間もなく午後4時になりますが、目下のところのきょうの最高気温は5.3度で、最低気温はマイナス1.4度となっています。朝方ちょっと陽射しが差して来たりしたのですが、その後曇り、午後になってまた少し陽射しが出てきました。
(いつも歩く分流の左岸へチのくぼみにいました。いやあびっくりです。よりによって川のそばにいるとは。寒いだろうに。)
きょうは月命日です。あの日から7年と11か月となります。来月は8年です。9日土曜日の午後、東北学院大学の2018年度特別講座<震災と文学>を受講してきましたので、その時の報告をさせていただきます。
(午前9時頃)
繰り返しになりますが、去る9日土曜日、極寒の午後自転車で行って来ました。東北学院大学 土樋キャンパス ホーイ記念館へ。
目的は、東北学院大学 地域共生推進機構 2018年度特別講座≪震災と文学≫の受講のためです。この公開講座は、2013年にスタートしています。ホーイ記念館は2,3年前頃に新しく建てられたモダンな建物で、何回も通り過ぎてはいましたが、中に入るのは初めてです。
(凍結中)
1階はガラス張りで、中で学生たちが思い思いにテーブルに座って、勉強したり雑談したりしていました。そういうところにこの歳で正面から入っていくというのは、ちょっと勇気がいりますね。ワクワク感と度胸が入り交じりながらの入館でした。
会場は2階です(エレベーターがあります)が、階段を使ってゆっくりと上がっていきました。講座の開始は午後2時からですが、入館したのは午後1時35分頃でした。受付で、まだ早いので向かいの教室でお待ちくださいと丁寧に誘導されました。
大学の教室に入ったのは何十年ぶりでしょうか。かなり大きくて、明るくて何百人入るのでしょうか、講義を聴くにはいいかなと思いますが、ちょっと横に長すぎるかな。勿論マイクを使っての授業のようで、プロジェクターなんかもついています。マイクも3本くらい使えるようになっていました。
へえ~今はこんなのかと思ったのは、黒板です。本当に横長の黒板で、そうそう映画の横長のスクリーンみたいですか。そしてよくよく見ると黒板には5センチくらいのマス目がびっしりとついているのです。これなら日本語も英語も数学や物理の公式も書きやすいだろうなと感心しました。小学校の黒板でもこうはなっていないのではないでしょうか。
トイレも今はやりの人が入ると自動的に電気が点くようになっていて、手洗い後のブオーと音のする乾燥機(器)も二つ付いていました。何にしても立派なものです。50余年前とは比べられません。
さて肝心の講義の方です。講義の内容は『「詩の礫」から「QQQ」へ~詩人の8年~』というもので、講師は高校の先生(今もかな?)で、詩人の和合亮一さんです。わたしは前から何度も聴きに行きたいなと思ってはいたのですが、なぜか当日は天気や体調等の関係で行かれませんでした。何でももうこの講座には過去に6回も出ているそうです。
(雀よりも小さいです。)
和合亮一さんといえば、今では少なくともみちのくの人たちにとっては“震災の詩人”としてとっても有名となっています。(本人はそう呼ばれることは好きではないようですが。) 標題の、「詩の礫からQQQ」へというのは、和合さんが出された詩集の題名からとっています。「QQQ」が最新の詩集ということになります。「詩の礫」は2011年、「QQQ」は2018年暮れの発行です。QuestionのQからとっているようです。
(チッチッというかチチと鳴きます。)
私にとっての和合さんといえば何と言ってもサントリーの「10000人の第九コンサート」です。それまで大阪城ホールで開催されていた10000人の第九コンサートに、東日本大震災で被災したみちのくの3県、岩手・宮城・福島の3県合同の合唱団も参加させようと、地元の東北放送等も協力して、不思議な?第九コンサートが実現したわけです。
(何という鳥でしょうか。)
