お酒を飲む場は好きだ。でも、僕は「酒乱」である。飲み屋の階段を転げ落ちたり、気づくと土砂降りの中、知らない町を歩いていたり、助監督と喧嘩をして、相手の顔を血だらけにしたり(全く記憶に無く意識が戻ったときに目の前に彼の血だらけの顔があった)、ダメダメ人間である。最近はあまり暴れていないが、精神不安定の時に酒を飲むと、暴れる可能性が高い。学生時代、バスケの合宿で、民宿の二階の廊下を全力疾走し、突き当たりに一階への階段があることを忘れていて、そのまま、転落し、先輩達に迷惑をかけた事があった。しかしながら、酔っていると、階段を何度も落ちているが、余分な力をかけない、「蛸」のような状態なので、ケガをしたことはない。しらふで同じ事をやっていたら、どこかで、助かろうという気持ちが働き、骨折などしていただろう。それにしても、多くの友達、先輩、後輩に、御迷惑をかけました。ゴメンナサイ。
僕が大学一回生の時、サザンは衝撃的なデビューを果たした。僕は、ほんと、音楽に関しては全然知識も興味も無い方なのだが、サザンだけは、すべてのLPを買い、CDになったら、買い直したほど好きである。好きな曲は、「旅姿六人衆」「Oh!クラウディア」「栞のテーマ」「お願いDJ」「女呼んでブギ」等である。大学時代は親のを借り、バスケットの練習に行くときなんか、テープにサザンをダビングして、聞き続けたものだ。初めてウォークマンを買った時も、バスケの合宿で高山に行く車中、サザンを聴いていた想い出がある。「ウォークマン」は、日本の風景に音楽をつけた、画期的なマシーンだと思う。
僕は基本的に、「画」が可愛い漫画が好きだ。それとギャグ漫画。劇画や少女漫画は本能的に受け付けない。「マカロニほうれん荘」が連載されていた当時は、衝撃的だった。あのギャグのクオリティーで最後まで・・・とは思っていたが、さすがに無理だったようだ。鴨川つばめはどうしているのだろう。手塚治虫は、小学館漫画文庫で初めて、「シュマリ」を読んでから、はまった。ストーリーや着想性の素晴らしさに息を呑んだ。手塚先生が今、御存命なら、「火の鳥」の結末はどうなっていたのだろう。
大阪地下鉄の梅田の駅にまだ、切符の自動販売機が無い頃の話。11枚綴りの回数券を買って、それを定価で売り、1枚分を自分の利益にするおばちゃん達がいました。11枚売って、1枚の利益ですから、のどかな時代というか。あの人達はどこに行ったのでしょう。それと脈絡なく書きますが、梅田に唯一あった「シネラマ上映館OS劇場」の裏手のカウンターで食べれたOSカレーが好きでした。安物のカレーで具は完全にとけたのか、元からいれていないのか、今になっては定かではありませんが、具の無い汁のカレーでした。OS劇場では「センサラウンド方式」と言って、映画を見ていると「揺れ」が観客の体に伝わるという映画を見ました。「大地震」「ミッドウェイ」「ジェット・ローラー・コースター」の三本です。その他、この劇場ではなかったと思いますが、「デアボリカ」という恐怖映画を「悲鳴が回って聞こえる(スピーカーに扉がついていて、順番に開いたり、閉まったりするだけなのですが)サーカムサウンドシステム」で見た記憶があります。どちらもかなり、キワモノ的ですね。「センサラウンド方式」のおかげでOS劇場の天井の埃やゴミが揺れで落ちてきてきれいになったと後で関係者に聞きました。父と初めて見に行った大人の映画は、「ポセイドン・アドベンチャー」で、パニック映画の走りでした。父は僕のよこで、グーグー寝ていました。ナビオが出来る前にあった北野劇場で見ました。
阪神電車は、今は知りませんが、僕が中学受験の為、塾に通っていた頃、冷房車が導入され始め、冷蔵庫の中にいるくらい、冷房が利いていました。僕ら、塾生は何時発の電車が冷房車であるかを知り(ダイヤの関係か、いつも冷房の普通電車は同じ時刻に来ました)、塾から最寄り駅まで走った記憶があります。そんな阪神電車のなかで、僕はポプラ社の「少年探偵団シリーズ」「怪盗ルパンシリーズ」、岩波書店の「ドリトル先生全12巻」「アーサー・ランサム全集全12巻」を読み漁りました。「アーサー・ランサム全集」は特に好きで、全巻を三回は読みました。今の子供たちはどんな本をよんでいるのでしょうか?
小学校の頃、浜甲子園にすんでいて、阪神甲子園球場の前にあった「阪神パーク」という動物園に両親とも小学校からもいった想い出があります。そこには、「レオポン」というお父さんが「ヒョウ」、お母さんがライオンのハーフの動物がいました。結局最終的には7匹位生まれ、「レオポン」自体は生殖能力が無いので、それで「阪神パーク」は、別の掛け合わせ「タイポン」(トラとヒョウのハーフ」とか「ライガー(ライオンとトラのハーフ)を作っているところを公開していました。いずれも失敗に終わったようです。今なら、動物を擁護する団体からクレームがきそうな事ですね。「阪神パーク」では、「人がピンを元通り並べるボーリング」というのもやっていました。それから、これは阪神パークとは関係ないのですが、住んでいた団地の近くに「スタントカー」という「車のサーカス」が来たのを、母の知り合いの家のベランダから見た記憶があります。片輪走行は当たり前、大砲から車が打ち出されたり、たくさんの車の上を車が飛び越えたり、厚い氷の壁を車がぶち破ったり、8の字でたくさんの車が競争したり(これは、交差するところで、必然的に車と車がぶち当たるので、一種のサバイバルレースです)、興行の要素の多い見世物でした。今は、どこに行ってしまったんだろう。三宮の駅にいた「傷痍軍人(太平洋戦争でケガをした軍人がアコーディオンみたいな風琴を弾いてお金をもらっていました)」もいつの間にか、消えていました。ところが先日、つまり2003年に新宿駅前で、「傷痍軍人」を見ました。出で立ちは、昔と一緒。疑問に思ったのは、彼がどの戦争で、ケガをしたかという事。不思議な事もあるものです。甲子園の話しにもどりますが、当時、甲子園球場は、外野席が高校野球の時はただで、僕はそこであの、三沢高校と松山商業の18回まで行って日没再試合、をリアルタイムで見ました。あの近鉄にいた太田幸司が三沢高校のピッチャーで、二日間、連投。結局、松山商業が勝ったという試合でした。僕は母に「紅茶」を水筒に入れてもらい、甲子園球場で、名物の「かち割り」(単純に氷を割ったものが入ったもの)にその紅茶を入れ、アイスティーにして、試合を見ていました。懐かしい、昭和の想い出です。