前回の記事について、小野さんからありがたい叱咤激励をいただいた。感謝。
では、記事の続きを書いておきたい。
前回の最後の部分を、もう少し詳細に見てみる。
インドでは権威に対しての反論であったはずの仏教が、日本へ渡来し、後世になるにつれ「権威」へと変貌していく。
その過程は、古代インドにおいて、ヴェーダの時代が進むにつれて特権階級が生まれ、バラモン教へと変貌していく過程によく似ているように思われる。
いつの間にか、「救う側」と「救われる側」、さらには「救われない側」が出来てしまうのだ。
バラモン教では、司祭になれる身分を固定し、シュードラがヴェーダを唱えたら舌を切る、覚えたら体を切断する、とされている。そのくらい徹底した身分差別であった。
そこを否定したはずの「仏教」が、日本において同じような過ちを犯すことになる。
仏教が権力者による護国を目的とした時、仏教の心は失われてしまっていたのだろう。
権力者に取り入り、後ろ盾となってもらい、その財力をもって自分を利するようになってしまっていた当時の日本仏教界――そこに反抗したのが、日蓮大聖人であったように思える。
つまり、「救う側」であり「権力者側」にいることで民衆から離れてしまった日本の仏教諸派に対して、日蓮大聖人は「民衆こそが主役」「民衆こそが仏」との旗を掲げて、敢然と立ち向かわれたのだと思う。
そうして「権力に対して戦いを挑む」日蓮仏法であったが、私にはそれすらも時とともに失われていった、と思える。
「直系」「正統」をもって任じる日蓮系宗派もあったが、700年という長い年月を経て、僧侶と信徒が「救う側」と「救われる側」の関係へと変貌していった。
そこに登場したのが、日蓮仏法を現代に蘇らせた「創価学会」であったと思う。
創価学会の掲げる「民衆根本」「人間主義」というのは、まさに「生きた日蓮仏法」であると思う。
であるがゆえに、創価学会の中に「救う側」と「救われる側」が存在してはならない(なお念のため書いておくが、これはもちろん「救う」という気持ち・意思を否定するものではなく、「救う側」という「固定的な立場」を作ってはならないという意味である)。
ともあれ、創価学会はこれからもあらゆる権威、権力、権力化と戦い続けなければならない。
それこそが仏法の真髄であるように、私には思えるのだ。
では、記事の続きを書いておきたい。
前回の最後の部分を、もう少し詳細に見てみる。
インドでは権威に対しての反論であったはずの仏教が、日本へ渡来し、後世になるにつれ「権威」へと変貌していく。
その過程は、古代インドにおいて、ヴェーダの時代が進むにつれて特権階級が生まれ、バラモン教へと変貌していく過程によく似ているように思われる。
いつの間にか、「救う側」と「救われる側」、さらには「救われない側」が出来てしまうのだ。
バラモン教では、司祭になれる身分を固定し、シュードラがヴェーダを唱えたら舌を切る、覚えたら体を切断する、とされている。そのくらい徹底した身分差別であった。
そこを否定したはずの「仏教」が、日本において同じような過ちを犯すことになる。
仏教が権力者による護国を目的とした時、仏教の心は失われてしまっていたのだろう。
権力者に取り入り、後ろ盾となってもらい、その財力をもって自分を利するようになってしまっていた当時の日本仏教界――そこに反抗したのが、日蓮大聖人であったように思える。
つまり、「救う側」であり「権力者側」にいることで民衆から離れてしまった日本の仏教諸派に対して、日蓮大聖人は「民衆こそが主役」「民衆こそが仏」との旗を掲げて、敢然と立ち向かわれたのだと思う。
そうして「権力に対して戦いを挑む」日蓮仏法であったが、私にはそれすらも時とともに失われていった、と思える。
「直系」「正統」をもって任じる日蓮系宗派もあったが、700年という長い年月を経て、僧侶と信徒が「救う側」と「救われる側」の関係へと変貌していった。
そこに登場したのが、日蓮仏法を現代に蘇らせた「創価学会」であったと思う。
創価学会の掲げる「民衆根本」「人間主義」というのは、まさに「生きた日蓮仏法」であると思う。
であるがゆえに、創価学会の中に「救う側」と「救われる側」が存在してはならない(なお念のため書いておくが、これはもちろん「救う」という気持ち・意思を否定するものではなく、「救う側」という「固定的な立場」を作ってはならないという意味である)。
ともあれ、創価学会はこれからもあらゆる権威、権力、権力化と戦い続けなければならない。
それこそが仏法の真髄であるように、私には思えるのだ。