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離見の見について2008/07/24

2008-07-24 11:00:00 | 日記
離見の見について

平安時代の「田楽」「猿楽」を、室町時代に集大成した観阿弥世阿弥親子。
足利義満の死後、庇護者を失った世阿弥は、佐渡へ流され、大成した能を演じる場を奪われた。佐渡より京都へ戻された後も、世阿弥は演者としての自身を封印し、演劇論の執筆に専念した。

その演劇論が『風姿花伝』『花鏡』などに記録され、ながらく観世家一子相伝門外不出の書であったが、明治以後、その存在が世に知られるようになり、一般人も読むことができるようになった。以後、研究書注釈書はさまざまに出版されている。

『花鏡』には、世阿弥演劇論の極地ともいえる「離見の見」ということばがある。
多くの演者、舞踊者として舞台に立つ者にとって、演技することの神髄を言い表したことばとして知られてきた。

演技者には、演じる自分と、その演者を見ている自分のふたつが必要だ、と世阿弥は論じている。演劇的身体の二元論。

舞台の演技者は自分の姿を見ることはできない。鏡で見るとしても、特に後ろ姿を同時に見ることはできない。

<目前左右までをば見れども、後ろ姿をばいまだ知らぬか。>
<舞に、目前心後といふことあり。 「目を前に見て、心を後ろに置け」となり。>

  舞を舞う演者である自分は、目前や左右までは見ることができる。 それは「我見」である。 しかし、「我見」では、自分の後ろ姿まで見ることはできない。

  <見所(観客)より見る所の風姿は、我が離見なり。 ……離見の見にて見る所は、すなはち見所同心の見なり。 その時は、我が姿を見得するなり。>

 観客が舞台上の自分を見ている視線、これに同化するようにして自ら見て、自分の眼では決して見ることのできない、自分の後ろ姿まで見よ、自分の姿の全体を捉えよ。

 離見の見、つまりあらゆる観客の目の位置に心の目を置いて、自分の完璧な舞姿を完成させる。この目とは、現代の考え方でいえば、モニターテレビによるチェックである。しかし、現代のモニターチェックをしている自分は、演じている自分ではない。見ているだけの自分である。

 世阿弥は、演じる自分とそれを客観視する自分を同時に持て、と言っている。
 これが、『花鏡(きょう)』で説かれる「離見の見」説である。

<離見の見にて、見所同見となりて、不及目(ふぎょうもく=肉眼の届かない)の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし。>


2008-05-13 17:20:29 ページのトップへ コメント削除

Re:倉庫4
nipponianippon
> 倉庫4 離見の見について

「立ち上がった禅」としての舞踏からチューブへ」福原哲郎
(春秋2008年2/3月号p21より)

 私は20代から舞踏家として活動し、舞踏のエッセンスを社会的に生かすために<スペースダンス・イン・ザ・チューブ>を開始したが、そもそも舞踏には仏教的な思考と感性がつよく生きている。2001年四月にニューヨーク国連本部で講演した際にも、担当のロシア人ディレクターが日本文化に詳しいことも関係していたと思うが、「日本人ダンサーの身体と空間に対する完成は仏教的なもので、素晴らしい」と評論され、関係者の間では、私が仏教徒であるかどうかが話題になった。

私は特定の仏教の信者ではないが、大乗仏教の龍樹(ナーガールジュナ)には特別の親しみを感じ、いまでも作品を構成するときには龍樹の『中論』を参考にしている。形(フォルム)に対して傾倒しつつ形への執着を脱する方法を説く教えとして、とてもおもしろいからである。私が一番好きな仏教の言葉も、「心は形をもとめ、形は心をすすめる」というもので、この言葉も表現世界の品質を端的に説明しており、その直感的な思考方法は素晴らしいと思う。道元の解説で公明な寺田透先生にも、一時期、講演に足を運んでいただき、大変お世話になった。先生の「透体脱落論」にも大きな影響を受けている。
2008-05-13 17:33:35 ページのトップへ コメント削除

Re:倉庫4
nipponianippon
> 倉庫4 離見の見について

福原哲郎2

 舞踏を「立ち上がった禅」と批評したのは、私が知る限り、フランスのイボンヌ・テネンバウム(批評家・パリ)である。日本の舞踏は、欧米人にとっては、まさに新しい仏教の一勢力として「立ち上がった禅」に見えたようだ。舞踏には世界に立ち向かうというつよい姿勢があるため、このような動的な表現は絶妙である。

 次の文は、私の舞踏に対するイボンヌ・テネンバウムの批評であるが、ここにも人間にとって普遍的な「自我をどう脱するか?自我とどうつきあうか?」という課題に対するつよい関心が見てとれる。そして、私の場合だけではなく、多くの欧米の評論家が日本人舞踏家たちに対して、このような仏教哲学を参照したかたちでの批評を残しているのである。
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テネンバウム:
 日本の舞踏は欧米の支店からは異例の出来事であり、希少価値が高い。福原のダンスの特徴は、自己のダンスの経過を聞きつつダンスする、という点である。つまり、この舞踏家は、「自我としての主体」とはことなる「空間としての主体」という新しい位置を獲得している。この「空間としての主体」という観点こそ、今後の芸術や文化全般において重要な役割を形成することになる新しい哲学であるため、舞踏の重要な今日的な宝なのである。

「西欧とアジアの芸術」パリ第八大学
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2008-05-13 17:43:03 ページのトップへ コメント削除

