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ジャッキー・ロビンソン・・・黒人初のメジャーリーガー

2007年05月13日 | 健康・スポーツ
ジャッキー・ロビンソン(Jack "Jackie" Roosevelt Robinson 1919年1月31日 - 1972年10月24日)はアメリカ合衆国の元プロ野球選手。それまで有色人種を排除していたメジャーリーグベースボールにおいて黒人選手としてデビューし活躍。有色人種のメジャーリーグ参加の道を開いた。本名はジャック・ルーズベルト・ロビンソン。右投げ右打ち。二塁手[1]。

生い立ち
ジョージア州出身。カリフォルニア州のパサディナ短期大学(現パサディナ市立大学)と、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)でアメリカンフットボールや野球などで活躍。関わった競技すべてで高い能力を発揮したので、ことなる4競技すべてで奨学金授与の資格をもらえたほどであったが、中退して軍隊に入隊する。退役後の1945年にニグロ・リーグのカンザスシティ・モナークスに入団。


メジャー・デビュー
その年の末に、当時のブルックリン・ドジャースの会長ブランチ・リッキーに誘われる。リッキーは優秀な選手を欲していたが、その供給源としてニグロ・リーグの黒人選手に求めたのだ。様々な選手選考の中、当時ドジャースのスカウトであったジョージ・シスラーはロビンソンの人間性を高く評価し「彼、ロビンソンなら批判を乗り越えられるから大丈夫」と推薦を受けたものだった(単なる野球の成績だけであればサチェル・ペイジが第一の候補だったといわれるが、様々な誹謗・中傷に耐えうる人間性をロビンソンは持ち合わせていた)。黒人がメジャーリーグに入ることで受けるであろう反感と差別にロビンソンは最初は躊躇するが、リッキーの熱心な誘いにより、翌年からドジャースの傘下の3A・モントリオール・ロイヤルズに入団、その翌年にはドジャースに昇格した。

1947年4月15日、ロビンソンがメジャーデビューする。予想通り、白人たちからの反発は激しくロビンソンとリッキーの家には連日脅迫の手紙が届き、観客からの野次はすさまじく、チームメイトのなかにはロビンソンとプレイするのを嫌がって移籍した者もいた。

しかしロビンソンは逆境にめげず、常に紳士的に振る舞い、どのような酷いことをされても決して報復をしなかった。この状況の転機は8月末にやってくる。その日の試合で一塁のベースカバーに入ったロビンソンに相手チームの選手がスパイクを立ててスライディングし、ロビンソンに怪我をさせた。このことでチームメイトが相手チームへの怒りで一丸となり、白人のチームメイトたちがロビンソンをかばった。同時にロビンソンの活躍とその態度に世論も徐々に味方するようになっていった。

ロビンソンはこの年に打率.297、12HR、48打点、29盗塁という成績を残し、チームの優勝にも貢献し、この年より制定された新人王を受賞した。翌年からも活躍を続け、1949年には首位打者と盗塁王を獲得し、MVPに選ばれた。また1949年から6年連続で3割を達成している。


引退後
1956年にはジャイアンツへの移籍が持ち上がるが、ロビンソンはドジャースにこだわり、ドジャースにいられないならばと翌年の1月に引退してしまった。その後、1962年には野球殿堂入りを果たす。引退後は実業家として活躍し、また黒人差別撤廃のための政治活動に力を注いだ。また、長男のジャッキー・ロビンソン・ジュニアが麻薬中毒で亡くなったため反麻薬活動にも積極的に参加した。著書に自伝"I Never Had It Made"(邦題・黒人初の大リーガー)がある。1972年10月に心臓病で死去。


偉大な足跡
ロビンソンの活躍により、黒人選手の門戸が開かれ、大きくメジャーリーグの野球レベルが向上した(彼のおかげでハンク・アーロンやウィリー・メイズ、サチェル・ペイジがメジャーデビューできた)。マイノリティにも門戸は開かれ、長期的に見れば黄色人種である日本の野茂英雄やイチローを受け入れる下地ともなった。現在のアメリカメジャースポーツは、もはや白人のみの試合などありえない(唯一の例外はNHLであろうか)。また野球だけではなく、ロビンソンの活躍が人種差別へ与えた影響も非常に大きい。

1997年4月15日、ロビンソンのメジャーデビュー50年目にあたるこの日、彼の功績を称えて、ロビンソンの背番号「42」が全球団共通の永久欠番となった(ただし、マリアノ・リベラなど、それ以前から背番号42をつけていた選手に関しては特例として背番号42を継続使用することが許可されている)。1999年には、MLBオールセンチュリー・チームの二塁手部門に1位で選ばれている。通算成績では他の候補選手に一歩譲るものの、その存在意義が高く評価された結果である。また2004年4月15日からはこの日が「ジャッキー・ロビンソン・デー」とされて、メジャーリーグの記念日となった。また、2006年の同日には、ケン・グリフィー・ジュニアのコミッショナーへの提案により、希望する選手全員が背番号42を着用して試合に出場した。ドジャース、カージナルス、ブルワーズでは選手・監督・コーチ全員が42番を着用した。

日本のプロ野球でプレーする外国人選手に42番をつけている選手が多いのは、日本人は「42=死に」として忌み嫌う数字であるのに対して、メジャーリーグでは今やつけることができない偉大な背番号であるためである。


脚注
^ 一般に「黒人初のメジャーリーガー」として有名であるが、厳密なことを言えば黒人初のメジャーリーガーは1884年にアメリカン・アソシエーションでプレーしたモーゼス・フリート・ウォーカーであり、その他にも数人の有色人種プレイヤーが存在していた。その後メジャーリーグが体制を整備していくなかで有色人種排除の方針が確立、その体制を打ち破ったのがジャッキー・ロビンソンである。ただし、メジャーリーグが体制を整備し終えた1900年以降の「近代メジャーリーグ」を単に「メジャーリーグ」と呼ぶこともあるので、「黒人初のメジャーリーガー」という呼称も間違いというわけではない。



ニュースとして・・・
イチローの美学。ジャッキー・ロビンソンの偉業は、個人的に称える。

イチローは、背番号「42」を丁重に辞退。MLB機構は、15日をジャッキー・ロビンソンのメジャーリーグデビュー、60周年を記念する特別な日として、その1日だけ、全球団に対して永久欠番である背番号「42」をつけたユニフォームを着用することを許可している。マリナーズでは、一体、誰が背番号「42」をつけるのか。

 地元紙「シアトル・ポスト・インテリジェンサー」紙の電子版は13日付けで、「イチローは、もっと個人的なやり方で、当日を祝う」と報じている。
 「大切なことは、ジャッキー・ロビンソンが成し遂げたことをに対する想いを持ち続けること。背番号「42」のユニフォームを着る予定はないけれど、おそらくは、帽子の裏に「42」と書くだろうと思う。彼を近くに感じることは大切なこと。それは、尊敬の問題。だけど、僕は、僕にしか見えないところで、やると思う」とインタビューに答えている。イチローは、自らの流儀に従って、こっそりとジャッキー・ロビンソンの偉業を称えるつもりでいる。【USA通信】



最初に「突破口を開く人」の苦労は並大抵なものではない。大リーグ全球団の「永久欠番」があるなんて知らなかった。嬉しいことだと思う。日本ではできないだろうなぁ~


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