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「沖縄芝居」ー文化の記憶と再現、は真喜志康忠著『沖縄芝居と共に』(2002)の解説です!

2022-09-04 14:36:49 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他
これは2019年9月7日にこのブログで公開していた、真喜志康忠著『沖縄芝居と共に』ー老役者の独り言の解説として最後に寄せた論稿です。氏の年譜も作成しました。

なぜ、今これをこのブログのトップに持ってきたか、最近、名桜大学から出版される予定の『琉球文学体系』35巻の中に、真喜志康忠氏が琉球大学で講義するために提供した沖縄芝居の71作品が収録されることが、明白で、文学体系の広報にもしっかり、まきしこうちゅうが強調されていることが分かりました。
恩師の瀬名波榮喜先生https://blog.goo.ne.jp/nasaki78/e/8e110ca568ad75fcdc9a89ffc9d1de7eと友人からの☎で知りました。

恩師はわたくしは演劇専門家だから、関与してもおかしくないとお話され、ご自分が書かれた論稿を☎で全部読んでくださったのです。西洋演劇理論で組踊から歌劇まで学術的に展開したエッセイでなかなか、琉球文学や琉球諸語だけを研究されてきた方々には難しいのかもしれないという印象でしたが~。

しかし、脚本集の著作権を所有しているお嬢さんのきさ子さんから、この脚本集の編集に関しては、この間ずっと関わってきたわたくしがなぜ関与していないのか、の疑問を編集委員【校注】の狩俣繁久氏に問い合わせたというお話がありました。そしてびっくりしました。狩俣氏のきさ子さんの問に対する返答が予想外だったからです。詳細は直接うかがいました。きさ子さんは「波照間さんから☎で問い合わせがあった時、当然この間関わってきたわたくしが関与しているものとして了承した」と、話していました。

狩俣氏の答弁に驚いたのは、この解説の中でも言及している71作品について、以前、新星出版の社長・濱川 謙氏と狩俣氏、わたくし、そして田島さんなどと一緒に具体的に作品を分類し、10巻に分けて中身を詳細に分析していたからです。上村幸雄さん、大城立裕さんのエッセイもすでに拝受していました。一巻の出版の手前までできていたのが、社長交代で企画がだめになって保留状態だったのです。出来上がりつつあった一巻は、脚本を読むだけで芝居の臨場感が経験できるような中身でした。
 その当時の詳細な書類を持っているのは濱川謙氏、狩俣氏、そしてわたくしです。この間狩俣氏は一言もその事に関してお話はありませんでした。
 狩俣氏が主導する教室で、沖縄芝居に対する「真喜志康忠氏の情熱と絶望」を目撃した日、評論や研究をする者として、真喜志氏を、沖縄芝居を応援したいという思いで、この間やってきました。まとめた博士論文の冒頭は氏に対する、そして元の辻遊郭や御嶽を案内して下さったきさ子さんに対するオマージュです。お二人に導かれて10年間、取り組むことになったのです。

「二カ年だけ、狩俣教室で、自分の論文を書くために聴講した」ということは、ありえません。この『沖縄芝居と共に』の出版のために、かなり時間をとって本の完成に頑張りました。当時の新星出版社長・濱川 謙さんは、大きな出版記念会を開催してくださいました。狩俣氏や学生のみなさんもご招待されていましたね。(詳細は割愛)100年に一人の名優真喜志康忠氏です。
2002年2月に琉球大での講義を無事終了し、同年6月『沖縄芝居と共に』が出版されました。2年どころか数年間、聴講し続けました。さらに旭町の道場でインタビューを続けてきました。録音テープはたくさん残されています。

 狩俣茂久氏が優れた方言学者で教育者であることは、ご自分の授業で学生たちと共に、真喜志康忠氏の脚本を『那覇の方言』として4冊にすでにまとめられていることです。那覇市方言記録保存調査報告書「沖縄芝居脚本集」として4巻、出版されています。簡易な形態だが頑張った学生たちの成果と企画の進展状況も含めて集約しています。その膨大なデータを保管されているのが狩俣氏です。
 その10年以上におよぶ授業の成果が「真喜志康忠脚本集71作品」の基礎データとして活用されるはずでした。かかわった学生の皆さんの情念や思いもぜひ、しっかりした書籍に生かされてほしいです。学生たちの授業で培われた基礎的な取組があってこそです。狩俣氏を優れた研究者・教育者として信頼しています。学生の皆さんが頑張ってまとめられた「沖縄芝居脚本集」は演劇論(作品分析)を書く時に参考になりました。やはり、このような脚本集は日の目をみるべきだと思います。

