、今回感じたことなどを書いてみます。

オウムが恐いのは、ゴキブリは殺さないが、人間は場合によっては殺してしまうという倒錯した論理を持っているところにある(あった?)。
仏教修行者として、不殺生の戒を(特に人間に対して)、いかなる場合にも(自分たちが殺されても)、「ヴァジラヤーナ的に」貫徹していれば、地下鉄サリン事件のようなテロは起こらなかっただろうし、現在のような形では、オウムの問題は起こらなかっただろう。

 しかし、オウムは「救済」という名のもとに、地下鉄サリン事件を起こした。地下鉄サリン事件実行犯の一人である豊田亨は、サリン散布は「救済」になると信じ、地下鉄にサリンを散布したが、逮捕され、拘置所で被害者の惨状を聞かされるにつれて、徐々に、ひょっとして、これは「救済」ではないのではないかと疑問を感じ始め、法廷で、自分のグルである麻原のふざけた言葉や立ち振る舞いを聞いたり見たりしていくなかで、最終的に、サリン散布は自分が信じていた「救済」ではなく、単なる殺人犯罪であると思い至り、愕然とし、そして、麻原を切り捨てる。

 善きこと、つまり、「救済」だと信じて自己の宗教生命をかけて敢行したサリン散布は、結局、誰にも利益をもたらさず(他国のテロ志願者には参考になったかもしれないが)、被害者、実行者、そして関係者に苦痛と悲しみをもたらしただけの、凶悪犯罪になってしまたわけだ。グルに騙されたのだ。

 では、なぜ、「グルの騙し」が可能になったのか。それは、実行者が、サリン散布の命令者である自分のグルを、すべてお見通しの「全知者」と信じ、サリン散布が「救済」になると信じたからだ。このグルイズムと救済思想の結びつきの危険性を指摘したのが、インド哲学研究者宮元啓一氏だ。宮元氏は、オウム真理教殺人肯定理論の原型が仏教経典に存在していることを教示されて、次のように述べている。

「ナーガセーナ長老(「ミリンダ王の問い」(東洋文庫))がいっていることは、二千年以上の時を超えて、オウム真理教という大量殺人教団がいってきたこととまったく同じ理屈なのである。それはもう恐ろしいほどである。念のために(前に引用した)ナーガセーナ長老のことばを、ほんの少し変えてみよう。

『信者諸君、もしも地下鉄の乗客たちがサリンで殺されて転生(ポア)しなかったならば、今の状態のままで地獄という果を招く悪業をなして、幾百兆劫もの間、地獄から地獄へと、破滅の所から破滅の所へと行きつつ、多くの苦しみを受けるでありましょう。尊き師(麻原)はそのことを知りつつ、慈悲をたれて、地下鉄の乗客たちをサリンで殺して転生させたのです。「わが願いによってサリンで殺されたならば、地下鉄の乗客たちの苦しみは終わりを告げるであろう」といって慈悲をたれて、重い苦しみを軽くしたのです。』
 
 地下鉄サリン事件をはじめとする、オウム真理教による一連の恐るべき殺人事件は、まさに、ナーガセーナ長老の仏教によって正当化されるのである。」
  (「宮元啓一著「ブッダが考えたこと」(春秋社)104p)

 こういう思想は、オウム以外の人は受け入れがたいであろう。また、オウム信者でも救済としての殺人行為を肯定する人は少ないのではないかと思うが、サリン事件の実行者は、散布する時点においては、少なくとも、「全知者による救済」という観念を信じていたのである。

 しかし、この救済思想は、はなはだ無責任な、自分勝手な理屈だと思う。なぜなら、殺された人は、本当に高い世界に転生したのか、客観的に証明されないからだ。これは、あくまでも、殺人者側の、「主観的な真理」でしかない。

