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①「文化が違うから分ければよい」のか――アパルトヘイトと差異の承認の政治

2015-02-26 12:41:04 | 真実の在り処

「文化が違うから分ければよい」のか――アパルトヘイトと差異の承認の政治

 
 
 

本論の概要

 

・曽野綾子氏の産経新聞コラムには、第一の誤謬「人種主義」と、第二の誤謬「文化による隔離」の二つの問題点がある。

・現状において、より危険なのは、第二の誤謬の方である。

・文化人類学は、かつて南アフリカのアパルトヘイト成立に加担した過去がある。

・アパルトヘイト体制下で、黒人の母語使用を奨励する隔離教育が行われたこともある。

・「同化」を強要しないスタンスが、「隔離」という別の差別を生む温床になってきた。

・「異なりつつも、確かにつながり続ける社会」を展望したい。そのために変わるべきは、主流社会の側である。

 

 

産経新聞コラムとその余波

 

2015年2月11日の『産経新聞』朝刊に、曽野綾子氏によるコラム「透明な歳月の光:労働力不足と移民」が掲載された。

 

 

「外国人を理解するために、居住を共にするということは至難の業だ。」

「もう20~30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。」

「爾来、私は言っている。「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」」(曽野, 2015年2月11日)

 

 

この文面を見る限り、曽野氏は南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)の歴史を肯定しているように読める。将来の日本が、介護労働者不足を解決するために移民を受け入れるにあたり、同様の政策を提唱しているものと受け止められ、多くの批判を浴びた。

 

この人物によるコラムには、さまざまな要素が折り重なって存在し、議論は加熱した。移民に対する蔑視、女性への偏見、介護労働に関する誤解、ベストセラー作家としての影響力と過去の言動、現在の政権与党との近さなどの点が、議論の俎上に乗せられた。また、アパルトヘイトを容認する表現が海外の多くのメディアによって報道されることで、人権を尊重しない国として日本に対し厳しいまなざしが注がれることを危惧する立場もあった。

 

アパルトヘイトは、「人道に対する罪」と呼ばれている。これが、世界史に名を残す犯罪的な制度であったことは論をまたない。人権尊重を基調とする今日の国際社会において、アパルトヘイトを肯定する思想と表現、提言が受け入れられることはまずありえないだろう。また、近未来の日本においてそのような政策が実行されようとするならば、内外の多くの批判を浴びるはずである。

 

実際、すでにこのコラムに対しては、南アフリカ共和国モハウ・ペコ駐日大使が正式に抗議を申し入れている。日本国内では、NPOアフリカ日本協議会、日本アフリカ学会有志、大阪大学外国語学部(旧大阪外国語大学)スワヒリ語専攻在学生・卒業生有志が抗議の意志を表明した(本論末のリンク参照)。国内の新聞各社によってコラムの問題点が報道されたほか、海外でも複数のメディアにおいて、批判的論調による記事が掲載された。

 

日本の移民政策と外国人労働者のあり方についても、すでに識者によるいくつかのコメントや論考がある。介護の問題も含め、具体的な政策提言については、それぞれの当事者や専門家の方がたの論説に委ねたい。

 

ここで私が取り上げたいのは、文化人類学者としての問題意識であり、危機感である。文化人類学、すなわち、人間の文化の多様性と普遍性を、とりわけ文化の差異の側面を中心に専門的に扱ってきた学問にたずさわる者のひとりとして、曽野氏の言説が奇妙な共感を呼んでしまう可能性に対し、アパルトヘイトの歴史をひもときながら、あらためて警鐘を鳴らす必要があると受け止めている。

 

この小論では、曽野氏のコラムおよびその後に追加で公開された言説を分析しながら、二つの誤謬を指摘し、アパルトヘイト期との類似性を指摘しつつその危うさを検討したい。

 

 

第一の誤謬:わずかな事例を「人種」と結びつける悪意

 

曽野氏の第一の誤謬は、人びとの肌の色に関する言説を堂々と新聞紙上で開陳したことである。

 

