馳文科相のユネスコ総会での演説(日本時間6日)など、安倍政権は引き続き、中国が申請した「南京大虐殺」の世界記憶遺産登録に反発しています。
この問題についてはすでに取り上げました(10月15日、http://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20151015)。
ここでは、安倍政権の「南京大虐殺」に対する姿勢と、日本政府の申請で同じく世界記憶遺産に登録された「シベリア抑留」のダブルスタンダード(身勝手な二重基準)を明らかにし、その意味するものを考えます。
安倍政権が「南京大虐殺」の登録に反発しているのは、「ユネスコを政治利用するもの」(菅官房長官)という理由です。
一方、日本が申請した「シベリア抑留資料」に対し、ロシア外務省は10月22日「声明」を発表し、「旧ソ連・ロシアとの合意文書を『乱暴に歪曲している』と批判」(10月23日付共同配信記事)しました。「旧ソ連に連行された日本軍将兵は、戦争終結後に不当に留め置いた『抑留者』ではなく、戦争継続中に合法的に拘束した『捕虜』である」(同)というものです。そして、「1991年に当時のゴルバチョフ・ソ連大統領が訪日して調印した協定でも『抑留』との文言は使用しなかった」(同)と指摘しています。
日本政府は旧ソ連・ロシアとの公式な「協定」に反して、一方的に「抑留」としロシアに批判の矛先を向ける、ある種の政治利用だというのがロシアの見解です。
このロシアの「批判声明」に対し、日本政府はどう反論したのでしょうか。
反論はできないはずです。「ソ連に連れ去られた日本の軍人たちは、国際法上の『捕虜』であり、日本政府もそれを認めている」(栗原俊雄氏『シベリア抑留―未完の悲劇』)からです。
「しかし帰還後、『捕虜ではなく抑留者』とする旧軍人関係者も少なくない」。なぜか。天皇(大元帥)の名による「戦陣訓」が「捕虜」を恥じと教え込んだうえ、「ソ連に身柄を拘束されても『俘虜=捕虜』とは見なさないと、天皇の「『勅語』と『大陸命』はそう約束していた」からです。そのため「政府は旧軍関係者の感情をおもんばかり、法律や行政文書では『抑留者』と呼称している」のです(引用は栗原氏の前掲著より)
そもそも「抑留60万人、死者6万人」といわれる「シベリア抑留」はなぜ生じたのでしょうか。
敗戦必至の1945年7月、天皇裕仁は終戦の仲介を依頼するため、近衛文麿元首相をソ連に派遣することを決めました。その際、用意したのが「和平交渉の要綱」です。
「要綱」は「国体の護持は絶対にして、一歩も譲らざること」を前提にしたうえ、「海外にある軍隊は現地に於て復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむることに同意す」(要綱三)、「賠償として、一部の労力を提供することは同意す」(要綱四)としたのです。
近衛のソ連派遣は実現しませんでしたが、「要綱」はソ連側に伝わったといわれています。
天皇裕仁の政府は、「国体」=天皇制護持のため、満州などにいた日本兵をソ連に提供することを決めたのです。これが「シベリア抑留」の根源です。
さらにその背景には、連合国による「ヤルタ会談」(1945年2月)の「現物賠償」の規定があります。シベリア抑留帰還者からも、「シベリア抑留は連合国に対する現物賠償であることは間違いない。・・・国が負担すべき賠償金をシベリア抑留者が負担した」(松本宏氏『真相シベリア抑留』)という批判の声が上がっています。
こうした天皇裕仁、天皇制軍隊・政府の責任には触れず、 「日本人捕虜」の日記やはがきなどを「記憶遺産」として登録申請し、「抑留」の犠牲・悲惨さのみを示すことが、公正な態度と言えるでしょうか。
中国が申請した「南京大虐殺」への反発・攻撃と、自らが申請した「シベリア抑留」の一面的なアピール、ソ連からの批判無視は、明らかにダブルスタンダードと言わねばなりません。
安倍政権のこうしたダブルスタンダードの根底に、アジア・太平洋戦争の加害責任にはほうかむりし、自らを被害者と描こうとする歴史修正主義が横たわっていることは明白です。
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全くシベリア抑留の具体的な歴史を知らなかったので、この中味は衝撃的です。捕虜となった方々がオペラ劇場を建てた本が登場しています。沖縄演劇の名優真喜志康忠さんが3年もシベリアに抑留されていたことは氏からうかがっていますが、『連合国に対する現物賠償』というのは惨い政治判断に思えます。それで何万人も殺されたのですね。哀悼!シベリアから帰って詩を物した石原吉郎さんがいます。以前その詩集を読んだことはあります。康忠氏からうかがったお話のインパクトが大きいです。シベリアで次々死んでいった人々。ご自分も死者の小屋に入れられて助かったお話などしていました。
**************::以下も転載ですが、石原吉郎さんの詩と人生についての書が出されたのですね。買って読みたい本です。
重厚さと裏腹の明るさ『石原吉郎シベリア抑留詩人の生と詩』大阪府立大教授・細見和之さん(53)
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一九七○年代に多くの読者を得た石原吉郎(一九一五~七七年)という現代詩人がいた。特務機関兵として旧満州に赴き、敗戦後は旧ソ連軍の捕虜となり、シベリア各地の収容所を転々とし、八年間の抑留生活の後に帰還した。本格的に詩を書き始めたのは四十歳近くになってから。シベリア帰りの詩人として、「見たものは/見たといえ」(「事実」)と訴え、収容所の体験と情景を盛り込んだ独特な詩を書き、体験から得た思想を『望郷と海』などのエッセー集につづった。
本書は石原吉郎の詩やエッセーを生涯と関連づけながら新たに読み直した評論集だ。「若いころ石原の詩にのめり込んだ。失語すれすれを生きた単独者の場所から、被害者の告発でなく加害者の自覚から人間が誕生すると唱えたエッセーにも魅了された。でも初期の詩は自覚的にシベリア体験を描いたのではなく、無意識に情景を反復したものとある時期から思い始めた」
だが、若い読者や周りの人たちは石原に過酷なシベリア体験を語らせ、その依頼に応じるにつれ、石原自身が次第にシベリア体験を主体化し象徴化し、収容所を舞台にした詩やエッセーを書き始めた。「繊細で純粋な人でしたから、死と隣り合わせの状況や人間の醜さを追体験する作業は苦しかったと思います」
細見さんはそんな石原の詩を二つに分類する。漢字のアレゴリー的展開で抑留体験を正面から描いた「位置」のような重厚な詩と、それと対極的に幻想的でユーモラスな「自転車にのるクラリモンド」のようなロマンス語系の詩。「重い体験や思想を断ち切る明るくふくよかな詩を、自覚の向こう側で書いていたのは救いですね」
石原吉郎が活躍した七○年代は、時代の経験や意味を詩の骨格とした戦後詩の時代が一巡し、自己増殖的なイメージやリズムで言葉を紡ぐモダニズムの詩や、非常時から離れた日常をつづる詩など、多様なスタイルが広まった時代だった。
「石原吉郎は戦後詩的な経験を背景にしながら、モダニズムの手法で詩を書いた。収容所体験から石原の詩を読むのでなく、詩というテクストから彼の経験を捉え直したけれど、テクスト論に終始できなかったのは、石原の実存があまりに強烈だからです。そのジレンマの中で書き進めました」
綿密な詩の読解と共に戦争と人間のドラマを実証的にたどった大きな成果だ。
中央公論新社・三○二四円。 (大日方公男)