 宮元氏は、この仏教思想に内在する救済思想がはらむ危険性を回避するためには、救済思想を付帯的なものとし、自己責任思想(自業自得)を中心に据える知恵が今こそ必要だと警鐘を鳴らす。つまり、解脱悟りを求める修行者は、他人のことをあれこれ心配するよりも、まず、自分のことに専念しようではないか、ということだと思う。救済ということはいいとしても、少なくとも、最低限の規律として、救済という観念に基付いた殺人行為(アメリカの精神医学者ロバート・リフトンはこのオウムの殺人肯定の考え方を「利他的殺人」と呼んでいる)だけは、絶対に犯してはならないということだ。これは、仏教の不殺生戒を厳守することであり、仏教徒としては当然守らなければならない最も重要な行動規範だと思うが、こんな当たり前のことが、仏教徒を自認するオウムに破られてしまったところにこの教団の恐ろしさがある(あった?)。
 
■マインドコントロール

伊東氏の今回の本のテーマの一つはマインドコントロールだが、カルトのマインドコントロールを論じた本では、元統一協会幹部スティーブン・ハッサンの「マインドコントロールの恐怖」、脳機能学者苫米地英人「洗脳言論」などを読んだが、オウムのマインドコントロールのカラクリというかメカニズムをかなり深層まで解明していると思ったのは苫米地氏の洗脳原論だ。この本の中で、アンカーとトリガーという概念を使って、なぜテロにはしってしまったのか、非常に分かりやすく解説している。

今度の伊東氏の本では、いかに人間という生物がマインドコントロールにかかりやすいか、認知の脳メカニズムの専門家などの説を紹介しながら、日本社会に警鐘を鳴らす。

「耳から入った音情報、特に情動を喚起するような情報は、脳の高次認知が発動するより先に、感情や行動を動かしてしまう、ということです。」

ということだ。人間の脳の認知のメカニズムとして、情動は気ずきに先立つ、感情が先走った人間、例えば恐怖に駆られた人間は思考するより先に行動し、あとで取り返しにつかないこと、をやってしまうのだ。伊東氏の考えでは、豊田はサリン散布時には、まさに、マインドコントロール状況にあり、サリン散布について疑念をさしはさむことができない状況にあり(グルの意思にたいする疑念は煩悩だ、グルの意思に反する行為は地獄におちると幹部になるほど徹底的にたたきこまれたから)、「思考停止」の状態であった。であるから、逮捕されて、正気に戻った豊田は、拘置所の中で、あれは、間違いだったと反省するのだが、殺人を犯してしまっては取り返しがつかない。

伊東氏は、豊田被告の裁判に関して、オウムのマインドコントロールは詐欺の側面を強く持っていたのだから、必ずしも、マインドコントロールされた実行犯がすべて責任を負うべきではないのではないか、裁かれるべきものの一つとしては、マインドコントロールの実体もあるのではないか、と述べる。オレオレ詐欺、ワンクリック詐欺の被害者と、騙される側の脳認知メカニズムは同じだというのだ。信じてしまったカルト信者の自己責任を全面的の問えるのだろうか、というのだ。ただ、この議論に関しては、反論もあろう。いくら、脳認知メカニズムが同じだといっても、カルト信者のマインドコントロール下の犯罪と一般の詐欺犯罪を同列に論じられないだろうという意見が強い。そもそも、カルト信者はある時点においては自発的にカルトの教義を信じ、受け入れたのだろう。その主体的な責任はどうするのか、ということだ。しかし、伊東氏は、オウムの教義を信じてしまって、オウムの巧妙で、破壊的なマインドコントロールを受けてしまった豊田が全面的に悪いとは言えないのではなかろうかと主張する。

「豊田という一人の優秀な人物が、閉塞しきった社会の実情に直面し、絶望して「出家」し、薬物利用を含めさまざまな洗脳やマインドコントロールを受けて犯罪を犯させられた。そこまで追いやった原因の99%以上、大学含めこっち側の社会に責任がある。同じ構造要因は、決して裁判では明らかにされないから、ずっと残り、明日もあさっても、別の豊田が別のオウムに出家し続けて当然なのだ。」(222p)

