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クニチャサは久高のノロ(神女)ではなく、首里王府界隈のノロかそれとも?新作組踊「世謡(ゆうてー)~蓮糸の縁」への疑問!

2019-03-20 12:11:11 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他

新作組踊だが、人間国宝の女形立役の第一人者宮城能鳳氏がクニチャサを演じた。初々しさはなく、声音もお風邪のせいか、潤いがそがれたのは残念だった。何よりクニチャサのキャラクターの設定は、新説だが、解説の大城學氏は「この組踊は尚徳王と久高島のノロ(神女)クニチャサの悲恋物語です」と脚本と異なる出だしである。台本が掲載されているので、今後の論議の手助けになりそうだ。

よく知られているのは、「久高島参詣に出向いた尚徳は、大里家の美少女祝女クニチヤサに心を奪われ、寵愛のあまりに帰還を忘れ、その隙に首里でクーデターが起こったとされる。」である。大城立裕氏の新作組踊「海の天境」も久高島のノロとしてのクニチャサと尚徳王の恋愛を描いている。3ヶ月の島への逗留の間に首里王府でクーデターが起こり、安里大屋子を中心に尚徳王の廃絶と金丸(尚円)の台頭を促したとされる。

この久高ノロ=クニチャサのいわゆるアイデンティティに異議のある脚本・物語・筋の展開である。

つまりクニチャサは当初から安里大屋子と金丸(御鎖前)の謀の片棒をかついで、現代のハニートラップよろしく、あえて久高島に渡り島のみやらびを装い酒座の歓待の場で若い国王(29歳)を誘惑し、目的を果たす筋書きである。

 「今出る我身や 天の神々の 仰せごと拝で この島に渡て 世間御案万人の 身替りになゆる みやだりごと拝む クニチャサどやゆる」「御鎖前 御計よ拝で 夜船にかけて 此の島に着ちゅる 首里天加那志 八幡の按司 色道にかけて 此の島にとどめ 御城乗っ取ゆる 計らいどやゆる」

つまり当初からハニートラップとして久高島に送り込まれた祝女の設定である。そして彼女は色香で尚徳を罠にかけることに成功するが、良心の痛み(疼き)の中で、尚徳の愛にひかされて、事実を打ち明ける。「我身や敵方の 廻し者でびる」

興味深いのは、金丸や大屋子がクニチャサの身を案じ救いの使者を立てたことである。台本の問題は、第五場で尚徳が金丸がク二チャサを救おうとしている一端を知っている台詞である。なぜ?寝物語でクニチャサがいずれ我が身を救いに使者が馳せ参じることになっているとでも告白したのだろうか。

クニチャサを助けようとする尚徳である。「のよで我が心 仇になしゆが」。

しかし「無情の世の中に 永らいすよりか いかなくらやみの 死出の旅道も 命身までかけて 染みなちゃる人と 共に引き連れて 歩ゆで行く道や 天の星々も 光りみしせん」である。つらねで幕内で朗誦される。

尚徳が久高島に逗留中に首里王府で異変が起こり、第一尚家が滅亡する歴史の経緯に関してまだミステリーが残されている物語の登場だ。安里や金丸が仕組んだという歴史が事実なら、尚徳を久高島に引き止める策略をしたと考えるのもありえることで、仕組まれた政変劇だったとみなして、このようなフィクションが登場するのも興趣である。ただ久高ノロとしての大里家は今でも健在でクニチャサの子孫だとされる。伝承が嘘かまことか、まだミステリーが残されているが、昨今の久高島研究書は島が首里王府の管轄の下に島の祭祀が施行されていたという論である。首里王府の守護の島としての久高島の位置づけが、何時ごろから始まったのか、第一尚家のころからすでに王府の重要な神島の位置づけであり、尚円はそれを踏襲したということになる。大城氏の「海の天境」では女性原理の祭祀から安里に象徴される男性原理の祭祀がとって替っていく岐路にあったと見なしている。

