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本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

「死」と「お墓」と「生きる」

2005年12月21日 | エッセイ・日記・意見
僕は、「死」に関して敏感である。特に父親を亡くしてからは。関西に出張で帰って、時間のある時は、神戸のお墓にお参りする。
 お墓の中を歩いていると、いろんな人の人生が見えてくる様な錯覚に捕らわれる。「軍人の墓」「明治・大正時代に建てられた墓」「若くして亡くなった人のお墓」・・・

「生きるという事」に対しての「欲望」が強いのかもしれない。だから、その対極にある「死」を敏感に感じ、恐れ、時にはおののくのである。

 テレビという箱の中で活躍していた人が或る日から突然、姿を消す。あるいは自然に消えていく。そして、何ヶ月か何年か経って、「その人の訃報」を聞くとドキドキする。最近、子供の頃、テレビで活躍していた人の訃報によく接する。自分が齢を重ねてきたという事なのだろうが、「ひとつの大切な思い出・懐かしさ」が消滅していく様な思いに駆られる。

 塾の先生に刺殺された女の子の事件があった。「ゲーム脳」全盛で、「五感」が鈍くなっている現代人は追い詰められると、心の中で「悪い方へ考え込むスパイラル」に囚われ、前後見境なく、常識では考え付かない様な事件を起こしてしまう。殺された子供の親や兄弟の思いを考えると、凄い脱力感を覚える。

もし、僕と妻の子供達に危害を加えたり、殺されたりしたら、気が狂うくらい「訳が分からなくなり」、僕は「加害者」を殺したい!!!と思うだろうし、それを行動に移すかもしれない。

その位、「人の命は尊いもの」であり、「かけがえのないもの」である事を分からなくなっている人間が潜在的にいるのだろう、今の日本に。悲しい事だし、そういう風潮を変えていかなければと僕は思っている。

今年、終戦60年の番組が多かったのも、テレビの視聴者が、「命について・・・どう生きるかについて、改めて考え始めた」のでは無いかと思う。終戦50年の時には無かった現象である。 

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