少年の日々

はじめて考えるときのように

2005年11月24日 | Weblog
高校生の時とかって、生きて過ごした時間が短い。

仮に“人生八〇年”と設定した場合、残りの人生は八〇-十七=六三年あることになる。
今の僕らは残り五六年。
単純に数字で解釈すると、六三年の方が可能性というか、選択肢は多く残っている気がするが、「今日は今日でしかない」という感覚は残り時間が多い若い子たちの方が強く持っている。
本当は、残りの人生が少ない僕達の方が毎日の時間を大切に過ごさなければいけないはずなのに。

これは、人生をより長く生きてきたせいで見えなくてもいいものまで見えてきてしまったからなのかもしれない。

先が見えないときは今を大事にするしかない。

しかし、先が見えるのならば、「未来」に向かって「今」を消化していかなければならない。おじいちゃんとかおばあちゃんがゆっくり生きているのは、見えている未来に対して上手く順応しているからなのだろうか。

煙草の火がほの暗い店内では妙に明るく見えて、綺麗だなぁと思ったけど、喫煙者がだんだん減って、こういった飲み会でも隣の席のおじさんが吸う煙草の副流煙に悩まされることもなくなるんだろう。


ロックと文学

2005年11月19日 | Weblog
群像12月号は特集で「ロックと文学」を取り上げている。
もちろん僕はその響きのかっこ良さだけで買った。まだ角田光代しか読んでないでど、やっぱロックってなんか響きがかっこいい。

不思議なことに、ロックの意味とか、ロックの起源とかに興味はなく、ただ純粋に今ある音楽と、概念だけに引っ張られる。

反骨精神だとか、政治批判だとか、フリーダムだとか、アナーキーだとか、まあ、結構好きなんですが、グローバル化の中で否応なく壁は取り払われ、逆にナショナリズム的なものが尊ばれる現代社会で、ロックはどんな意味を成すのであろうか。

やっぱ、ロックは個人の精神的な支えで、それはもはや確固たる定義などなく、ただただ今を生きる僕らの中にあるのだ。

日常に生きる少女

2005年11月09日 | Weblog
鶴ヶ島駅から川越駅に着くまで、列車は高校生に満たされる。同じ制服を着た仲間同士の塊がいくつか作られ、思春期特有の性欲が車内に渦巻く。
僕はというと、長い通勤時間を潰すために新聞を広げ(もとい、細かく折り)、読むことなく読むと、疲れて目を瞑る。

目を瞑ることで、そこに自分特有の時間が流れ始める。今朝方見た夢の中に再び舞い戻ることもあるし、古い記憶のドアを叩いて感慨に耽ったりする。

朝の時間は、多くの社会人にとって当たり前に過ぎる時間である。
その当たり前という概念を何故だか無性に崩したくなるのに、崩すと後悔にかられる。

継続することのほうが難しい。





最終電車

2005年11月08日 | Weblog
携帯からの投稿もいいかと思い、御茶ノ水駅で電車を待ちながら書いている。

自分の仕事ももう二年目に突入し、気がつけばその半分は過ぎてしまった。
アルバイトを一年以上続けたことのない僕にとって、二年目というのは未知の領域である。正直、気が抜けているのも事実で、直属の課長と係長も変わってしまい、一年目の緊迫感もない。
ここのところ手を抜きすぎた感じがするな。だから、もう一度自分を鼓舞する必要がある。
確かなものが欲しいから、資格を取ろうと思う。