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美輪明宏。

2007年02月27日 | テレビ番組
テレビ朝日『オーラの泉』がゴールデンタイムに4月から進出する。スピリチュアルカウンセラー江原啓之、霊感の無い一般人という役割のTOKIOの国分太一、そしてゲスト。この座組みは分かるが、美輪明宏の立ち位置が僕には今一つ納得がいかない。江原人気に乗っている様に見えてしまう。霊感もあるのかもしれないが。皆さん、そう思いません?


美輪 明宏(みわ あきひろ、1935年5月15日 - )は、日本の歌手、俳優、演出家、タレント。長崎県長崎市出身。本名:丸山 明宏、幼名 臣吾(しんご)。海星中学を経て国立音楽大学付属高校中退。愛称はマルさん。 1971年までは本名の丸山 明宏名義で活動していた。また、曲の作者名は本名名義である。

経歴

長崎時代
美輪の実家は長崎市内でカフェを経営していた(その規模や華美さは当時を知る人達の語り草であったという)。美輪が幼い日を過ごした当時の長崎は昭和モダンの最盛期で非常に賑わいがあり、また竹久夢二の長崎十二景そのままに、様々な国籍を持った人々が幻の様に暮らす美しい街だった。

しかし当時の体制の右傾化・軍国主義化、さらには長崎市への原子爆弾投下が美輪をはじめ、一家を長年苦しめることとなる。父は”敵性文化(を商売にすること)は時局にそぐわぬ”と言われ、カフェを閉店せざるを得なくなり金融業に転業した。幻の様に美しかった長崎も原爆投下により本当に幻と化してしまう。当時10才の美輪は爆心地に近い父方の実家に居たが、奇跡的に無傷で助かっている。しかし原爆で父の貸付先が相次いで破産、他界したため美輪一家は貧乏生活を余儀なくされ、加えて美輪の父の後妻(美輪は2歳の時、病気で母親を亡くしたが、父の後妻は美輪にとっては優しい養母であった)が他界し、後々妻も失踪する(後々妻は父の連れ子である美輪たちとも不和だったという)などの不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送った。

終戦後、11歳の時に観た映画に出演していた加賀美一郎のボーイソプラノに衝撃を受け、程なくして声楽とピアノのレッスンを受け始める。海星中学では同期に西岡武夫がいた。エンリコ・カルーソーやベニャミーノ・ジーリの様なオペラ歌手、コンサート歌手を夢見て、高校進学のため15歳で上京する。

歌手 丸山明宏
1952年、17歳の時に銀座のシャンソン喫茶『銀巴里』と専属契約し歌手デビュー。

1957年、 フランスのシャンソン『メケ・メケ』を日本語でカバーし、大ヒットとなる。元禄時代の小姓の衣装を洋装に取り入れ、レース地のYシャツなどを身に纏うユニセックスファッションと、「天上界の美」と三島由紀夫が絶賛した美貌で、マスコミから「神武以来の美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡する。

三島とのエピソード 「丸山君。君には一つ欠点がある。それは俺に惚れないことだ」

「衣装革命」と称し、始めたこの活動も当初は世間から冷遇され、全国紙に「丸山明宏を芸能界から追放せよ」と言った内容の批判記事が掲載されたり、見も知らぬ人から石やビール瓶のふたを投げ付けられもしたと言う。(しかし近年ではヴィジュアル系の元祖「美輪様」として大いにリスペクトされ、ゴスロリ系雑誌にインタビューが掲載されるほどである)

『メケメケ』以来のブームは1年程で沈静化し、その間に雑誌を通じて同性愛者である事を公表(カミングアウト)した事や、旧来のシャンソンのイメージ(美輪曰く 蝶よ花よ、星よ月よに終始する「おシャンソン」)に無い、自ら訳した原詞に近い生々しい内容のシャンソンを歌った事に対する反発もあり人気は急落する。