 追記:琉球文学大系全35巻の中の第17巻、第18巻、第19巻、第20巻、第21巻全5巻の「琉球演劇」(真喜志康忠沖縄芝居脚本集)は収録されないことになったようです。以前新星書房で全10巻に編集してまとめる予定の企画が流れ、今回も全5巻が流れることになったのは残念です。しかし、きっと日の目を見ることはあるでしょう。琉球文学大系の中に演劇を収録しないのは、残念です。芥川賞作家の大城立裕氏は、小説から「沖縄芝居」、そして最後は「詩劇の新作組踊」を21作品(?かそれ以上)書き上げました。演劇はエスニックアイデンティティの際立った表象です。
 確かこの文学大系は、ほとんどがすでに出版されている文献の再編集(校注と解説)です。琉球演劇(沖縄芝居脚本)は全く新しい企画だったと推測するのですが、当初、真喜志康忠の名前を名桜大学のこの企画の看板のようにネットで喧伝していました。寄付に頼っている出版事情もあるのでしょうか。

 なかなか出版に至らない継子扱いの「沖縄芝居脚本集」が誕生することを念じておきましょう。1,000万円内外で出版できると推測するのですが、クラウドファンディング (crowdfunding )などの可能性も残されています。沖縄芝居脚本集は黙読でも、朗読でも、歌唱でも、演じても、楽しめるものになりえます。もちろん将来的に舞台で演じる時にも貴重ですし、そのままウチナーグチ(琉球諸語)の習得にも大いに役立つに違いありません。
 『真喜志康忠沖縄芝居71作品集』の実現を念じたいと思います。念じ続け、実際に志のある方々の思いの中で、出版できる日を夢見ることはあきらめないでおきます。
 沖縄はアカデミアも家父長制度の残滓が残っているのでしょうか。(2023年6月8日朝、脚本集が没になったことを関係者から拝聴しました。)

 1月8日に戯曲集のすり替えの報告がなされたのですね。琉球戯曲集は出版されます。しかしおそらく国立劇場おきなわの「華風」などに収録された脚本をまとめるのかもしれませんね。すでに日本語翻訳もなされていますので、編集はやりやすいのかもしれません。あくまで推測です。
 最近山里永吉さんの古いコラムを読むと、真喜志康忠氏の記憶力の凄さを伝えていました。戦前のさんご座で幕の開閉などをしながら琉球史劇や時代劇のセリフを全部丸暗記していた氏の才覚によって、戦前のお芝居が脚本化されたことを書いていたのです。戦前のさんご座で、主役で演じていた方々も掘り起こすことができなかった脚本を記憶していた氏の凄さが分かります。
 その点、戦後の沖縄芝居で戦前の作品が、康忠氏の記憶力によって、再現されたことが分かります。
 すると「国立劇場おきなわ」で収録された台本も、元々は康忠氏の記憶によって形になり、それを各劇団が上演し、俳優協会などでも、いくらか修正をしながら台本が作成され、さらにそれらを元に、国立劇場おきなわが、さらに監修し、台本化した作品もある可能性は高そうですね。記憶力、侮れない才能です。今あらためて真喜志康忠氏について、向き合っていると、やはり100年に一人の名優であり脚本家、演出家だったこと、さらに常に沖縄芝居の芸術性を追求してきた方だったことが浮かび上がってきます。
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「沖縄芝居」ー文化の記憶と再現


真喜志先生との出会い


真喜志康忠先生の琉球大学における方言学演習クラスに初めて顔を出したのは、今から五年ほど前、方言研究者の狩俣繁久先生に電話で授業の聴講をお願いして実現した。そして真喜志先生との出会いは、想像以上に豊かな「沖縄芝居の世界」への旅立ちとなった。

