ニルヴァーナへの道

究極の悟りを求めて

三島由紀夫が語る言論の自由

2008-04-24 23:29:20 | 三島由紀夫


サピオ最新号の、「サピオズアイ」というコラムで、井沢元彦さんが、最近の映画「YASUKUNI」騒動で、この映画がいかに問題作品であろうと、反日の映画であろうと、日本は言論の自由な社会であるのだから、公開されるべきである、李監督の「表現の自由」は奪ってはならない、と述べて、この騒動のなかで、この映画の公開の場を確保することを訴える緊急声明を出した、映画労連の高橋邦夫中央執行委員長の、

「これは、日本映画史上かつてなかったことで、日本映画界にとって恥ずべき事態である。映画の表現の自由は踏みにじられ、日本映画界の信用は失墜した。また、公開が決まっていた映画が、政治圧力や上映妨害によって圧殺されるという事態は、日本映画に、将来にわたって深刻なダメージを与えるものである。
 日本の映画界、映画人は、いまこそ勇気をもって立ち上がり、踏みにじられた映画の表現の自由と、失墜した信用を取り戻さなければならない。私たち映画労連も、微力ながらともに闘う決意である。」

という声明を紹介ながら、井沢さんは、この声明に対して、「よく言うよ。恥知らずにも程がある!」とお怒りになっておられます。
何故か?
それは、この人たちの過去の言動にあるのです。
10年前映画「プライド 運命の時」が公開される前に、この人を中心とする「映画プライドを批判する会」は、東映に対して、公開中止を申し入れたことがあるからです。
この井沢さんの指摘を呼んで、そういえば、そんなこともあったかな、という記憶がありますが、たしかに、こんなことを言っていたのでれば、今起こっている公開中止騒動にかんして、緊急声明のようなえらそうな内容は言えないはずです。ほんとうに、よく言うよ、ですなあ。ほんまに、恥知らずだ!!
しかし、まあ、考えてみれば、人間というのは、こんなものかも知れないという思いもあります。

三島由紀夫は学生との討論会で言論の自由について、本質的なことを述べております。
少し長いですが、なかなか重要なところだと思いますので、その箇所を引用させてもらいます。

----------------------
■場所 早稲田大学大隈講堂
■日時 昭和43年10月3日
■主催 早稲田大学尚史会

三島
(中略)
国家革新の場合、どんな国家を求めるのか、革新の方法論はどうするのか、そこから考えていかなけれぱ何も出発しないと私は思うわけであります。
それで、最初の言論の自由の問題に戻りますが、言論の自由というものを政治と完全に抵触する概念と考えるか、あるいはそれが政治と調和する概念と考えるか、これが私は問題の分れ目じゃないかと考えます。と申しますのは言論の自由を政治と抵触するとはっきり考えれば、ソヴィエトのやっていることは正しいのであって、チェコを現在圧迫するのは正しい。また言論の自由と調和する政治形態というものを求めた点ではチェコの自由化の方向は正しい、しかし、そんなものははたしてあるだろうか、これが問題であります。そうすれぱ第三の道というのは何であろか。第三の道というのは実に低級なことですが、我々が今、現に言論の自由を享楽している。しかし、考えようによっては完企なアメリカの経済力と軍事力に支えられた形といえるかもしれません。がともかく言論の自由は完全に享楽している。この我我の住んでいるこの国は一体何だろうか。そうすると、言論の自由というのは何によって守られているのか、また言論の自由と我々の国における政治との関係は何なのか。こういう考えが出てきます。
間題提起がちょっと長くなりましたが、この問題をちょっと突っ込んでみますと、いわゆる議会制の、普通選挙制の政治形態というのは、政治というものが必要悪、妥協の産物であって、相対的な技術であって、政治に何ら理想はないのだというところから出発しているのだと私は解釈しております。つまり民主主義に理想を求める、民主主義の行く手に、人民民主主義の理想を追究して現在の民主主義を改良できるという革新の方法は、私には論理的でないと思われる。なぜなら、我々の普通選挙制の議会制民主主義というのは、理想主義とは何ら縁のない政治形態だからであります。この政治形態の中では言論の自由というものは政治と根本的に関係のないものだというふうに考えられる。言論の自由の延長下では政治は必要悪にすぎない。政治の延長下では言論の自由というものは邪魔ものにすぎない。我々はそういうところに生きている。これは我我の住んでいる政治の特徴だと思う。ですから、そろいう政治形態がいいか悪いかについては議論がありましょうが、ファクトとしては我々がここで言論の自由を味わっていることは確かなんです。私がこの壇上で何を言いましても別に手が後ろへまわるわけでもない。諾君が何を言われても、その言論によって諸君の手が後ろへまわるわけでもない。こういう享楽している言論の自由というものは何を意味するのか、それと政治との関係は何なのだろうか、こういうことから私はさらに戦争の問題、平和の問題、その他さまざまの問題に触れていきたいと思います。大体こんなところで-…。

