7日、フレンチポップの大御所、フランス・ギャルが逝去した。享年70歳、ガンを患っていたという。あまりに偉大な存在の死に、世界から追悼のメッセージがつきない。
かくいうンボテも、フランス・ギャルには3つの深〜い愛着と尊敬を持っていた。彼女への哀悼のために、その3つについて述べてみたい。
1つは60年代の「フレンチポップの世界観」。なんといってもンボテは60年代に目がなく、オールディーズ、ロックステディ、ファッション、クルマ、サーフスタイル、なんでもお手本は60年代でやってきた。おつきあいのある方ならご存知と思うが、髪型もマッシュルームやロング、モッズなど、すべて60年代に帰依してきた。
アフリカン・ポップスしかり。タブレイ・ロシュリューのアフリーザ・アンテンナショナル、フランコ・マキアディのTPOK JAZZ、ドクトール・ニコのアフリカン・フィエスタ・スキサ、グラン・カレことカレ・ジフなど。やはり60年代は大のお気に入りである。
『愛しのアフリカンポップス~リンガラ音楽のすべて』
60年代、世界中がアメリカン・ポップスとビートルズの文化に飲み込まれそうになっていた頃、フランスではイエイエという独自のフレンチポップ路線を編み出していた。その代表的なシンガーが、当時16歳でデビューしたフランス・ギャルであった。ンボテが好きなのも、この10代のフランス・ギャルである。
ちなみに、'Poupée de cire, Poupée de son'(邦題「夢見るシャンソン人形」)、'Un Prince Charmant'(邦題「すてきな王子様」)は、自身が舌足らずの日本語で自ら歌い、日本公演も果たした。彼女の曲は、日本でも空前のヒットとなった。
第二に、フランス語とのつながりである。その10代の彼女の作品で、特に抑えると良いと思うアルバムが、
L'anthologie
Poupée de cire, poupée de son
の二枚。
彼女の当時の曲は、非常に単純なフレーズのリフレインと音韻の繰り返しが多く、それがフランス語フレーズの暗記、文法知識の定着、語調への慣れのために、極めて有効だと思った。'je t'aime, tu m'aime, on s'aime...'(代名詞の運用)、'j'aurai, j'aurait', il faudra, il faudrait..'(直接法と条件法)、toutの用法、動詞の運用(plaire、manquer、代名動詞など)、電話の掛け方?など。
仏語学習者には、'Le petit prince'(「星の王子さま」)にとても人気があるが、初心者にはフランス・ギャルの初期のポップの方がかじりやすい教材だと感じている。
3つ目は、フランス・ギャルとアフリカのつながりである。一見関係がなさそうな両者、しかし彼女は、ダカール近傍のンゴール島に別宅を持っていた。
フランス・ギャルとアフリカのつながりは、1980年代、エチオピア危機を契機にミュージシャンが盛り上げたムーブメント「バンドエイド」の流れだという。彼女自身、貧困や飢餓、特にアフリカの問題に目を向けるようになる。
ある日、彼女は貧しい家に生まれたセネガル人の男の子を育てて欲しいという要請を受けることになる。彼女は一人の男の子に支援を捧げるよりも、アフリカの貧困の問題に関与することを支援の道として選ぶ。
その後、彼女自身が病を患い、現役生活から身を引くこととなる。いつしか、フランスとセネガルを行ったり来たりの生活を送ることになったという。
「なぜセネガルに惹かれるのかって?私もさっぱりわからないわ。」と語っていたフランス・ギャル。しかしそのハートはアフリカにおける自身のレゾン・デートルを確かに感じていたように思われてならない。
ンボテとアフリカを結んでくれた1つの大きな存在、フランスギャルの逝去。あまりに悲しい訃報だった。しかしこれから、アフリカ、フランス語との付き合いの中で、何度と「夢見るシャンソン少女」のことを思い出すことであろう。
(おわり)
かくいうンボテも、フランス・ギャルには3つの深〜い愛着と尊敬を持っていた。彼女への哀悼のために、その3つについて述べてみたい。
1つは60年代の「フレンチポップの世界観」。なんといってもンボテは60年代に目がなく、オールディーズ、ロックステディ、ファッション、クルマ、サーフスタイル、なんでもお手本は60年代でやってきた。おつきあいのある方ならご存知と思うが、髪型もマッシュルームやロング、モッズなど、すべて60年代に帰依してきた。
アフリカン・ポップスしかり。タブレイ・ロシュリューのアフリーザ・アンテンナショナル、フランコ・マキアディのTPOK JAZZ、ドクトール・ニコのアフリカン・フィエスタ・スキサ、グラン・カレことカレ・ジフなど。やはり60年代は大のお気に入りである。
『愛しのアフリカンポップス~リンガラ音楽のすべて』
60年代、世界中がアメリカン・ポップスとビートルズの文化に飲み込まれそうになっていた頃、フランスではイエイエという独自のフレンチポップ路線を編み出していた。その代表的なシンガーが、当時16歳でデビューしたフランス・ギャルであった。ンボテが好きなのも、この10代のフランス・ギャルである。
ちなみに、'Poupée de cire, Poupée de son'(邦題「夢見るシャンソン人形」)、'Un Prince Charmant'(邦題「すてきな王子様」)は、自身が舌足らずの日本語で自ら歌い、日本公演も果たした。彼女の曲は、日本でも空前のヒットとなった。
第二に、フランス語とのつながりである。その10代の彼女の作品で、特に抑えると良いと思うアルバムが、
L'anthologie
Poupée de cire, poupée de son
の二枚。
彼女の当時の曲は、非常に単純なフレーズのリフレインと音韻の繰り返しが多く、それがフランス語フレーズの暗記、文法知識の定着、語調への慣れのために、極めて有効だと思った。'je t'aime, tu m'aime, on s'aime...'(代名詞の運用)、'j'aurai, j'aurait', il faudra, il faudrait..'(直接法と条件法)、toutの用法、動詞の運用(plaire、manquer、代名動詞など)、電話の掛け方?など。
仏語学習者には、'Le petit prince'(「星の王子さま」)にとても人気があるが、初心者にはフランス・ギャルの初期のポップの方がかじりやすい教材だと感じている。
3つ目は、フランス・ギャルとアフリカのつながりである。一見関係がなさそうな両者、しかし彼女は、ダカール近傍のンゴール島に別宅を持っていた。
フランス・ギャルとアフリカのつながりは、1980年代、エチオピア危機を契機にミュージシャンが盛り上げたムーブメント「バンドエイド」の流れだという。彼女自身、貧困や飢餓、特にアフリカの問題に目を向けるようになる。
ある日、彼女は貧しい家に生まれたセネガル人の男の子を育てて欲しいという要請を受けることになる。彼女は一人の男の子に支援を捧げるよりも、アフリカの貧困の問題に関与することを支援の道として選ぶ。
その後、彼女自身が病を患い、現役生活から身を引くこととなる。いつしか、フランスとセネガルを行ったり来たりの生活を送ることになったという。
「なぜセネガルに惹かれるのかって?私もさっぱりわからないわ。」と語っていたフランス・ギャル。しかしそのハートはアフリカにおける自身のレゾン・デートルを確かに感じていたように思われてならない。
ンボテとアフリカを結んでくれた1つの大きな存在、フランスギャルの逝去。あまりに悲しい訃報だった。しかしこれから、アフリカ、フランス語との付き合いの中で、何度と「夢見るシャンソン少女」のことを思い出すことであろう。
(おわり)