聴講の動機は、子供の頃から村芝居を見慣れていたゆえ、無意識の内に私の血となり肉となっているはずの琉球芸能、とりわけ「演劇としての沖縄芝居」を研究対象としてより深めたいと思っていたのがその大きな要因である。それは一つには、アメリカで西洋演劇の理論などを学び、そこで改めて自らの文化伝統を掘り起こすことの大切さを認識したこと、いま一つは「普遍的な演劇の本質を沖縄の演劇を視座に据えてまとめる」ことを、生涯のテーマにしたものの、口立てを伝統とする沖縄芝居ゆえに、なかなかテキストを詳細に検討することができない壁に直面していたゆえでもあった。

真喜志先生のクラスが一九九❍年から、沖縄芝居脚本のテキスト化の作業に取り組んでいることを知った時、すでに五十作以上の作品の日本語訳と方言表記や注釈などが着実に進められており、私は途中から真喜志先生の方言脚本の朗読や詳しい解説、また芝居にまつわる様々なお話を伺うことになった。

初めて方言演習教室で真喜志先生のお話を聴いた時の印象は、今でも忘れられない。確か、山里永吉の戯曲『首里城明渡し』の方言台本の講義だった。その日本語で書かれた戯曲は一九三❍年、当時、沖縄芝居を代表する伊良波尹吉、真境名由康、島袋光裕、各名優たちが、それぞれが方言に直して大正劇場で上演、一ヶ月間もの大入り満員を収めたという。しかし、真喜志先生は、「その頃は、まだ琉球処分から五十年ほどしか経ってない時代だから、御殿(うどぅん)殿内(とぅんち)の言葉をそのまま用いて沖縄の言葉で台本が書けただろうになァー」とため息をつかれた。そしてさらに「そうしたら、芝居の中で殿内言葉がもっと生かされて沖縄の財産になっていただろうに、ディキヤーの先生方は日本語で書くことを選んでしまった」と残念そうに付け加えた。

そういえば、当時琉球最後の尚泰王の役を演じた伊良波尹吉の「どっと殊勝どう」(礼を申すぞ)の方言らしい言い回しに作者(山里)もあっと驚いたという逸話は、矢野輝雄の『沖縄芸能史話』でも紹介されている。しかし、殊勝は、「ことにすぐれていること、また感心なこと」と広辞苑では説明され、沖縄語辞典(国立国語研究所編)によると「しんみょう」とある。それなら文字どおり訳すと、王は「ほんとうにしんみょうなことに思うぞ」となる。しかし、当時は、沖縄県民の多くが日本語の識字に疎かったように、その識字に疎い伊良波尹吉の「どっと殊勝どぅ」という「造語」に、作者を含め感心したのである。伊良波は後に「無学(文盲)であった」と、書かれたりしているが、それはあくまで中央の視点から見た偏見的な評価である。その偏見は、伊良波が創作した数多くの「歌劇」が実証して余りあるが、それはまた大和化の囲い(偏見)の中で、沖縄芝居がいかに風雨に晒されていたかも如実に示している。

問題はそれらしい言い回しに感服し、その後、沖縄芝居で王が臣下の者に対して礼を述べる時、この「どっと殊勝どぅ」や「殊勝やたんどぅ」などに統一されていったことだ。そしてまたそれが「造語」であったことは、明記されるべきである。「もし、日本語でなくて適切な沖縄方言で脚本が書かれていたならば、翻案も造語もまったく必要ないからである。因みに真喜志先生は「方言を日本語に翻訳したり、方言に日本語の漢字を当てはめていく作業の過程で、落ちこぼれていったものが数多くあるはずだ。また日本語を方言に翻訳する場合もー」、とよく指摘するが、先生が講義の際、ため息をつき、残念そうに顔をくもらせたのは、全くそのせいである。つまり「礼を申すぞ」という言葉は、沖縄の風土から浮遊しているがゆえに伊良波は「どっと殊勝どぅ」と言い換えたわけで、沖縄芝居の脚本なら最初から沖縄語で書けば、それでよかったものである。時代的なしがらみゆえの時代的な倒錯だが、不幸な経緯と言えよう。