祝女(神女)が権力に利用されてきたのは、両性(兄妹)による王府の権力の掌握の制度があった、両性具有的な二重権力からの脱皮とも必ずしもいえないのは尚円から尚清、尚真にいたる系譜を見ると祝女(神女)が関与していると記された史実があり、必ずしも安里大屋子のような存在が政権を覆る決め手になったとも思えない。儒教倫理が入ってくるのは1609年の薩摩の侵攻以降の近世からとのイメージがあるのだが、史書を確認しないといけないようだ。

いずれにしても、この新作組踊は従来のクニチャサの人物像に違う造形である。このようなハニートラップ物語があったかどうか?そしてハニートラップを引き受けた神女が自らトラップの蝶になり対象との愛の虜(蜘蛛の糸)になるのである。

「尚徳王とノロ・クニチャサの真実の愛を描く」とキャッチコピーがあるが、真実の愛とは何だろう?ハニートラップを仕掛けた女が王の寵愛を受けて、王の志情に触れて、金丸の謀に異議を申し立てようとした矢先に目的は達成したものの、自死する、滅びる愛である。陥れられた王も自害するが、その時自らを罠にかけたクニチャサには生きる事を促している。

二人は死してなお愛を貫くという美しい悲恋になっている。「あの世まで花の 糸縁の結で やみ路ふみわけて 死出の旅道も 手とい引き連れて 歩ゆで行ちゅん」である。「海の天境」も、死後も愛を貫く尚徳とクニチャサである。死後の愛が信じられている琉球・沖縄の死生観である。グソー結婚もあるね。グソーと浮世はつながっているのである。

 演技は尚徳王の玉城盛義や村頭(村掟)の石川直也の唱えが声が通って良かった!大掛かりの舞台だった。地謡の歌は良かったし、語りと踊りも見せた。クニチャサの唱えが風邪気味でちょっと物足りなかった。象徴的な舞台の場面の流れは違和感は起こらなかった。ただこの筋書きが従来と異なっているのが興味深い。金丸の東江祐吉、王妃の新垣悟さん、いいね。

次回に再演がある時は新垣悟さんがクニチャサの舞台で観たい。

ウィキピディアからの転載ですhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%9A%E5%BE%B3%E7%8E%8B

尚 徳王(しょう とくおう、1441年正統6年) - 1469年6月1日成化5年4月22日))は琉球王国第一尚氏王統の第7代国王(在位1461年 - 1469年)。第6代琉球国王。第一尚氏王統最後の国王。尚泰久王の子。神号は八幡按司または世高王。

尚徳は、尚泰久王の第三王子として、1441年に生まれた。父王の薨去後、妾腹でありながら長兄・金橋王子を退けて、即位した。金橋王子の母は王妃であったが、謀反の嫌疑をかけられた護佐丸の娘であったことから、即位できなかったと見られている。翌年には、から冊封を受けた。

マラッカに使者を派遣し交易を始め、市場を拡大させた。北は日本、朝鮮、南はマラッカ、シャムと琉球は中国交易を中心とした、大交易時代でもあった。

1466年に国王自ら2000の兵を率いて喜界島へ遠征し、琉球王国の領土に加えた。国王自ら軍を率いて討伐に向かうのは、祖父・尚巴志王以来のことであった。この遠征の強行などの政策によって重臣の信頼を次第に失ったのが、死後の政変に繋がっていったとされる。その同年に使節を足利義政に送った。翌年、朝鮮にオウムや孔雀を贈った返礼として、方冊蔵経を贈られた。他に天界寺を創建した。

1469年、29歳で薨去した。死後、金丸(後の尚円王)らのクーデターにより世子は殺害された。[1]

一族の多くが追放、ないしは殺害された。ある伝承では、久高島参詣に出向いた尚徳は、大里家の美少女祝女クニチヤサに心を奪われ、寵愛のあまりに帰還を忘れ、その隙に首里でクーデターが起こったとされる。異変を感じて首里に戻ろうとしたが、船で一里も進まないうちに、行き合わせた漁船から王家の虐殺と金丸の即位を聞き、憤って海に身を投げて死んだという。


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