志情(しなさき)の海へ

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Coccoの祖父「真喜志康忠」は傑出した組踊役者&沖縄芝居役者 ・戯作者!

2010-12-05 11:47:30 | 表象文化/表象文化研究会
以下は【沖縄タイムス】のシリーズ「沖縄人ばなし」に掲載された文章に一部追記したものである!

昨今「しまくとぅば」を残そうとの「文化運動」が台頭してきているが、それは危機的な状況を暗黙に伝えていると言えよう。沖縄芝居は戦前から日本への同化の荒波の中で新しい文化潮流の中、懸命に沖縄言葉にこだわり、独自の舞台空間を創出してきた沖縄の集合的無意識の夢・幻想・美・庶民の「思いの世界」であると言えないだろうか?

「表現としては、戯曲はもっとも優れている」とかの折口信夫も公言したと、折口に傾倒している小川直之教授も話していた。
【講演会「折口信夫と琉球文化」(於:小劇場 先着250名) 11/27(土)17時~18時(16時30分開場、2010年)  講師:小川直之氏(國學院大學教授)入場料:無料】

総合芸術はある面、民族集団のエスニックなアイデンティティーの中心に位置する。その点で、戦後沖縄が組踊だけではなく「沖縄芝居」も大切に保持・継承・発展させる必要が迫ってくる。文化運動として展開しないかぎり、沖縄の言語もそれに付随する歌・三線、古典・民謡、琉球舞踊、組踊と根幹にあるべきものの衰退もありえる。だからこそ、新作組踊も含めた舞台創造のダイナミックな展開は常に求められている!

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<<真喜志康忠>>
                              
  真喜志康忠という戦後沖縄の演劇(芸能)界で稀有の組踊役者、芝居役者、かつ戯作者の顔に「憂いと情熱の炎」を見たのは、すでに10年以上も前のことである。1990年から2001年まで11年に及ぶ、沖縄芝居講座を琉球大学で続けた真喜志氏に身近で接しての印象である。幸いにも数年間、真喜志氏の授業に列席することができたことは、その後の私の人生の中でとても大きな意味を持つようになった。折りにつけ旭町にある氏の琉球舞踊道場兼ご自宅に通うことになった。その二階建ての建物は、真喜志氏の沖縄芝居の同志、元「乙姫劇団」の看板男形スター上間初枝さんが築き上げた「琉球舞踊の砦」でもあった。そこは、お二人の沖縄芸能を継承し創造する情熱を感じながら、沖縄芸能の所以、歴史を肌で感じさせてくれた空間だった。

玉城盛義の大きな肖像が掲げられた二階の稽古場には、大きな鏡が据えつけられていて、床の間の端の2畳ほどの畳間がいつもお話しを伺う場所だった。 ゆったりと壁を背に話されるよもやま話に引き込まれながら、マグマのような芝居役者の矜持を感じていた。明治12年の廃藩置県(琉球処分)以来、かつての御冠船の芸能を担った士族層が野に下って大衆の中に踏み込み、新しい時代の空気の中で、創り出していった雑踊りや狂言、琉球歌劇、琉球史劇などのお話、『沖縄芝居五十年』『沖縄芝居と共に』の著書にまとめられた芝居人生の数々、時間がたつのも忘れて時に数時間も話に耳を傾けてきた。

【『沖縄芝居と共に』のご本には解説と年譜、また注釈をつけた。第三者として真喜志氏の憂いに手を差し伸べたい思いが膨らんでいた。琉球大の授業の中で多くの示唆を受け、作品論などを書くきっかけにもなった。深謝!】

沖縄芝居とはなんだろう。沖縄の芸能は沖縄の人々にとって何だろうか?真喜志氏はよく「芝居シーとしていかに芝居役者が、日本への同化の過程で蔑まれてきたか」繰り返しお話された。つまり、「ウチナーグチゆえに、沖縄芝居は発足当時から妙な限界・宿命を背負わされてきた感じがする。そのため進歩的な同郷人からは絶えずとかくの批判を浴び、芝居小と卑しまれてきた」と。ゆえに、いわゆる知識人の功罪についても語気は強かった。