詳しくはこの私の当時のブログをご覧になっていただきたい(2011年12月4日開催)のですが、大阪城ホールの大合唱団とみちのく(宮城学院大学の講堂)の合唱団とが、会場こそ別々(大阪と仙台)ですが、心は一つになっての第九の演奏会となったものです。
大阪城ホールの演奏や佐渡裕先生の指揮をスクリーンで見ながら、仙台会場でも指揮者がついての何とも変則的な珍しい演奏会となったので忘れようにも忘れられません。
話しは少し前に戻り、第九の演奏の前に南三陸町から現地映像が流れ、その南三陸町の防災庁舎前から和合亮一さんが自作の詩を朗読してくださいました。この時初めて和合亮一さんという人を初めて目にし、声を聴いたわけです。風が強かったですね、中継の日は。また寒かったと思います。その南三陸町で朗読した自作の詩が『高台へ』です。いやあ感動的な詩であり、朗読の仕方が胸を打ちました。
我々は合唱が始まる前は講堂の上の方の席で式典等を見たり、ゲストの演奏を見たり聞いたりしていました。私から左へ4つくらい離れていた席にいた中年(過ぎ)の男性、彼が和合さんの詩の朗読を聞きながら慟哭していました。しゃくりあげながら泣いていました。強烈な印象でした。だから覚えています、男性の慟哭も、「高台へ」という詩のことも。
そういうことがあったもので、いつかは何としても和合亮一さんの講演を聞いてみたいと思っていました。それがようやく2月9日に実現しました。早く行ったこともあり、席は中央の前から2番目という近さです。すぐ目の前に本人が座っているのです。一番前の席には聴講生はいませんでしたが。
和合さんの詩をただで、こんなにも読めるなんてありがたいですね。B4の両面印刷で全12ページです。そこに12の詩が掲載されています。 『高台へ』という詩は3番目に載っていました。その詩を本人が朗読してくれるのです。それを聴くことができるのです。寒い中出かけた甲斐がありました。
もうすぐあの日から8年になります。あらためてあの時の南三陸町(防災庁舎)の出来事を和合さんの詩を通して思い返してみようではありませんか。切にそう思います。
『高台へ』
南三陸。黒い波があらゆるものを奪っても、女性は必死になって、呼びかけた。「高台へ、高台へ」……。
そして女性はそのまま帰らぬ人となった。最後まで、最後まで、津波を知らせ続けた……。
女性のご両親は後日に、正に津波が押し寄せて来た時の、記録映像を見ていた。波は激しい勢いで、いま正に、南三陸の街を飲み込もうとしている……。
< 高台へ避難して下さい、高台へ避難して下さい >。美しい凛とした声を聞いて、お母さんはぽろぽろと泣いた。「まだ言っている、まだ言っている」……。
さらに黒い波。あらゆるものがなだれ込んできた。< 高台へ避難して下さい、高台へ避難して下さい >。美しい凛とした声を聞いて、お母さんはぽろぽろと泣いた。「まだ言っている、まだ言っているよ」……。
あらゆるものがなだれこむ、暗い津波の映像は、私たちに、何を学ばせたのか。何を学ばなくてはいけないのか……。
< 高台へ避難して下さい >騒然とした非常な南三陸の街で、美しい凛とした声は、何百人もの命を救った。声の明りを頼って、高台へ行こう、高台へ行こう、と……。
高台へ。そこには緑が群れなす、初夏の草原。何も求めない、ただ、胸いっぱいに吸うことの出来る、空気と風が欲しい。雲の切れ間。
高台へ。振り向けば、海原がまぶしい、初夏の太平洋。何も求めない、ただ、胸いっぱいにあふれてくる、幸せの涙が欲しい。雲の切れ間。
高台へ。ついその先の濁流の恐怖。震えながら、人々は想う、凛とした声明りがもっと、欲しい、もっと心の高台へと、誘って欲しい、全てを飲み込む、怒りと悲しみの渦、南三陸。
身を削るようにして、乳を絞り出して、限られた草を食べて、涙を流している、母牛も、凛とした女性の声を、聞いているのかもしれない……。
< 高台へ >。黙礼
(明日に続きます。)