学生A
私は表現の自由の最終的な目標は、簡単なことですけれども、人間の幸福あるいは政治といったようなものを追究するものである。そして、表現の自由の中核は政治に対する批判であると思っております。先ほど三島先生の言われました表現の自由の理想とするものは政治とはかけ離れたものであるというような言い方に対して、表現の自由の最終的な目標が人間の幸福、あるいは政治の追究にあるとするならば、それによって現実に生みだされるものは私たちが営む政治といったものであると思います。そこで表現の自由の追究は政治に対する自分自身の意見を発表するというような問題であるとするならば、政治の実現と表現の自由の終極的な意見は一致するのである。とすれば政治が現実に表現の自由を圧迫するというような事態が
現実に行われているところには、まさに現代のヒズミがあると私は思います。ところが、先ほど言われましたように社会主義におけるチエコ等々の問題があると思いますけれど、それはまさに、直接的な表現の自由圧迫の問題であり、それから現代のよう資本主義下における表現の自由の圧迫といいますのは、ただ単に私たちが自分が思ったことを自由に発表できるじゃないかというのではなくて、私たちが政治に対する自分たちの積極的目標に対する実現をいかに 自分自身の表現をもって行うか、それが現実にはただ単に形式的な、観念的な表現に終っているということなのです。そこにこの現代の体制というものの矛盾がある。とするならば先生は自由の追究と国家とは背反するものであるとおっしゃったけれども、私は一つの理想形態とする国家体制というものは表現の自由と、政治がまさに一体化したものであると思います。
非常に結論的になりましたけれども、先生がどのような観点で問題提起をされたのか、その点にについてお聞きしたいと思います。

三島
いま、パリの学生と同じ、非常に熱烈なお言葉を聞きました。私はそのお言葉自体には心を打たれました。そして、私はその気持自体が嫌いではありません。しかし、私はあなた方の倍くらい年取っていいます。そして人間に対して疑い深くなっている。
ですから人間というものに対して、必ず目的追究の果てに一致があるということは、一切信じないことにしている。
いま質問された方の頭の中にあるように言論の自由を目的論的に使うか、あるいは私の言ったように、人間の本性ないし本能のためのやむを得ざるものとして認めるか、この二つの問題があると思いますね。
つまり、チェコの求める言論の自由というものは、いままであまりにも不当な圧迫をこうむって、言論統制をされてきた。お互い、こそこそ、友達の間でも人の少ないことろで政治論をやらなければたちまち引っくくられてしまう。これじゃ、かなわない、何とか人間の最小限の自由な意見が言えるような、最小限の自由が欲しいじゃないか、まあ、隣のおじさんの悪口も言いたい。総理大臣の悪口も言いたい。総理大臣の悪口も隣のおじさんの悪口も同じ次元で言いたい、それは私、ある程度人間の本能だと思います。その本能あるがゆえに言論の自由というものを考える考え方が一つ。
もう一つは、いま質間者が言われたように言論の自由をもっと理想主義的に、目的論的に追究し、言論の自由はそもそも何のためにあるか、それはどういう目的の達成のためにこれがあるのかという考え方。両者は全然違う考え方の筋道だと思うわけです。
さっき申しました民主主義下の言論自由というものは政治と直接、フィットしないように、つまり相互矛盾的関係につくられていると言いましたのは、そういう観点において、民主主義というものは矛盾した形態でノロノロ、グズグズ、ガタガタしながら、何とかコンプロマイズに達するという技術的な発明だと私は申し上げたように記憶します。と申しますのは、もし言論の自由が政治的達成に一直線に開かれている道は、たとえばバリの学生が主張したような直接選挙の形があるでしょ
う。直接選挙が政治形態として果していいのか悪いのか、直接選挙の上に一党独裁というものがもし成立しますと、一党独裁というものがいいのかどうか、これが非常に問題になるわけです。たとえぱいま人間の正義と幸福のためにと、あなたはこう考える。別の人間は正義と幸福というものをまた別なように考える。人間個々人の考えは別々であります。あなた方と、別の人の正義と、そういう声をどうやって完全に等分に実現することができるか。政治が一つの正義を実現すれば、それ
は必ず言論自由の弾圧へ来るんだ、なぜなら一つの正義の実現を一党独裁の形でやろうとすれば、必ずその先には秘密讐察・強制収容所がついてくる、これは人間性としての当然のことと思います。もし強制収容所もない、政治讐察もない、そして正義と幸福が実現される、しかもそれが言論自由の筋道を通って実現される、私はそのようなことを一切信じません。というのは正義というのは一つの妥協の上でしか成立しないようにできているので、もしそれが妥協でない、それだけの形
で実現すれば、必ずそれは言論の自由と衝突する結果になる、つまりあなたの言われたことは、言論の自由による正義の追究は必ず言論の自由の弾圧に終るということを私は言いたいのであります。ですから、言論の自由をそれほど窮屈に考えないである考えが実現するかしないかわからんが、とにかく言いたいだけ言ってやろう、言いたいだけ言ってやることによってそれが微妙な影響を相手に及ぼし、また微妙な影響が来るかもしれないが、それによって徐々に実現していく他はな
いというのが言論自由というもののどうしようもない性質だと考えます。

