フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

エディット・ピアフと悲劇について

2020年03月10日 07時00分00秒 | 日々の出来事・雑記

ちょっと前に、面白いドラマを見た。
「死にたい夜にかぎって」という小説をドラマ化したものだ。
母親に幼くして捨てられた主人公。何度女性に裏切られても、愛さずにはいられない。
どんな不幸が起こっても、「まいっか」と笑い飛ばす。

ドラマを見ていたら、山本舞香がエディット・ピアフの「愛の讃歌」を歌っていた。

あの歌を聞くと理由もなく涙が出てくる。
山本さんが、下手くそだが味のある歌い方をしたからかもしれない。

あなたの燃える手で
あたしを抱きしめて
ただふたりだけで 生きていたいの
ただ命の限り あたしは愛したい
命の限りに あなたを愛するの

エディット・ピアフは子供のころ、角膜炎で目が見えなかった。
母は売春婦で、父親は大道芸人。身内の間をたらい回しにされた。
愛情の薄い幼年期だったに違いない。
臆病なピアフは、ナイトクラブのオーナーに説得され、歌い始め、成功する。
パリの酒場で歌っていたピアフは、ふらりと立ち寄ったボクサーのマルセルと出会う。
はじめて会ったときから惹かれ合う二人。
ピアフは妻子のあるマルセルと大恋愛になる。しかし、彼は飛行機事故で死んでしまう。
愛の讃歌は、マルセルが死んだ後に歌った歌だ。
歌詞の中の愛する男は、マルセルのことだ。
彼女の壮絶な人生を考えれば考えるほど、彼女がどれだけ真摯に愛を求めていたのかが想像できる。
その彼女の悲劇的人生は、僕の心を揺り動かす。
それはなぜなんだろうか、と考える。


小林秀雄の「悲劇について」の一節だ。
ちょっと引用してみよう。


悲劇は人生肯定の最高形式だ。

人間に何かが足りないから悲劇が起こるのではない、何かが在り過ぎるから悲劇が起こるのだ。

否定や逃避を好むものは悲劇人足りえない。

何もかも進んで引き受ける生活が悲劇的なのである。

不幸だとか災いだとか死だとか、およそ人生における疑わしいもの、嫌悪すべきものをことごとく無条件で肯定する精神を悲劇精神という。

こういう精神のなす肯定は決して無知からくるのではない。

そういう悲劇的智恵をつかむには勇気を要する。

勇気は生命の過剰を要する。

 

意訳すると「愛のためなら、人生に何が起こっても構わない。なんでも来やがれ。受けて立つ」ということかな。

 

コメント
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