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アフリカの政局とフランス大統領選挙(2)〜コートジボワール危機とフランス政権(前編)

2017-04-03 07:30:14 | アフリカ情勢
フランスの大統領選挙が迫って来た。第一回目の投票は4月23日、決選投票は5月7日だ。

ンボテブログでも、これまでアフリカの政局とフランス大統領選挙の関係について、しばしばご紹介してきた。まとまった形では前回、セネガルの政局から見たフランス大統領選挙について書かせていただいた。

アフリカの政局とフランス大統領選挙(1)〜セネガル政権とフランス与党

今日は当地、コートジボワールとフランス政局について振り返ってみたい。

(Le Pointウェブサイトより)


ここコートジボワールは、独立以降、フランスの影響を極めて強く受け、そしてその本質は今日まで変わっていないように見受けられる。初代大統領、フェリックス・ウフェ・ボワ二大統領(コートジボワール民主党、: PDCI)は親仏路線を堅持し、フランスによる庇護と経済的つながりの中で発展を遂げてきた。その陰で、フランスによるアフリカ搾取の歴史、いわゆる「フランサフリック」(françafrique)の装置としても利用されてきたと、と評されることもある。

1993年にボワ二大統領が逝去すると、コートジボワールは次第に権力闘争と混乱の歴史に向かっていく。ちょうどフランソワ・ミッテラン政権(社会党: PS)の最終局から、ジャック・シラク大統領(共和国連合: RPR、のちUMP: 国民連合運動)体制に移行するあたりである。

コートジボワール危機は、フランスで言えばシラク政権の時代(1995年〜2007年)に進行した。シラクは特にローラン・バグボ前大統領による政権誕生後、コートジボワールとの距離を置いた。およそ10年に渡り、シラクとバグボは電話ひとつかけ合わなかったと言われている。

バグボは、「イボワリテ」の曲解から、矛先を国内移民からフランスに向け、愛国青年団などを使い、暴力的な行動や襲撃を繰り返した。フランスは、2002年に自国民保護(と利権確保)のため、常駐部隊、第43歩兵・海兵大隊(43è BIMa)を基礎にした'Opération Licorne'(リコルヌ作戦)を発動。2004年に派遣される国連コートジボワールミッション(ONUCI)とは独立した任務にあたった。

2004年にはコートジボワール軍基地をコートジボワール軍が奇襲空爆する「ブアケ空爆事件」も発生し、犬猿の仲が更に冷え込んでいく。

(次回につづく)

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