そんな逆風の中、作詞作曲活動を開始。今もって美輪の主要なレパートリーとなっている『うす紫』、『金色の星』、『ふるさとの空の下』等はこの頃、既に作詞作曲していた。しかし、歌い手が自ら作詞作曲した歌を唄う事には当時の聴衆からも歌謡界からも理解を得られず、レコード化すらできなかった。美輪曰く「人様の情けに生かされた」不遇の時代が続いた。 しかし1963年には中村八大らの助力により日本初の全作品自らの作品によるリサイタルを開く等、徐々に理解者が現れ始め、翌1964年には『ヨイトマケの唄』を初めてステージで披露する。 1966年、前年の内にレコード化されたヨイトマケの唄(『ふるさとの空の下』とのカップリング)が注目され人気が再燃。こうしたことから「日本のシンガーソングライターの元祖」と言われている。

俳優 丸山明宏
1967年、寺山修司の演劇実験室・劇団天井桟敷旗揚げ公演で、寺山が美輪のために書き下ろした『青森県のせむし男』や『毛皮のマリー』に主演。

さらに1968年、三島由紀夫に熱望され舞台『黒蜥蜴』(くろとかげ、原作・江戸川乱歩、戯曲化・三島由紀夫)に主演し、歌舞伎、新派の女形に続く現代女形の創始者として高い評価を得る。この『黒蜥蜴』は深作欣二により同年、映画化され、舞台同様にヒットした。また1990年代初頭にはニューヨーク、パリなどでこの映画が上映され、『ニューヨーク・タイムズ』誌にも大々的に取り上げられる程のヒットとなり、ニューヨークでは美輪を英語でトカゲを意味するリザードにちなんで「リズ」と呼んでいた(「リズ」は元来エリザベス・テイラーの愛称)。

『黒蜥蜴』以降も『椿姫』、『マタ・ハリ』、ジャン・コクトー原作『双頭の鷲』(王妃の演技に対し、日本初の女王役者誕生と賞賛された)といった舞台や『黒薔薇の館』、『雪之丞変化』等の映画・テレビドラマでの主演を続ける。また1970年からはTBSラジオ「ラジオ身の上相談」を担当する様になったが、その回答の的確さから芸能人が担当する人生相談としては異例の25年という長期に渡り続いた。

美輪明宏に改名
1971年、丸山明宏から美輪明宏に改名。女優引退宣言(女性役を演じなくなるので、当時こう表現された)をし、舞台を離れ歌手活動に専念し始める。銀巴里やジァンジァンでのライヴや全国各地でのリサイタルを精力的に行い、『白呪』等のアルバムも多数発表した。また男性役では映画(1977年 井上ひさし原作『日本人のへそ』)やドラマ(1976年『さくらの唄』)に出演している。

1978年『枯葉の寝床』(原作 森茉莉)で舞台活動を再開するが、この頃より呼吸器系に持病を抱えるようになる。俳優、歌手活動に支障をきたしはじめ、トークショー等のテレビ出演を控えるようになる。しかし、その後も演劇では1979年にエディット・ピアフの生涯を描いた、自作自演となる『愛の讃歌』を初演したり、1980年の「メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行」では夜の女王役を好演している。 1983年には『毛皮のマリー』や『青森県のせむし男』を再演した。さらに1984年には『双頭の鷲』を再演するが、体調は悪化する一方で1985年の『大典礼』(原作・演出 フェルナンド・アラバール)を最後に1993年の『黒蜥蜴』再演まで再び舞台から降りる事となった。

歌手としては1984年にパリで、1987年にはパリ、マドリッド、シュトゥットガルトでリサイタルを行い『ル・モンド』、『リベラシオン』を始め多数の新聞・雑誌に紹介・絶賛された。また1986年からは現在も続くPARCO劇場でのロングリサイタルが始まり、それ以外にも全国各地でのリサイタル公演を行い、舞台に立てなくなった後も切れ目なく活動を続けた。

1990年、東京芸術劇場のこけら落し公演『マリー・ローランサン』を演出。この時既に『黒蜥蜴』再演の企画は持ち上がっていたが、体調面から断念している。またこの年、40年近く唄い続けて来た銀巴里が閉店となり、美輪は最後の日の「さよならコンサート」で自ら作詞作曲した『いとしの銀巴里』を涙ながらに歌い上げた。この模様を各メディアは挙って大きく報じ、また翌1991年の映画『黒蜥蜴』のニューヨークでのヒットなども重なり、この頃から美輪が言う「メケメケ、よいとまけ、黒蜥蜴に続く四回目のブーム」の時期が訪れ、テレビやCM等への出演が増え、リサイタルのチケットも入手しづらい状況になって来る。

