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「翻訳の仕事の考え方」を読んで(感想)

2008-07-18 23:41:00 | 日記
1)「母語で書くこと、翻訳の仕事の思考」の感想
Writing in Tongues Thoughts on the Work of Translation by Steven Ungar

 アンガーは歴史のなかで、翻訳が二次的なものとして扱われ、翻訳者の業績が、オリジナルの作者筆者に比べて、低く扱われてきたことを述べている。
英語圏の言語文化で、圧倒的に英語による言説が優位にたって社会に流通していたが、デリダなどの翻訳によって、非英語圏の言説が哲学、文化、文学に大きな影響をもつにいたって、ようやく翻訳の仕事がいかに重要で独創性のある言語文化のひとつであるかが、省みられるようになった。
インド出身のスピヴァク、北アフリカ・モロッコ出身のハティビら、バイリンガル作家の活躍によって、二重また多重に言語を使用する人々のアイデンティティについての論説も多くなった。

さて、日本ではこのようなバイリンガルな作品また、翻訳者の社会的評価はどのようであったか。
英語圏とだいぶ事情が異なる。
日本には歴史的に4度の大量外国文化移入期があった。
大陸からの漢字と中国文化仏教文化をとりいれた、大和~平安期。
ポルトガルエスパニアを中心とする西洋文化の移入とそれに引き続く江戸時代のオランダを中心とする西洋文化の選択的移入の時代。
幕末明治の急激な西洋文化移入期。そして、1945年以後のアメリカ文化移入期。
日本の文化は、次々と入ってくる文化との融合によって成り立ってきた。

平安初期までは、中国語を自由に読み書きできることが、教養人のあかしであったし、「文章を書く」といえば、漢詩文の執筆を意味した。
幕末明治期には、英語が読み書きできることがエリートへの近道であり、英語通訳や翻訳者は、社会的に高い地位を保っていた。

文学でも、二葉亭四迷のロシア文学翻訳はじめ、翻訳文学はその紹介者翻訳者は原著者と同じくらい「価値ある人」として遇された。
明治以後の日本では「学者」というのは、「西欧の学説をいち早く読みこなして翻訳できる人」の意味だった。

現在にいたっても、柴田元幸、金原瑞人ら「スター翻訳者」が「文化人」として高い社会的地位を保証され、村上春樹が新訳をだせば、それまで本を読むことの少なかった高校生が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読み始める。
村上は創作家としても翻訳者としても、同等の価値を与えられている。
日本では、「翻訳者が創作家に比べて低い地位に甘んじている」ということは、少なくとも出版界、学会では欧米ほどの差がなかったと思う。

ハティビら、バイリンガル作家の問題について。
これも、日本では事情が異なる。
ひらがな普及に至るまで、日本で「文章を書くことができる」ことは、漢詩文を書くことができる、という意味だった。平安末期の歌人藤原定家。和歌の達人であっても、その日記『明月記』は、漢文で書かれている。
もちろん、奈良期までの漢詩文とことなり、ひらがな普及以後の日本人の書く漢文は日本化した漢文であって、中国語そのままではない。「和臭」と呼ばれる、日本独特の漢文となっている。
それでも日常語として母語は日本語を使用している人が、漢語の意味は同じであっても、統語構造の異なる漢文を自由に読み書きするためには、頭のなかがバイリンガルになっていることが必要だったと思う。
常に、翻訳と隣あわせで、文章を読み書きしてきた。これが日本語言語文化の出発だ。日本語言語文化は、バイリンガル思考によって基礎を固めてきた、ということの意味をもう一度考えていくべき時期になっていると思う。

現代日本語言語文化において、バイリンガルとアイデンティティの関連について、「在日文学」また、「旧植民地で日本語教育を受けた人々が残した文学」の問題がある。後者については、台湾、旧満州などで発表された日本語文学の再評価がはじまったところなので、これからどのような成果があるか、楽しみにしている。
リービ英雄、アーサー・ビナード、揚逸(ヤンイー)ら、日本語を母語としない人々の小説、詩、評論などがつぎつぎと社会的に大きく評価されるようになり、これからの「日本語文学」のさらなる広がりを考えると、この「Writing in Tongues Thoughts on the Work of Translation」を読むことは、大きな示唆を与えられる機会であった。
翻訳の問題、バイリンガルによる思考と執筆、などは、これからの日本語言語文化シーンにとって、日本語言語文化の広がりと受容の発展にとって、優粋な観点を与えてくれると思う。

(感想おわり)