『女川は流されたのではない
新しい女川に生まれ変わるんだ
人々は負けずに待ち続ける
新しい女川に住む喜びを感じるために』
東日本大震災当時女川二小5年生だった砂糖柚希(ゆずき)さんの詩
今春高校を卒業して女川町の職員になったそうです。 (4月3日河北新報から)
(午前9時過ぎ)
もう4月も3日です。何でこうも月日の経つのは早いのでしょうか!?月日に置いていかれるような気になるのは、それこそ歳をとったという証拠でしょうか。
古希まで元気に生きて来られたということで、””もう我が人生に悔いはない””と言いたいところですが、そうはいきませんね。常に未練はつきもので、考えてみれば毎日未練との付き合い戦いと言ってもいいのかもしれません。
曇り空です。何かこのところ曇り勝ち気味ですね。極めて強い曇りというか灰色といってもいいのが文科省による名古屋市教育委員会への不当な介入です。名古屋市長の質問状に対して、法令に基いてきちんとやっているとかいう回答を出したようです。(今、ラジオのニュースで言っていました)
言う方はよく”法令に基づいて”きちんとやっていると言いますが、そう言う時の法令とはどんな法令でしょうか。答える方はきちんと何とかいう法律とか要綱とかいうべきだろうし、聞く方も、では一体どんな法令の第何条の規定ですか?となぜ聞かないのだろうかと常々思っています。みなさんはそう思ったことはないですか。
(分流の上流の瀬の左岸に咲いています。)
文科省は何が何でも政治家の関与を否定し、文科省の独自の判断でメールで照会したと言い張り、逃げ切ろうとしているようです。一連の自民党議員の意向を忖度して、議員が望むところ以上の内容で質問してやろうとしたのじゃないでしょうか。
(分流左岸の桜)
議員にめんこめんこ(わかりますか?)してもらいたかったのでしょう。本当に中央官僚の矜持も地に落ち、ろくでもない議員のカバン持ちに成り下がっても何も感じないのでしょうか。ここまで来ると哀れです。野党議員に質問されてしどろもどろになって回答している姿を、彼の家族は一体どういう気持ちで見ていたのでしょうか。
(分流左岸の桜)
議員の劣化が官僚の劣化を招き、それを繰り返すということで日本全体が地盤沈下をきたしているのが現状ではないですか。でも考えてみれば、そんな議員を選んだのは他ならぬ国民ですから、何をかいわんや国民もろとも一蓮托生という図式です。
佐川にしてもタロウにしても、何を言われてもまるで「カエルの面にションベン」という感じでしたが、今月に入って”カエル”の件でおもしろいものが2件もありました。
(これは梅の木)
一つはきょうの朝日川柳で、「失礼と知りつつカエルの面に見え」(東京都 桜井さん)という川柳が7つあるうちのトップを占めていました。選者の評は「言いたい放題の麻生節」です。これはカエルという生物を”悪く”見ていますね。カエル自体は悪くもなんともないわけなのに。
(首を出して上下していました。)
もう一つはおとといの『加藤登紀子のひらり一言』です。「「井の中の蛙になるな」は、カエルに失礼よ」というものです。 説明文です。「(カエルは)自分の居場所で、自分の命を、自分で支えている!偉いよネ。井の中の蛙になれない私たち。遠い国の誰かにおんぶに抱っこ。」 性懲りもなく、また渡米して恥ずかしくもなく「100%ともにある」とかの給うのでしょうか。
(モヒカン頭のカモも行ったり来たり)
(きのうと同じカワウかな)