黒蜥蜴再演以降
1993年、1985年の『大典礼』以来舞台に立てない程に悪化していた持病が前年に奇跡的に完治した事で、24年ぶりに待望の『黒蜥蜴』を再演。前売りのチケットは発売日当日に完売するなど世間の注目を集めた。またこの再演時には自ら主演、演出、美術、衣装、選曲を担当し、以降上演される舞台は1994年、1996年の『毛皮のマリー』以外、全て主演する美輪自身の演出となり、多くの場合 美術・衣装・選曲も務め、脚本・振り付け(美輪明宏版 椿姫)原作(愛の讃歌)を兼ねた作品もある。

『黒蜥蜴』の再演は93年以来1994年、1997年、2003年、2005年と続けられている。

1994年には『毛皮のマリー』を海外から演出、照明、音楽など当代一流のスタッフを招き再演し、話題になる。この劇場側が用意した形式は1996年の再演時にも引き継がれるが、美輪曰く「演出があんまりひどい時は私が手直しした」そうで、結局2001年の再演では自ら初演出する事となる。キャストも美少女を含め全員男性で演じる本来の形式に戻され、決定版と言える公演となった。

1996年、三島由紀夫が30年来熱望していた美輪演出・主演による『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』をついに上演。三島を歓喜させた当初のプラン通り、ダリと尾形光琳を取り入れた舞台デザイン(葵上)や99歳の老婆から19歳の美女への早替り(卒塔婆小町)など趣向を凝らした舞台となる。また、その年の秋には『愛の讃歌』を17年ぶりに再演した。

1997年、13年ぶりの『双頭の鷲』再演で読売演劇大賞優秀賞を受賞。 映画『もののけ姫』では山犬神、モロの君の役で声優を務め、東京スポーツ新聞社主催映画大賞(審査委員長 北野武)助演男優賞を受賞する。

1998年には再び『葵上・卒塔婆小町』を上演、秋にはデュマ・フィス原作「美輪明宏版 椿姫」を30年ぶりに上演し、いずれも好評を博す。この年2本の芝居を上演したのを最後に翌年の『双頭の鷲』以降、舞台作品は年1本の上演ペースとなる。一方、美輪が舞台活動を再開した1993年以降、芝居のスケジュールとの調整が必要となり公演が無い年(1996、1997年)もあったPARCO劇場でのロングリサイタルは1998年以降「音楽会」と名を改め、毎年行われる様になり、以来、美輪のステージは春先の芝居、秋の音楽会で定着し、現在に至っている。

2000年、銀巴里閉店後、唯一のライヴ活動の場となっていた渋谷ジァン・ジァンが閉場となり、2000年3月29日が美輪のジァンジァンにおけるラストライヴとなった(閉場は2000年4月25日)。

一方でこの年、名作として名高いアルバム『白呪』が再発売され、桑田佳祐がフジテレビ系『桑田佳祐の音楽寅さん~MUSIC TIGER~』内で『ヨイトマケの唄』を歌った(美輪はそれをとても喜んだ)ことが話題となり、元祖シンガーソングライターとしての美輪に注目が集まり始める。これ以降も槇原敬之や米良美一を始めとして、多くのアーティストによる「ヨイトマケの唄」の優れたカバーが発表されている。長く放送自粛となっていた民放各局(NHKでは自粛対象ではなかった)で放送される機会も増え、ついに美輪自身もテレビ東京『たけしの誰でもピカソ』内でこの曲を歌い、オリジナルシンガーならではの歌声を聴かせた。

人柄
かつて実家が料亭やカフェ、銭湯など手広く経営しており、美輪はそこを遊び場として育った。そして、そこでボーイや女給、客達により繰り広げられる様々な人生模様を見る内、人を見る目が自然に養われたという。

本人曰く「天草四郎ならびに神功皇后の生まれ変わり」であるという。またフランス公演の際、インタビュー中「私の前世はサラ・ベルナール」と発言し現地の記者から喝采を浴びたと言う。

貧乏を経験していることから、駆け出しの役者などの面倒見がいい。秋野太作は新人のころ美輪に「あなたおなかすいてるでしょう」いわれうな重をおごってもらったことがある。渡辺えり子は「化粧をしないブスは漬物石にもならないわよ」と美輪に言われた上に楽屋で美輪に化粧を施されたことがある。

