志情(しなさき)の海へ

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ユウナの樹木のおばさん猫に久しぶりに会ってほっとした日曜日の朝!ソテツの丘は下草がきれいに刈り取られて!

2019-06-17 14:24:50 | 動植物
(つぶやき)【やがてつぶやきの感情も分析され、わたし以上にGoogleさんたちが私を知ることになるのだろう、とかの歴史哲学者は話している!】

朝6時半に近辺から来た方々が朝のラジオ体操をしていた。第二体操から参加させていただいた。
ラジオ体操の順序も忘れていて、リーダーの方の動きを真似た。第二は結構ジャンプが多いことに気がついた。
運動会の時のラジオ体操を思いだしたがー。母が一人でラジオにあわせてラジオ体操を日課にしていたのだったー。
   






    

 久しぶりの語句が続く昨今だ。ソテツの丘に向かうと下草がきれいに刈り取られ、すっきりしていた。もし、クロマダラソテツシジミ蝶の幼虫がたくさん発生する前に草が刈り取られていたら、
新芽はこれほどの害を受けなかったのではないだろうか?以前驚いて写真や動画を撮った時、草が生い茂って、辺りには小さなシジミ蝶が飛び交っていた。


この沖縄県が開示したデータには飛翔力のある蝶と説明されている。来年の春は、公園の管理者が是非、新芽が出る前にソテツの丘を今のようにきれいな環境にしてほしいものだ。そうすると被害は抑えられるのではないだろうか、と勝手に予測している。あの時、草むらを歩き回って写真を撮っていた。

しかし、思い起こせば、以前西原の埋立地の海岸沿いを散歩していた時もソテツに注目して歩いていたが、なぜが小さな蝶が飛び交っていた。ソテツシジミの名称が付くほどだから、ソテツに寄生して生存を全うする蝶の宿命なのかもしれない。ソテツの周りにはクロマダラソテツシジミ蝶が共存するように生息しているのだろう。不思議な生の循環構図に見えるが、実は不思議ではなく、食物連鎖の一環にすぎないのかもしれない。ソテツの生態系を疎外しているだけではなく、そのサイクルに必要な生き物ということになるのかもしれない。二律背反する原理がそこにあるのか、どうか、ソテツがクロマダラソテツツジミにとってはサバイバルの糧になっているのである。
https://www.pref.okinawa.jp/site/norin/shinrin/keiei/documents/02-04.pdf

  

ところで、いつもの青いベンチに猫の里親さんたちの気配はなく、ユウナの樹木の後ろにあった水槽もなくなっていた。島袋さんたちはお元気だろうか?ユウナの樹木で寝泊りしていたのらしい猫のおばさんの姿を求めて機能しなくなっている噴水の所に行くと、彼女はいた。なぜかほっとしたのは事実だ。姿が見えないと気になる猫のおばさんだ。
    

公園の主のような方はいつもの通り自転車と共に友人らしき男性と言葉を交わしていた。お元気で何よりだ。以前吐血して救急で運ばれた後も公園を選んだのだと、猫の里親さんからお聞きした。今朝は数は少なくなったが数匹のネコさんたちの姿が目に入った。何よりユウナの樹木でゆったりしていた彼女が元気でいて嬉しかった。
 今朝は朝5時半頃になんとアカショービンの「ピーヒョロロ、ピーヒョロロ」の鳴き声が遠くから聞こえてきたのだ。6月半ばでも赤ショービンが身近にいることがわかって嬉しかった。しばらくその鳴き声に耳を澄ましていた。やはり『ピーヒョロロ」だった。時に母のいた実家の庭にいても近くの川沿いから聞こえてきた。5月から6月にかけてやってくる赤ショービンである。それ以外の季節には聞こえてこない鳴き声で、この稀な鳴き声との遭遇に感謝の朝!きっと今日はいい日に違いないと思っていた。しかしー、時はちょっとした言葉の綾から崩れたりする。
  
    ユウナの花が落ちて橙色に変色していく。落ちた信頼感のようにそこにある。


昨今、某保存会の保持者の方々やその関係者とコンタクトを取ったりお話したりしているが、人生の最後のステージを迎えて、自己顕示欲の「欲」の強さを見せつけられる時、人は生にしがみつくように自らの価値をことさらに顕示したくなる生き物だろうか、とため息をつかざるを得ない。自らの誇りをどこに置いているのか、人それぞれだろうが、個の欲が迫り出し、人の善意に対する寛容さも感謝の念も持ち得ない、小林秀雄に言わせれば「人間になりつつある動物」の素顔にぞっとする時がある。それが常にそうではなく、きわめて理性的な判断をする方でも、時にそうした個の欲がにょろにょろ這い出るときの醜さは何ともいえないものがある。ああ、このようにはなりたくないものだと、思ってはいてもー、感情動物である人間を生きているゆえに、他者の姿を鏡にせざるをえない。最近許せないと思ったのは「嘘」である。公に嘘をつける若者といっても立派な大人の嘘が、この間経験したことのない怒りをもたらした。誰かを盾にして自らの嘘を弁護する姿勢に怒ってしまった。同じことをどうも公に前にもやらかしたことがあったようだが、その人間性まで信頼できなくなって、もはや協同は今後できないと思っていたりする。企画に何かが抜けているのである。表層の部分で事柄を把握していることがそうさせるのだろうか。ああー、やるべき課題が待っているにもかかわらずーーー。
  
   猫は人間の言葉を話さないので、いいね。誤解は生まれない。

普段着感覚で嘘を付く人がいる。その普段着に心がついていけなくなって、お付き合いが続かなくなったりもする。とまぁー、こんなこともあり、あんなこともある。
  
   ユウナの樹木のおばさん猫さん、元気でいてほしい。いつも追いかけてきて途中で縄張りに戻っていく貴女に後ろ髪を引かれたりしているがー!



 

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