では逆の場合はどうか。例えば方言に直しようのない固有名詞や普通名詞、さらに動詞でさえ、「東京」を「トウチュウ」に、「今日」を「チュウ」、『巡検」を「ジュンチン」と沖縄(方言)らしい呼称に翻案されていった芝居の台詞は、真喜志先生の方言台本の中にも多く見受けることができる。口惜しい→クチュサン、鬼→ウニ、清ら物言い→チュラムヌイー、問い尋ね→トゥタンネー、など、また然りである。この言葉の翻案は、異邦の言葉のたたずまいを沖縄という風土になじませる(蘇らせる)ためのものであり、沖縄芝居の役者たちは、そのぎりぎりの格闘を密かに舞台で演じていたのである。

口立てが主体の沖縄芝居が、組踊のように当初からしっかりとした台本を残しえなかった背景には、自由な即興的な表現の面白さ(狂言)が、また芝居のだいご味であった要因も大きかったのだろう。だが、大切なのは芝居の筋書きで、またそれだけに役をあてがわれた役者は、才覚が問われたわけである。それゆえか、伊良波尹吉や真境名由康は、盛んに「組踊の詞章を全部覚えろ」と、役者たちを叱咤したようだが、それは、組踊を母胎として登場した台詞劇や歌劇の伝統を明示するだけでなく、それらの土台の上でこそ自由な即興的表現(役者各自の才覚)も花開くということを言いたかったのであろう。

 真喜志先生は著書「沖縄芝居五0年」と本書で、数年に及ぶ珊瑚座での見習い時代に幕頭(まくがみー)や、拍子木頭(ばんがみー)、太鼓頭(てぇーくがみー)をしながら、数多くの芝居を「見(み)なりー聞(ち)ちなりーして」ほとんど全て覚えたこと、さらに講義では、「それらの芝居の内容をノートにメモして、先輩役者から叱責された」ことを吐露したが、それは沖縄芝居が「記録するものではなく、役者自らの身体で覚え、記憶の裾野から芝居を再現する口承の舞台芸術であることを物語っている。それは、また視点をかえれば「沖縄方言が表記になじまない語り言葉(口語言語)としてしか社会的に機能しない」ことをはっきり示しているとも言えよう。しかし芝居の台本化を阻害したのは、それだけではなく、やはり明治の琉球処分以降、日本への同化の過程で、琉球語(いわゆる方言)が抑圧された歴史的背景が、最大の要因であろう。ゆえに物書きたちは沖縄芝居の脚本を大和口で書いたのである。

いずれにしても、明治・大正・昭和初期の演劇人たちは、琉球がまがりなりにも王国としての形態を維持していた十八世紀の玉城朝薫の時代とは大きく変わった時勢の中で、古き琉球王府時代の世界を作品に再現する一方、日本から押し寄せてくる新しい文化の波を沖縄の風俗習慣の中に取り込み、次々と新作を上演した。だがそれは、ただ過去の記憶を取り戻すという容易なものではなく、無意識に一つの共同体(社会)が試みた己の歴史、文化を自己保存し、そこに生きる糧(力)を見出そうとした懸命な闘いの歴史であるとともに、また優れて新しい時代の感性の表現でもあった。

真喜志先生の台本(琉球大学方言学演習録・近刊の予定)は、珊瑚座や真楽座時代に何度となく見た・演じた舞台の記憶と、その記憶の裾野を蘇らせて完成した貴重なものである。実際、一九七五年に山里永吉作・演出の「首里城明け渡し」で、真喜志先生は、名優の評判に違わず、実に重厚に、時勢の大波の中で葛藤する頑固党の領袖・亀川親方を演じている。それは正しく時を経て醗酵した至芸であるが、先生の話は厭きることなく(台本を超えて)面白いエピソードに満ちている。例えば、珊瑚座時代に「首里城明け渡し」の連作、「那覇四町気質」を見て、作者の山里に「菊地寛の戯曲『時勢は移る』と似ている」と感想を述べると「やな、わらばー」と怒られた話など、興味ぶかい。実際私も菊池寛の作品と読み比べてみたが、相違なかった。また、「藤森成吉の『江戸城明け渡し』とも似ているね」と、指摘したが、確かにそうである。真喜志先生は、十代の見習い時代に啄木と出会い文学に目覚め、後には菊地寛や長谷川伸、シェークスピアやモーパッサンは言うに及ばず、日本文学全集や世界文学全集を渉猟していたのである。ゆえに山里作品の菊地・藤森作品との類似をすばやく見取ったと言えよう。