三島由紀夫「文化防衛論」(新潮社)より
---------------

1968年という年の世界の状況が伝わってくる討論だと思います。
1988年1月11日号のタイム誌のカバーストーリーは20周年ということもあり、ズバリ「1968年」ですが、この記事を執筆した、その当時のシニア・ライターであるランス・モローは、1968年という年を、「It was a tragedy of change, a struggle between generations, to some extent a war between the past and the future, and even, for a entire society, a violent struggle to grow up.(1968年は、変化という悲劇であり、世代間の闘争であり、いくらかは、過去と未来の間の戦争であり、そして、社会全体にとって、成長のための暴力的な闘争でさえあったのだ。」と形容していますが、何か、世界全体が見えない何物かに衝き動かされていたのではないかという感じがします。
それにしても、三島の質問者の質問の真意を的確に捉えて、自分の考えを分かりやすく伝える言葉を駆使する能力の高さには、ただただ凄いの一言です。
さて、映画労連の高橋委員長らの考え方は、三島のいう、言論の自由を「目的論的」に使おうということ、つまり、自分たちの理想とする社会実現のためには、映画プライドのような思想はけしからんから、こんなものは、公開すらままならぬ、それが、結局は社会のためになるのだ、というものでしょう。
三島は、
「言論の自由による正義の追究は必ず言論の自由の弾圧に終るということ」
と指摘していますが、非常に鋭いところを衝いていると思います。東京裁判を否定するような思想は自分たちの考える正義ではない、これは間違っている、と考えて、相手の言論の発表の機会すらをつぶそうとしたのでしょう。三島が述べているような事態が起こっている。東京裁判を肯定する人たちもこの箇所はしっかりと読んでもらいたいものです。勿論、東京裁判を否定する私も反対の言論の自由は守らなければとは思いますが、そこは、完全な聖人ではない人間には、どうしても、反対側の言論を何の偏見もなしに歓迎しよというようにはならない。場合によっては弾圧しようという行動に出る可能性もある。これは、人間が言論の自由を求めると同時に反対側の言論に対しては自分たちと同じ思想、言論と同じように接することができないエゴを持った動物である以上、仕方がない面もある。そうはいうものの、自分たちの偏見、エゴを自覚しながら、いかにして、自由な言論の社会を作っていくのか、この三島の言葉を読みながら、考えていきたい。
「私はあなたの考えには反対だが、あなたがその考えを発表する自由は、自分の命に代えても守っていきたい。」ということは、理想だが、なかなかできるものではない。しかし、この理想を追求しようとする人が多いほど、言論の自由度の高い社会といえるでしょう。
井沢さんは、この記事の最後に、
「本当にこの人たちは「表現の自由」ということを理解しているのだろうか」と
書いておられますが、頭ではわかっていても、実際の行動には反映されない、つまり、分かっちゃいるけど、止められない、ということでしょうな(苦笑)。
それにしても、井沢氏も指摘しているが、この当時、朝日新聞をはじめ多くのメディアは、この映画プライド公開中止申し入れに対して、言論の自由に対する弾圧だと問題にしなかったことが、不思議でならない。やはり、言論の自由にもダブルスタンダードは過去も、現在も存在するのだ。
人間とは理想を追求する動物でもある。
だから、どうしても、自分の理想に反する思想には警戒し、できれば葬り去りたい気持ちも湧いてくる。これは仕方のないものだと思う。理想を求める熱意が強い人ほど、この傾向は強くなる。共産主義の理想を求める運動が、過去、大量虐殺を生んだのは、人間の理想主義が持つ負の側面だろう。この人間の負の側面を自覚しながら、そして、言論の自由を守りながら、理想社会を追求していくこと、これがいまわれわれに求められていることだろう。



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
映画の公開中止圧力というと (ふんどし)
2008-04-29 03:41:47
確かどこかのヅラ愛用べんごしも

映画「A」の公開中止圧力かけまくったことがあったような記憶


ま、國の方は一度見てみたい気もしますがw
返信する
映画YASUKUNIには対日謀略工作の一環 (ニルヴァーナ)
2008-04-29 20:40:25
ふんどしさん、コメントありがとうございます。

いろいろ今までに得た情報で判断すると、やはり、YASUKUNIはシナ中共の対日謀略工作の一環だというのが、現在の私の結論ですね(笑い)。
そして、今回の騒動は、その策謀を知ってか知らずか、便乗した日本人の倒錯した行動との合作であったと(笑)。


それと、映画の製作手法にも問題がありすぎですね。
主役の一人の方がご自身の映像の削除を要求している以上、まず、それを削除してからの上映が、映画人として責任ある行動でしょうね。
靖国神社も、何か、削除要求のような声明を出していますよね。無断で撮られたと。

まあ、しかし、今回の騒動を見越しての行動であったとすると、その工作手腕はたいしたものだと思いますし、その騒動を煽った、煽られた日本人のおめでたさ加減にほとほとあきれています。
返信する