99%はどうかと思うが、やはり、責任の一端は、マインドコントロールや、こちら側の社会にある、と考えて、オウム事件を考えていかなければ、根本的な解決につながらないだろう。そして、日本社会がオウム事件を契機として、普通の人間がいかに巧妙にマインドコントロールされて、社会に害悪を及ぼしてしまうのか、そのメカニズムを徹底的に解明し、再発を防止する智慧やシステムを獲得していくことこそ、社会全体の利益になるのだ、と述べる。そもそも解脱悟りを求めたオウム信者の受け皿になるべき日本仏教界も、オウム信者に無視された事実を重く受け止めなければならない。そういう反省がない限り、現代人の精神的求めに応じられない日本仏教界はジリ貧状態になってしまい、再興など、夢のまた夢の話になってしまうだろう。いや、今まで通り、葬式仏教に徹して気くれていればそれでいいのだ、余計なことはすべきではない、滅びるときがくれば滅びればいいのだ、という醒めた意見もあるが・・・・。又、伊東氏は、こうも述べている。

「オウム事犯が罪を償わなければならないのは当然だ。しかし、豊田に最高刑を言い渡す重要なポイントとして、<自分の意思で出家し>、<真の宗教心ではない、教祖にみとめられたいというよこしまで利己的な動機>(一審、検察側論告)で犯罪をなした、とあるのは、裁判という形式を進めるために書き下ろされた推断、あえて言うなら「フィクション」に過ぎない。その「フィクション」で真実に蓋をしてしまうから、同じ過ちを繰り返すのではないか。もっと深い根があることは、誰の目に明らかだろう。それは何なのか?」(228p)

伊東氏の考えでは、そもそも日本社会には宗教を真剣に語り合う共通の土俵が存在しないのだから、無宗教国家なのだ。そういう日本社会を代表する裁判所において、判決を下すさいに、「真の宗教心」など使うべきでないと伊東は言う。そして、もっと深い根とは、どのような人間でも陥る可能性のある現代の巧妙なマインドコントールの実体だろう。これを暴いて、それを裁判に反映させ、社会に警鐘を鳴らし、啓発していかなければならない、それこそが、サリンという大量破壊兵器によるオウム事件に対して、本来あるべき裁判の姿勢ではないか、と伊東は言う。確かに、この考え方には、共鳴するものがある。

そして、伊東氏は、アメリカ連邦裁判所が、9・11同時多発テロ唯一の実行犯生存者とされる人物を、終生、情報源として活用できるよう死刑にせず、終身刑にしたことを紹介し、刑法学者団藤重光先生の意見を紹介する。

「本当にわれわれが秩序を回復して、また、いい社会にもっていこうとするためには、もう少し人間的なものを持ち込んだ、ヒューマニスティックな犯罪政策、刑事政策が必要ではないかと思うのです。・・・・米国の裁判所は大変ふところが深く感心することがある。」

確かに、そうなのだ。硬直した裁判、世論に迎合した裁判によって、本当に日本社会は進歩していくのか。そうではないだろう、もっと賢明になりましょうよ、と伊東氏は訴える。もう豊田被告にはあまり時間が残されていない。なんとかして、豊田の死刑を回避して、貴重なマインドコントロールの実体解明のための財産として活用しなければならないのだ。そのためには、最高裁判所さん、死刑判決だけは避けてもらいたい、と伊東氏は、最高裁判所の、より大きな視点に立った賢明な判断を切望する。

■再発防止

この本のもう一つのテーマである再発防止のためにはどうすればいいのか。伊藤氏は、「失敗学」という概念を紹介している。

「一度犯した失敗は、そのメカニズムを含めてすべてを明らかにすること。責任の追求にあたって、真実を隠蔽する方向に当事者が動かないようなシステムを作ること。起きてしまった事故などのありのままを、出来る限り公正に残すこと。・・・・・無用な価値判断をせず、すべて記録し、分析すること。これらを徹底することで、事故や失敗は、それを繰り返す危険から私たちを遠ざけてくれる限りなく貴重な知識になる、というものである。現在の日本の司法制度には、失敗学の叡智の導入はいかせないのだろうか。」(246p)