真喜志先生が、今日ただ一人、沖縄芝居の隆盛期と称される、一九三〇年代の(珊瑚座の)芸を踏襲する最後の名優であることに異論をはさむ人はいないと思うが、一方で先生は戦後(一九四九年)、「ときわ座」を創立し、珊瑚座の十三年より長く二十年余、座長として一座を支えてきた。そして一座の解散後、復帰後に組踊の修錬に挑戦し、かつ、芥川賞作家・大城立裕の新作沖縄芝居「世替わりや世替わりや」(一九八六年)では、侍になりたがる実にこっけいな主役(大門の主)を演じている。そしてその「世替わりや世替わりや」が八十八年に紀伊国屋特別演劇賞を受賞したことは、非常に画期的な事で沖縄芝居の行く末に希望を抱かせた。また一連の沖縄芝居実験劇場では、大城立裕作、幸喜良秀演出の「嵐花」の主人公・玉城朝薫、「福州琉球館」の主人公・徳村按司の役などを演じ、沖縄芝居の「芸の粋」を私たちに堪能させてくれた。また「実験劇場」の名のとおり、絶えず新しい演劇に挑み、それでいて泰然たる姿は、ある勇気を忍ばせる。

ところで、あえて「世替わりや世替わりや」についてここで言及したのは、先生が、折にふれ、「『首里城明け渡し』と『世替わりや世替わりや』をいっしょに上演できたらいいね」、と話しているからである。「首里城明け渡し」はいわば、「時勢の波間に揺れる小国琉球の最後」を悲劇的に描いた史劇である。一方「世替わりや世替わりや」は、「首里城―」とは対照的に当時の時代に目覚めない士族と百姓の様態を実に皮肉たっぷりに喜劇的に描いた作品である。それでこの両作品を並べることによって、沖縄の画期的な歴史(琉球処分)がより分かりやすく、一般に受け入れられるであろうと、先生はおっしゃり、また『世替わりや世替わりや』は「戦後の沖縄芝居の傑作である」と強調されている。

琉球大の講義を聴講する前から、数々の舞台、そのますらお的な「大新城忠勇伝」「阿麻和利」「武士松良」、また「海の一座」(謝名元慶福作)のような現代劇、琉球舞踊家・玉城千枝子と共演した名作歌劇のオムニバス「浅地紺地」などの舞台に立った先生の至芸を見ていたがゆえに、熱い情念に満ち溢れた講義には、感きわまるものがあった。しかし一方で、沖縄芝居の現状と将来に対する先生の心情の曇りは悲壮感さえ漂わせていた。なぜだろうか?

それは沖縄芝居の命運が即役者真喜志康忠の命運そのものであるからであろう。その後私は、先生の琉舞道場へ足しげく通うことになるが、それはこの沖縄芝居最後の名優「生き字引」から最大もらさず、沖縄芝居のお話を伺うためである。

沖縄芝居と沖縄方言

手元にある真喜志先生の著作『沖縄芝居五〇年』や、一九七三年五月十六日から二十回にわたって連載された「沖縄演劇の裏面史」、また一九七八年五月号から一九八◯年十一月号まで、『青い海』に十八回連載された「うちなぁ芝居とともに」、そして本書を読むと、重複箇所もあるが、共通して胸に迫ってくるものがある。それは沖縄芝居が「沖縄方言で表現される演劇である」ということである。そして今や「この沖縄の日常生活の中で、沖縄方言のみで会話する人はいなくなった」という、厳然たる事実である。すなわちそれは、沖縄方言芝居に心を寄せる人たちも限られてきた、ということを意味する。なぜ?

