志情(しなさき)の海へ

琉球弧の潮風に吹かれこの地を掘ると世界と繋がるに違いない。世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

リービ英雄さん、万葉集を英訳したアメリカ人・日本語小説家のドキュメント上映があった日

2014-04-01 09:17:52 | グローカルな文化現象

                            (温、大川、菅さん、3月30日栄町にて)

菅 啓次郎さんにお会いした。小さな栄町のボトルネックに集ったのは、若者世代が多いようなー、50人ほどが集っていた。ビールや泡盛を飲んで映像を見て(車できたので、私はリンゴジュース)、ユンタクしたい雰囲気の中、若い監督≪大川景子≫と台湾出身の若い作家≪温又柔≫とエッセイストとして有名な明治大学教員の菅さんたちのトークショウになった。

宮里千里さん親子の力添えがあった会だったのね。久しく会う事のなかった知人には二人目の御嬢さんがいて、その名前もバリである。時の速さに圧倒される日々、可愛い双子の孫に囲まれた彼女は幸せそうだった。

リービ英雄さんの作品を意識して読んでいなかったので、読まなければです。菅さんが強調したのは、プリンストンでPhDを取り、スタンフォードで教員をして恵まれていた彼が、あえて日本にやってきて日本語で表現活動をした決意である。帰化人だった「やまのうえおくら」の物した万葉集の話は興味深かった。作家は個としての世界に佇み、原初へ回帰する、も、興味深かった。小説や詩やエッセイでも、個の中で吟味され消費されていく。それはその通りだ。

日本語の美しさを強調した菅さんである。リービ英雄さんはそのことばの美にまた惹かれているのだろう。そこで、温さんや、大川さん、菅さんへのわたしの問いは、沖縄という場所との関わりであり、沖縄の作家の二重三重言語性とその表現についてだった。つまりリービ英雄さんと同じ立ち位置を有していると言いたかったのだが、台湾の現在が話題になり、ひたすら中国辺境への行脚を続けるリビーさんの話があった。周辺としての沖縄と中央、台湾、中国との関係性ももっと話が膨らんだら良かったね。

映像の中で4年間過ごした台湾の日本人住宅の跡は確かにいい雰囲気の住居に見えた。父母の離婚を超えて少年、青年時代を過ごしたリービさんの傷とその回復があったのだろう。52年ぶりの台中再訪である。映像の中の姿はいわばシャーマンの雰囲気である。物書きは、優れた表現者はすべからく現代のシャーマンなのかもしれない。ネット時代の到来は何億人ものシャーマン的人間を生み出しているのかもしれない。シャーマンとは何か、新しい定義が必要なようだ。現代の巫女を生きる人々の群れ!リービ英雄、越境する文学者、作家の姿は孤高を放っている。文学と旅、移住、異邦、言語の衝突、がそこにあり続ける。

≪今朝の夢、手をつないで歩くカップルがいた。小さな簡易ベッドに寝る姿もあった。それは何の啓示?興味深い。無意識の願望にしてはリアルな造形だった。つまり川べりに古い小さな家があり、その中の掃除をしている中に不思議とSさんがいて、いっしょに掃除をしている。気が付くと台所、そこもごみの山の中の簡易ベッドに寝ている人がいる。そして手をつないで歩いているカップルの二人がいる。堅く結ばれた手と手があって、不思議と切り立った山の中の隠れ場に入っていく。そこは迷路のようで、奥へ奥へと入っていく。つまり出口を求めて歩いていく。銃が見えたりもした。ミステリーの世界のように映像が流れているようだった。これは、何だろう?学校の教員をしていた頃、意識的に夢を書き残していたが、あのノートはどこへいったのだろう?≫

 栄町ボトルネック居酒屋

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山上 憶良(やまのうえ の おくら、(斉明天皇6年(660年)? - 天平5年(733年)?)は、奈良時代初期の貴族歌人。名は山於 億良とも記される。官位従五位下筑前守