同コラムにおける「白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい」という文面は、どう好意的に理解しても、人間の本質を生まれながらの肌の色により分類して理解する人種主義(レイシズム)であるとの非難を免れようがない。

 

「黒人は基本的に大家族主義だ」「白人やアジア人なら常識として夫婦と子供2人くらいが住む」といった表現は、仮に、ある地域、時代の特定の社会階層の事例において、たまたまそういう人びとが観察されたとしても、肌の色に還元して説明すべきことではない。当該の人びとにおいて営まれていた、文化要素の一つに過ぎないからである。

 

そもそも、「人種」自体が、近代になって構築され、強化された概念である。ヨーロッパによる非ヨーロッパ世界の搾取を正当化する、科学的な装いを伴った言説としてもてはやされ、定着した。「人種」概念がヨーロッパによる世界支配に資する虚構であったことについてはすでに多くの指摘がなされており、それを現実の社会現象を説明するために援用するのは、あまりに不勉強であり、かつ偏見と悪意に満ちている。

 

南アフリカで自身が見聞したと主張するわずかな事例を、何十億人にも上る世界の人びとに対して拡大適用し、生まれつきそなわった外見的特徴に関連させて決定論的な言説を振りまいたことは、文字通りの「人種主義」として非難に値する。

 

 

第二の誤謬:「文化による分離」の素朴さが孕む危険性

 

第二の誤謬は、文化を異にする人びとの分離を提唱していることである。

 

仮に、の話であるが、曽野氏が第一の誤謬である肌の色に関する箇所を撤回したと想定してみよう。そして、改めて、生活様式や言語などの「文化の側面に限って注目し」、「異なるから分けておくことが望ましい」と提唱したらどうであろうか。このような言説は、ひそやかに多くの人びとの共感を呼んでしまう可能性をもっている。

 

実際、曽野氏はコラムの中でも、居住のしかた、水道の使い方、日本における移民労働者の言語など、多くは生活様式や言語の面に関心を寄せて事例を示している。肌の色のくだりは人種主義に他ならないが、実は、この人物の最大の関心は、人種そのものではなく文化の側面にある。それを強調した上で、分離せよと述べている。

 

このことは、コラムの後に追加して公表された本人の発言からも、裏付けることができる。朝日新聞へのコメントでは、「「チャイナ・タウン」や「リトル・東京」の存在はいいものでしょう」と述べているし(『朝日新聞』2015年2月17日)、荻上チキ氏によるインタビューにおいては、くさやのひものなどの食べ物にまつわる便利さのほか、ジェントルマンたちのチェスのクラブ、女性たちのファッション、さらには、芸術、学問などの営みを例に挙げながら、差別ではなく区別の必要性を強調している(「荻上チキ・Session-22」2015年2月17日)。つまり、この人物の関心は、たえず「肌の色」ではなく、「文化」の側面へと向かっている。

 

これは、一見、リベラルでものわかりのよさそうな言説に見える。自分の文化を守るとともに、表向きは他者を否定せず、自他の違いを認めた上で、別の場所でそれぞれ自由に生きていくことにしましょう、と。文化相対主義をまじめに受け入れ、相互のあり方を尊重しているようにも見える。これは、「同じ言語、同じ生活様式を共有する人たちの中で、心地よく暮らしたい」という人びとの素朴な感情にも訴える魅力をもち、多くの賛同を得る可能性がある。

 

しかし、私たちはその言説に潜む罠にこそ、目を向けねばならない。この「一見ものわかりのよさそうな他者理解の言説」こそが、実は、南アフリカにおけるアパルトヘイトの成立を後押しし、かつ巧妙に存続させた重要な要因の一つだったからである。

 

以下では、「アパルトヘイト成立期の文化人類学の関与」と「バンツー教育における民族諸語の使用」の2点に注目し、これら、「差異を承認する言説」が陥った過ちを検証していく。【次ページにつづく】

 


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