真喜志先生は皮肉をこめて「島小(しまぐわぁー)」という言葉を本の随所に使われている。それは「芝居(しばい)子小(しぐわぁー)」と同様に、蔑称としてもちいられるこの言葉が、「沖縄と沖縄方言、さらに沖縄芝居が明治の廃藩置県以降たどってきた運命」を同時に透写しているからである。「思うに沖縄芝居は発足当時から、方言芝居なるがゆえに、妙な限界・暗い宿命を背負わされてきた感じがする。そのため進歩した同郷人からは、絶えずとかくの批判を浴び、芝居小と卑しまれてきた」と、真喜志先生は伏流水のごとき歴史の裏面を直截に語る。沖縄芝居は、沖縄が日本に併合され、日本人になる過程(大和化)で、方言芝居ゆえに、特に当時のインテリ層(役人や教育者や物知りなど)から目の敵にされたともらすが、それはまた沖縄口を学校や公的な場で使うことを固く禁じた(歴史の)事実からも容易に想像がつく。「方言札」は戦後の沖縄教育界でも効力を発し、学力低下と方言の関係がまことしやかに流布したのは記憶に新しい。これは「沖縄近代のいびつさ」だが、明治十二年の廃藩置県から百二十三年たった現在、島言葉(沖縄口)は、「絶滅言語」の仲間入りをした、と言語学者や方言研究者は眉を曇らせる。―――そしてそれが、沖縄芝居の命運である。

真喜志先生が、沖縄口に深いこだわりを持つのは、「沖縄芝居の命運が即、役者真喜志康忠の命運」と前記したように、先生の生涯が沖縄芝居役者であり、沖縄の古典芸能(組踊)の国指定保持者であることと、大きな関わりがあるのは当然であろうが、しかし、先生の心の奥底には、「沖縄口は沖縄常民の心の根であり、その沖縄の心情を忘れたら、沖縄の魂は糸の切れた凧のように浮遊する」、という憂いが秘められていると推察する。数え九歳の時から芝居の世界に身を投じた真喜志先生にとっては、芝居は「心の支えであり、命の糧」であろう。そしてそれは「日本人ではなく琉球人」としての矜持を生きることでもあり、沖縄常民のアイデンティティーの所在を指し示している、とも言える。

沖縄芝居の歴史と「ときわ座」の誕生

沖縄がまだ琉球であった一七一八年、玉城朝薫が初めて組踊二番(『ニ童敵打』『執心鐘入』)を書き上げ、翌一九年、冊封使をもてなす首里城内の特設開場で上演した、と史書にある。その後朝薫は『銘苅子』『女物狂い』『孝行の巻』で完結させる。以後、その楽劇は琉球王国の宮廷芸能の様式として定着し、後に平敷屋朝敏の『手水の縁』、田里朝直の『万歳敵討』『義臣物語』『大城崩』、高宮城親雲上の『花売りの縁』、平敷親雲上の『巡見官』、久手堅親雲上の『大川敵討』などに継承され、七十五作品(内新作は八演目)が現存するが、圧倒的に敵討物が多いのが特徴である。

なお、時は巡り、玉城朝薫の『執心鐘入』の初演からニ八ニ年後の二❍❍一年、かの大城立裕が琉球楽劇集『真珠道』を上梓、「海の天境」「真珠道」「山原船」「花の幻」「遁ぎれ、結婚」の新五番を世に出したが、この新五番は、まさに執念の新五番である。

さて、「首里城明け渡し」に象徴される琉球王国の崩壊とともに、宮廷芸能は野に下り、そこから、組踊もどきのような狂言「親あんまー」(ワンドンタリー調)が明治二十年代に出た。八重山在番と現地妻との別れの愁嘆場を描いたこの狂言劇は、組踊の要素を色濃くやどしながらも、未知の領域(歌劇や台詞劇)に分け入り、特に後々の歌劇の原点とも言える作品である。また与那国ションガネーと小浜節の二曲のみで構成されているのが特徴である。その後、歌舞伎や新派などの影響をうけながら、組踊の敵討系統の「今帰仁由来記」や東京や大阪で上演された川上音二郎のシェークスピア作品もどきの芝居「オセロー」「ハムレット」などが上演され、明治四十年代から大正にかけて唯一恋愛を主題にした組踊「手水の縁」の様式(仲風、述懐節やつらねと所作を含む)、また雑踊りや民謡、掛け歌、打ち組み踊りの流れを汲み取った大作歌劇「泊阿嘉」「薬師堂」「奥山の牡丹」、そして「執心鐘入」の主題を踏襲した「伊江島ハンドー小」など、沖縄を代表する四大歌劇が登場する。そして演劇はまさに大衆の娯楽となり(メディアの役割も果たしつつ)、東京などの新しい時代の息吹を取り込みながら、昭和に入るが、その昭和八(一九三三)年、真喜志康忠は数え九歳にして珊瑚座へ入座する。