オウムのような宗教思想に基付いた大量破壊兵器による破壊活動は、今後、決して、繰り返させてはならないが、そのためにも、この失敗学の裁判への導入の提言は、貴重な意見だと思う。果たして、裁判所に、それだけの柔軟性を期待できるのか。もし、われわれが本気で再発防止を考えているならば、こういう意見を、裁判所へ訴えていく必要があるだろう。

そして、この21世紀現代日本において、高度な、巧妙なマインドコントロールにさらされているわれわれはどうすればいいのか。伊東氏は、次のように提言する。

「結局、最初にしなければならないことも、最後に帰ってくるべきところも、「個人」の自覚を促すこと。行為の当事者本人が、自覚できるかどうか、再発防止のすべてはここにかかっている。」(288p)

「オウムに騙されやすい芽は、ほかの誰でもない、自分自身の中にある。それを日々、疑い、的確に判断して、危険を避け続けなければならない。それが「テロ対策特別警戒」で、個人にできる「最強絶対」の対策だと私は思う。」(293p)

自分は、マインドコントロールなんかには、絶対かからない、という油断は禁物だということだ。どんな人でも、マインドコントロールにはかかるのだ。抑止力としての核武装論議にすら嫌悪感を持つ人たちは、ひょっとして、マインドコントロールされているのではないか、そう疑ってみる謙虚な姿勢が求められると思う。そのためには、まず、マインドコントロールの実体を知ることだと思う。マインドコントロールや洗脳の専門家の本で学ぶことだ。

最新の画像もっと見る

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ザ・ウェーブ (七転び八起き)
2006-12-25 08:34:42
1969年、アメリカのパロアルト州で実際に起こった事件で高校の歴史を教えているロス先生は、授業の中でナチス支配下のドイツにおける全体主義を説明したが、学生達は、ドイツの民衆がなぜヒトラーについていったのか、だれもナチの行動を批判できなかったのかが、全く理解できないという様子であった。そこで、ロス先生はある試みを行なった。
ロス先生は生徒に「規律と力を作り出せることを説明しよう。」と提案し、姿勢、持ち物から、先生に対する呼び方、質問の仕方や答え方などについて細かく規律をつくり、軽いゲームのつもりで守ってみるよう指導した。
はじめは子供達から嫌がられるのではないかと懸念したが、普段自由な雰囲気で教育されてきた子供達は、嫌がるどころか競争心をもって規則に従おうとした。不気味な事に生徒達は規則を覚えるたびに、次の規則を欲してゆき、授業終了のベルが鳴り終わっても彼らはその規則を続けようとした。もはやゲームではなかった。
次の歴史の授業においてもそれは続いた。教師はとても驚いたが、そこでやめようとは言わずに、逆に彼は「規律の他に、共通の目的の為に働く共同体に参加しなくてはならない、この運動を「ザ・ウェーブ」とする」と主張した。さらに「この運動の信念に従って行動する事が力を得る」と主張した。生徒達は運動の旗印を作り、運動員章をつくり、この運動はクラスの外の人々までものすごい勢いで広がっていった。
ロス先生の教科学習の試みは、とどまることを知らず、数日間で全校の生徒達に浸透していった。ナチスの運動とそっくりであった。彼らは、自分達の自由と交換に、メンバー間の平等と「ザ・ウェーブ」に参加していない人に対する優越を得て、差別し、攻撃をした。また彼らは、この運動はちょっとしたゲームであり、いつでもやめられるつもりでいた。しかし、やめようと言う者は殆どいなくなり、そうしたものは密告され、制裁を受けることになっていた。
結局、この歴史教師はメンバー全員を講堂に集め、テレビ画面を用意し、もう一度、ヒトラーの映像を見せ、自分達がやっていることがナチスと同じであった事を示し、誰もが第二のナチになって歴史が繰り返される危険性のある事を説明した。生徒達は愕然として目が覚め、軍隊調の姿勢を崩し、軍旗を捨てた。生徒は自分がコントロールされている事に操作者自身から告知されるまでその事に気付かなかった・・・
返信する
Re:ザ・ウェーブ (Kaivalya)
2006-12-25 21:58:40
七転び八起きさん、コメントありがとうございます。