近年は『オーラの泉』の番組の影響もあって、非常に真面目な人物として認識されがちだが、実際にはウィットとユーモアにあふれた人物でもある。かつて『さんまのからくりTV』に出演した際には珍答・奇答を連発し、正解はなかったが "ナイスなボケ" に対して付与される「ナイスボケ」を4つ獲得し優勝した事もあった。 また『トリビアの泉』に出たときには「仮面ライダーとウルトラマンの共演作があった」というトリビアを「こんな馬鹿馬鹿しいの大好き」と笑い、満へぇを打った。

三島由紀夫が自殺した翌年=1971年(自身36歳)頃には一気に白髪になったと語っている。長らく髪の毛を黒く染めていたが、最近は風水に基づき黄色く染め、さらに絵画モナリザのようなロング・ヘアーにしている。従って現在地毛は黄色である(テレビで時折見かける栗色の短髪はウィッグ(=かつら)を被った姿)。自身の黄色く染めた髪の毛を指し「前世はピカチュウもしくはトウモロコシ」と発言していた。

また自宅で飼っていた犬の名前が「そうめん」、「ラーメン」、「ジャージャーメン」だった時もあったらしい。

その一方、大変義理堅い人物としても知られ、マネージャー、舞台スタッフ、バックバンドのメンバー、レコード会社の担当者など、30年、中には40年以上の関わりを持つ関係者が大半である。

交友関係
銀巴里時代から現在まで、数多くの作家(三島由紀夫、江戸川乱歩、澁澤龍彦、吉行淳之介、瀬戸内寂聴、なかにし礼など)や画家(東郷青児、中原淳一、横尾忠則など)、演劇人(17代目中村勘三郎、18代目中村勘三郎、杉村春子、初代水谷八重子、2代目水谷八重子、寺山修司、蜷川幸雄、坂東玉三郎、渡辺えり子など)、また伝説のロックバンドQUEENのボーカルであったフレディ・マーキュリーと親交があることで知られている。

稀有な才能を持った芸術家との交流の経験や数々の文化、芸術に触れたことが現在の幅広い活動につながっていると言える。 芸能活動だけにとどまらず、テレビやラジオでの人生相談やカウンセリングでもその言動は注目されている。スピリチュアルカウンセラー江原啓之に信頼を置き、霊能者木村藤子とも親交関係を築いている。

その他
現在の愛車はトヨタ・クラシック。限定100台の高級車である。他にジャガー(ピンク色)、日産フィガロがある。

美輪明宏に見初められた人(横尾忠則・菅原文太・豊川悦司・渡辺えり子・ビートたけし・タモリ・明石家さんま・爆笑問題・吉井和哉・ヒロシ)は必ず売れると言われるが、中には、その監督作品RAMPOを美輪が絶賛したにもかかわらず、松竹を追放された奥山和由のような例外もある。

2006年8月19日、NHKのスポーツ番組にゲスト出演した際、第88回全国高等学校野球選手権大会の決勝戦(駒大苫小牧(南北海道)対早稲田実業(西東京))について、アナウンサーからの勝利予想の質問に対し「どちらも頑張っているので、引き分けになってほしい」というような回答をした。翌日の決勝戦では延長15回1-1の引き分けになり、翌日再試合となった。

毒蝮三太夫が司会のヨークマートミュージックプレゼントに時折出てくる自身のものまねをするおじさんとは未だに面識がない。

2005年4月、『薔薇族』復刊号で伊藤文學編集長との対談に応じた。

作家の佐藤愛子が北海道の自分の山荘でラップ現象などが発生したことを彼に相談したところ、その山荘の状況を言い当て「あなた、大変な所に家を建てちゃったね。」と佐藤愛子に言ったことがある。
NHK-DVD 美輪明宏「人生愛と美の法則」1

キングレコード

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内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
2005年2月~3月にかけNHK教育TVで放映された『美輪明宏「人間講座~人生愛と美の法則」』全8回の中から、前半4回分を収録した第1弾。美しくも壮絶なる自らの半生や、三島由紀夫や寺山修司などの芸術家たちとの交流から培われた独特の美意識を披露する。



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