ちょうどその頃、明治十五年の仲毛芝居から半世紀経った一九三❍年代、沖縄芝居は商業演劇として隆盛期を迎え、山里永吉の一連の歴史劇「一向宗法難記」「首里城明け渡し」「那覇(なは)四町(ゆまち)昔気質(むかしかたぎ)」「宜湾朝保の死」や親泊興照作の「中城情話」、上間昌成作の「愛の雨傘」などの新歌劇が繰り返し上演された。まさにその場に居合わせていた九歳の真喜志少年は入座と同時に新作劇の洗礼を浴びたわけである。つまり沖縄芝居の様式が完成期を迎えたその場で多感な真喜志少年は、芝居口調や舞踊、立役(敵役、色男の二枚目、三枚目)、古典音楽から民謡の節や唱えまで、真綿が水を吸い取るように、舞台の全てを吸い取ったに違いない。ある芝居通が「真喜志康忠は舞台に上がると二倍の大きさに見える」と、嘆息したことがあるが、恐らく、少年の日の芝居との出会いが肥やしとなり、その芸域の裾野の広さ深さが、見る者を圧倒するからであろう。

 それは著書「沖縄芝居五❍年」の中の「思い出の名優たちと舞台」からも、いかに多くの名優たちの舞台を「見ぃなり聞ちなり」し、かつ直に教えを受け、後には相手役を務めたかが分かる。例えばその名優たちとは、組踊「大川敵討」の谷茶の按司役の玉城盛重、「夏時雨王女節」の幸地里乃子役と「中城情話」の首里の里乃子役の親泊興照、「宜湾朝保の死」の宜湾役と、「大新城(おおあらぐすく)忠勇伝」の作者で大新城役の渡嘉敷守良、それに沖縄劇界の三冠王(劇作、演出、役者)と先生が尊敬する「国難」の謝名親方役と「首里城明け渡し」の亀川親方役の真境名由康、また名前だけ列挙すると、玉城盛義、伊良波尹吉、比嘉正義、平良良勝、宮城能造、島袋光裕、平安山英太郎、伊集亀千代、上間昌成、仲井間盛良、鉢嶺喜次らでいずれ当代のきら星である。

そしてさらに、役者真喜志康忠を役者たらしめた背骨は八重山での翁長小次郎との出会いと翁長一座での花形役者としての洗礼、本部で一座を組織した経験、数え二十一歳(召集)まで与那原の伊良波一座で活躍した実績だろう。実際、「見ぃなり聞ちなり」した珊瑚座や真楽座の芝居を、芝居の筋は無論、演じ方まで全て覚え、翁長座と伊良波座で花形役者として演じたのである。それは役者真喜志康忠の精神と肉体の全てが、珊瑚座、真楽座、翁長座、そして伊良波座の芝居の統合体であり、言葉を変えれば、真喜志康忠という役者の肉体と精神は、戦前の沖縄芝居の「記憶の容器・記憶の壺」とも言えよう。