 出自

山上氏(山上臣)は春日氏の一族にあたる皇別氏族[1]、その名称は大和国添上郡山辺郷の地名を由来とする[2]。また、「山上」は「山於」(やまのえ)とも記される[2]

一方で日本文学界において万葉学者中西進が、憶良について粟田氏に従属し近江国甲賀郡を本拠としていた百済渡来氏族出身で、その父を天智天皇の時代に日本に渡来した山上憶仁とする説を唱えている[3]。この説に対しては、ハワイ大学アレクザンダー・ボービン『万葉集』の翻訳者リービ英雄ドナルド・キーンら、日本国外出身の日本文学研究者も支持している[4][5][6]

経歴

大宝元年(701年)第七次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年に渡り儒教仏教など最新の学問を研鑽する(この時の冠位は無位)。なお、憶良が遣唐使に選ばれた理由として大宝の遣唐使の執節使である粟田真人が同族の憶良を引き立てたとする説がある[7]和銅7年(714年正六位下から従五位下叙爵し、霊亀2年(716年伯耆守に任ぜられる。養老5年(721年佐為王紀男人らとともに、東宮・首皇子(のち聖武天皇)の侍講として、退朝の後に東宮に侍すよう命じられる。

神亀3年(726年筑前守に任ぜら任国に下向。神亀5年(728年)頃までに大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人とともに、筑紫歌壇を形成した。天平4年(732年)頃に筑前守任期を終えて帰京。天平5年(733年)6月に「老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌」を[8]、また同じ頃に藤原八束が見舞いに遣わせた河辺東人に対して「沈痾る時の歌」[9]を詠んでおり、以降の和歌作品が伝わらないことから、まもなく病死したとされる。

歌風

仏教儒教思想に傾倒していたことから、死や貧、老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。そのため、官人という立場にありながら、重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、当時としては異色の社会派歌人として知られる。

抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。代表的な歌に『貧窮問答歌』、『子を思ふ歌』などがある。『万葉集』には78首が撰ばれており、大伴家持柿本人麻呂山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。『新古今和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に5首が採録されている[10]

作品

  • 神代(かみよ)より 言(い)ひ伝(つ)て来(く)らく そらみつ 大和(やまと)の国(くに)は 皇神(すめかみ)の 厳(いつく)しき国 言霊(ことたま)の 幸(さき)はふ国(くに)と 語(かた)り継(つ)ぎ 言(い)ひ継がひけり・・・
(「神代欲理 云傳久良久 虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理」『万葉集』巻5-894)
  • いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ(唐にて詠んだ歌)(『万葉集』巻1-63、『新古今和歌集』巻10-898)
  • 憶良らは 今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も 吾(わ)を待つらむそ(『万葉集』巻3-337)
  • 春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや はる日暮らさむ(大宰府「梅花の宴」で詠んだもの)(『万葉集』巻5-818)
  • 秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種(ななくさ)の花(『万葉集』巻8-1537)
  • 瓜食めば 子供念(おも)ほゆ 栗食めば まして偲(しの)はゆ 何処(いづく)より 来たりしものぞ 眼交(まなかい)に もとな懸りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ(『万葉集』巻5-802)
  • 銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子に如(し)かめやも(『万葉集』巻5-803, 今昔秀歌百撰 7 ,選者:中井茂雄(元獨協大学職員))
  • 世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば(『万葉集』巻5-893)
  • 士(をのこ)やも 空しかるべき 万代(よろずよ)に 語り継ぐべき 名は立てずして(『万葉集』巻6-978)

歌碑

赴任先の太宰府市はもとより筑後筑豊地方の嘉麻市などに歌碑が多数存在する(有名な句はほとんどこの地で詠まれている)。また、「子等を思う歌一首」とその反歌とが、岐阜県神戸町の神戸町役場入口ロビーに、書家の日比野五鳳による書として彫り込まれたものがある。

 



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