【時代に流されるように朽ち船に乗っているとお話されていて、そのことばの調子に胸が痛くなっていたのも事実】。

「組踊も沖縄芝居もウチナーグチで上演される。ウチナーグチと三八六のリズム(歌・三線)が沖縄人の心の根であり、その沖縄のしなさき(志情)を忘れたら、沖縄の魂は糸の切れた凧のように浮遊する」と、真喜志氏は強調した。氏の憂いの表情はウチナーグチが消えていく戦後沖縄の現象ゆえでもあったのだ。

しかし、ウチナーグチが喪失される時代の潮流の中で、真喜志氏は演技に関しては誰よりも貪欲であり、誰よりも演劇の芸術性にこだわり、より観衆に喜ばれる演劇の創造に日夜奮闘した。それは、戦後沖縄で唯一沖縄芝居役者であり、ユネスコ指定世界無形文化財「組踊」保持者として、氏の「忠孝婦人」の谷茶の按司、「二童敵討」の阿麻和利の演技は右に並ぶ者がない「ますらおの美」を私たちの目に焼き付けた。

1949年間からおよそ20年間、「ときわ座」座長として沖縄中を巡演していた時、座長真喜志は「舞台が幕を下ろした後も、演技指導に余念がなかった」と、当時座員だった平良進、とみ夫妻は証言する。「深夜まで起きて芸を追求し、舞台の上で役柄に没頭する情念は怖いほどだった」ともお二人は語る。

氏が舞台で見せた数々の名優芸はひたすらいい沖縄芝居を追求してやまない、役者一代の心意気そのもの!(真喜志氏の記憶の層から活字になった芝居は多い。氏の作品は、「くちなしの花」「首里子ユンタ」「按司と美女」「落城」「こわれた南蛮甕」「てんさぐの花」「浮かれ地頭」「辻情話」と24作以上に上る)。

「首里城明渡し」「今帰仁由来記」「武士松茂良」「護佐丸と阿麻和利」など、その沖縄男のますらお芸は、現在の沖縄の舞台から消えた。ご自分の作品「多幸山」で見せたあの渋みの極芸!戦後沖縄の名優の誉を、一身に、になっているのである。

氏の芝居台本を読んでいると、いかにも[クールな沖縄男」が登場することに驚いた。それらの今流のCOOLな男の姿が、昨今の舞台からあまり見えないのである!

ところで真喜志氏のように、「方丈記」をすべて諳んじる演劇人はもはや沖縄にいない。氏の記憶力は並ではなかった。今時の組踊保持者のように台詞を間違い忘れるようなことがなかったのである。組踊の伝承者にも、台詞をとちったりする若者がいるが、それはいただけない!覚悟の舞台の凄まじさを見たいものだ。

氏の本棚にはシェイクスピア全集、司馬遼太郎全集、そして大城立裕全集が並んでいる。語りの中に大城立裕の名前が常に登場したのは、沖縄実験劇場で「嵐花」「世替りや世替りや」「さらば福州琉球館」の主役を演じきったゆえであったかもしれない。私にとって、このお二人は戦後を代表する「沖縄文化人の巨頭」である。【真喜志氏が常に大城氏を意識していたのは、芝居役者の自負でもあったのだろう。沖縄の知識・知の代表を絶えず自らと対比させ、問い糺していたのである。沖縄芝居とは何か。演劇創造の芸術性とは何か、と】。

上記は新聞紙面で発表された文面にいくらか付け加えた。吐露のようなことばをーー。沖縄の感性とは何だろう?芝居を大事にしなければーー、思いは強く、---。

注:真喜志康忠氏の本妻、真喜志八重子さんは、「ときわ座」設立から10年以上、舞台に立っている。ときわ座が解散して以降も「母の日」公演などに出演している。読谷生まれの八重子さんの芸には結構フアンも多かったようだ。「復員者の土産」のあの喜劇は今でも芝居役者が口にする。Coocoによく似た八重子さんが聡明で気丈夫な方だという事は、一見して感じる。
 一方「乙姫」の看板役者だった上間初枝さんは、その美貌と立ち姿に憧れる女性フアンは多かった。数多くの「乙姫」の舞台で常に美男の二枚目を演じている。お二人の舞踊道場を訪ねる度に、上間初枝さんの奥ゆかしさを感じた。真喜志氏と八重子さんには三人の男子がいて、Coccoはご長男のお嬢さん。康忠さんと初枝さんの間には真喜志きさ子さん・古代信仰研究家・元女優がいる。

写真<平安山次良と武士松茂良>

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