Re:倉庫4
nipponianippon
> 倉庫4 「空」の主体について

福原哲郎3

 舞踏が、1970年代後半からフランスを入り口とした欧米文化に「発見」されて「BUTOH」として再生をはたすことができたのは、ちょうど欧米文化が自らの成熟に飽き、エスニックなものを求めて板敷きに重なっている。舞踏の動きの津kる伊方や自我に対する態度や空間形成の方法は欧米の舞踊とは大きく異なるため、その点が彼らの関心をひいたわけである。欧米のほかにも、珍しい中東からの批評としてフセイン・ビン・ハムザ(アンナハール紙・べいるーと)の次の新聞記事があり、ここでも「フォルムとの距離の取り方」についてつよい関心を示している。
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フセイン・ビン・ハムザ
 この夜、福原がベイルート劇場で演じたダンスは、われわれアラブ人には衝撃的な体験だった。それは、この世の福原が一目でダンスの素晴らしいテクニシャンであることを感じさせながら、フォルムに対しては驚くほど淡泊で、個々の動きに感情移入することなく、明確な距離をとっていたからである。
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 たしかに、舞踏においっては、海外の批評家たちが非適するように、身体を客体化できるほど、つまりフォルムに対して淡泊であるほど、自由に動ける。それは、身体を抜け出して身体を自由に操っている感覚である。その身体はまさに「異物としての身体」。そして、その身体を冷静な「心」が見つめている。この冷静な「心」こそ、イボンヌ・テネンバウムが言う意味での「空間としての主体」、つまり「空間に住む私」であり、龍樹が「中論」において説く「空」を実現する主体であると、私は思う。
(中略)
2008-05-13 17:56:22 ページのトップへ コメント削除

Re:倉庫4
nipponianippon
> 倉庫4 脳科学と「身体論」

福原哲郎4

(中略)
 脳科学者の入来篤史(理化学研究所:脳科学総合研究センター)は、「心」の発生について次のようなユニークな仮説を立てている。
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入来篤史:
 様相が一変したのは、ヒトの祖先が、外界の事物を手に持ち、それを身体の延長として動かそうと道具の地用をはじめたときでした。このとき、道具が身体の一部になると同時に、身体は道具と同様の事物として「客体化」されて、脳内に表徴されるようになります。自己の身体が客体化されて分離されると、それを「動かす」脳神経系の機能のうちに独立した地位を占める「主体」を想定せざるを得なくなります。その仮想的な主体に付けられた名称が、意志を持ち感情を抱く座である「心」というものではないでしょうか。

「脳研究の最前線」講談社2007
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2008-05-13 18:05:13 ページのトップへ コメント削除

Re:倉庫4
nipponianippon
> 倉庫4 脳科学と主体

福原哲郎5

 以上は、脳にとって、客体化されていない身体を動かすためには「心」は必要でなかったが、客体化された身体を動かすためには、「心」が必要になった、という議論である。チューブの中の体験者も、自分の身体とチューブを連続させることで両者を新しい身体として客体化し、その身体を動かすために「心」を自然に増幅させる。そうしないと拡張された身体を動かせないからである。さらに入来は、他者の「心」も、客体化された身体と同様に「動かす対象」として扱われるようになり、自己の「心の理論」が形成されはじめたと推論する。このような入来の考えは、<スペースダンス・イン・ザ・チューブ>
にとっても大変におもしろい。私たちは、体験者が「心」が発生する現場を退官することを通して、その成果を多様なコミュニケーションに応用することをめざしているからである。
2008-05-13 18:22:25 ページのトップへ コメント削除

Re:倉庫B4
nipponianippon
> 倉庫B4 自己と他者

福原哲郎6

これからの情報社会・恒例社会・宇宙時代を生きる人々が歴史上存在しなかった「新しい他者」に次々に直面し、そのような他者との関係の親和性について、誰かに教えてもらうのではなく、自分の感覚で判断しなければならなくなることは間違いないだろう。そのときに、「身体の客体か」という体験が役立つことになる。
「心」が発生するとすれば、自分とそこに存在する「多」の間に、その「他」がチューブのような空間であれ、他者の「心」であれ、ロボットのような機械であれ、遺伝子テクノロジーによって改造される生体であれ、ネット空間の内部であれ、一つの親密な関係が誕生するということである。逆に「心」が発生しないなら、そこには親密な関係は誕生しないことがわかり、その関係は大切ではないということになる。

 イボンヌテネンバウムは、日本の舞踏に欧米の自我とは異なる「新しい心」の誕生を見たわけだが、そのような「心」による「身体の客体化」というレッスンは、広く現代人の必須のレッスンになっていく可能性がある。チューブも「立ち上がった禅」のように立ち上がり、人々が直面する「迷い」から人々を救い出すツールに成長する醸しない。チューブもまた、「立ち上がった禅」としての舞踏が忌む出したという意味で、仏教からの一つの大切な贈り物なのである。(了)

福原哲郎1943年生 スペースダンス舞踏家、ディレクター
2008-05-13 18:39:52 ページのトップへ コメント削除

Re:倉庫4
nipponianippon
> 倉庫4 西田哲学の場の理論

福原の文章への<感想>

西田哲学についてまだよく読みこなせていないままなのだが、西田の場の理論も、福原の舞踏についての文章と、世阿弥の離見の見と、併せて考えてみると、日本語母語話者の「空間と自己/他者の認識」「自他表現の認知」が、おぼろげながら、結びついてくる。

日本語にとっての、「場」と、自他が、どのような様相をもつのか、考えてみる必要があると思う

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