ザ・ウェーブという事件は、有名な話ですね。これを読んで思うのは、伊東さんの本の中に出てくる、「創発」という現象です。

集団がなんらかのきっかけ、要因によって、化学変化を起こし、想像もつかない方向に集団全体が暴走していく現象、ダイナミクスを創発と呼んでいるようですが、全体主義的といえるかもしれません。これが恐いです。こういう集団の暴走が起こらないように、気をつけていかなければなりません。
返信する
「救済」 (아벨(Abel))
2007-01-06 02:32:50
でなく自業自得の自己責任論。確かに確かに納得できますねえ。私の非常に親しい某私立病院外科部長せんせから聞いたのですが、医学の世界でも、昔のようなパターナリズムによる押し付け医療などは現在では全然通用せず、患者の自己責任ということを基本としたインフォームド・コンセントの時代になっていると。
昔は「患者のため」と信じて無謀な手術を強行して患者を切り殺した外科医も多かったみたいですが、これなんて考えてみたらサリン撒くのと五十歩百歩の「善意による殺人」だったんですよね~。
返信する
(아벨(Abel))さん (Kaivalya)
2007-01-09 16:00:02
>でなく自業自得の自己責任論。確かに確かに納得できますねえ。私の非常に親しい某私立病院外科部長せんせから聞いたのですが、医学の世界でも、昔のようなパターナリズムによる押し付け医療などは現在では全然通用せず、患者の自己責任ということを基本としたインフォームド・コンセントの時代になっていると。

医療の世界でもそうですか。
やっぱり、現場で日々救済活動に従事されている方の言葉だけに重みがありますね(笑)。
まず、自分のことは自分で責任を持つ、ということが基本なんでしょうね。

ところで、鈴木邦男さんの「今週の主張」に次のような言葉が書かれていました。この言葉は裁判所や、豊田亨さんにも送りたい気分です。伊東さんの本を読んでこのような思いに駆られています。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2007/shuchou0108.html

「これほど素晴らしい男はいない。こんな有能な、いい人を長期間、刑務所に入れるなんて“国家の損失”だ」と。
返信する
亀レスですが (아벨)
2007-01-14 01:22:34
刑務所で病気になったときの扱いというのは実に無茶苦茶みたいですね。私の知人の関西方面某大規模私立●●外●●長せんせから承ったところによりますと、人権侵害というのを通り越して、殺人行為とでもいえるくらいの人権侵害だらけみたい。

その外●●長さんが直接診た方の場合、医療刑務所での超手抜き手術で、切除できるはずの癌を放置されて手遅れになった方とか、そのせんせは医療事故に関心もってられるのですが、刑務所で身体の調子が悪くなってもなかなか病院にかからせてもらえないで、家族が弁護士頼んで漸く病院へ受診したものの手抜き診療で結局手遅れ。もう刑務所で病気になったときの扱いって、某北●鮮の強制収用所とほとんど変わらないくらいの酷さみたいですよ!!

もしまともな医療を受けておられたら、もう少し違った経過になったと思われて残念です。
返信する
아벨さん (Kaivalya)
2007-01-14 20:51:32
それにしても、ひどいもんですねえ。
受刑者を人間とは思っていないんでしょうね。
理想社会の実現を目指した革命家も、病気と人間の悪意には勝てなかったということでしょうか。

まあ、そういう悪意にも負けず、真理の世界を実現するのが、真理の実践者でなければならないんですね(笑)。
返信する