そしてその「記憶の壺」は、戦争の廃墟と化した沖縄が、復興への第一歩を踏み締めた時、みごとに開花した。三ヵ年に及ぶ過酷なシベリア拘留から生還した真喜志は、公営劇団の一つ「松劇団」で数々の舞台に出演し、その「記憶の壺」からにじみ出る己の芸を披露したのである。松劇団は、かつての珊瑚座の役者たちを中心に組織した劇団でそこで真喜志は、かの島袋光裕、親泊興照、八嶺喜次、比嘉正義らの相手役を務め、「中城情話」「草枕」「奥山の牡丹」などの歌劇、「運玉義留(ぎるう)と油食え(あんらくぇー)」「女よ強くあれ」、長谷川伸作「瞼の母」、また自ら台本にした「武士松茂良」(松村竹三郎原作)などを演じたのだった。しかし真喜志は、従来の沖縄芝居に飽きたらず、新しい時代の感性を盛りこむ芝居を模索し、一九四九年六月、ついに「ときわ座」を旗揚げしたのである。そして七○年九月に解散するまでの二十年余、座長として沖縄一円を巡演したのは、言うまでもない。

「ときわ座」の代表作と戦後

一九四九年真喜志先生が玉城盛義を顧問にときわ座を立ち上げた時、沖縄では雨後のタケノコのように多くの商業演劇劇団が乱立していた。そして十年後、大衆の人気を勝ち取り生き残った劇団はそう多くはなかった。「ときわ座」の特徴は、ますらお的な戦前の沖縄芝居の勇壮さを再現し、かつ新しい時代の感性を盛り込んだことである。従来の沖縄芝居が「善と悪」の二分法によって構成されているのを、真喜志先生は、不思議に思っていたのだ。例えば人間というものは、「お互いに必死に生きようとしながらも、立場や環境の相違から対立したりする。つまり、悪い人が悪いことをするのではなく、悪い人が善いことをし、善い人が悪いことをしているのがこの世の中」である。そのためその人間の業の深さ、世の中の仕組み、人間心理の微妙な襞をリアルに演じられたらと、いつも真喜志先生は胸に秘めていたのである。

もちろん、「ときわ座」が「乙姫劇団」や「大伸座」と並び、沖縄の代表的な劇団になったのは、芝居愛好家のアンマーたちに支持されたゆえだが、それは真喜志先生がいつも胸に秘めていたその理念へのにじり寄りが、アンマーたちに支持されたとも言えよう。

 その具体的な事例の一つは一九四九年に初めて奄美から沖縄にきて新劇を上演した「熱風座」の座付作家で演出家の伊集田実との深い関わりである。真喜志先生は伊集田実作「野党の群れ」を方言に翻案して五十一年に舞台上演し、さらに五十二年には同じ配役(真喜志康忠、吉乃浦朝次、花城清一、玉城伸、真喜志八重子など)で映画化もしている。ドイツの作家シラーの「群盗」を翻案した「野党の群れ」は、勧善懲悪とはいえ、主人公がアウトロー的ゆえに、従来の沖縄芝居にない心理的な深みをかもしている。

同様に真喜志作の「風雲南風原城」後に「按司と美女」と改題された作品などは、真喜志作でシェークスピアの「オセロ」の翻案である。「オセロ」はムーア人の将軍が部下の偽りの諌言ゆえに嫉妬に狂い美しいヴェニス人の妻を殺す悲劇だが、「按司と美女」は沖縄芝居の様式の中で嫉妬に苦しむ按司の姿を浮き彫りにしている。十五世紀初頭の按司時代に設定したこの芝居は、オセロの人種の違いによるコンプレックスを、「按司と美女」では、戦争で傷ついた顔ゆえに女に愛されない、と思い込んでいる按司の心の痛ましさ(劣等感)で暗示し、デズデモーナのハンカチの代わりに「七七理数の玉」を象徴的に用いている。この「七七理数の玉」は、史劇「今帰仁由来記」に出てくる今帰仁城のお宝「七七冷暑の玉」から採られているのは確かで、つまり、「按司と美女」は、真喜志先生の「記憶の壺」から取り出された伝統形式と西洋演劇との融合から成り立っている。按司が妻(うなじゃら)を殺そうとする場面まで上りつめる筋の展開は、息を呑む。しかし、あわやという所で、大団円となるが、悩み悶える按司の姿は、もはや現代人と変わらない。

 さらに一九五五年、琉球新報社主催の第一回琉球新報演劇コンクール(那覇劇場で五日間開催)にときわ座は新作「多幸山」を引っ提げて参加、みごと入選した。この演劇祭(コンクール)は劇団の乱立や映画などの攻勢で下火になってきた郷土演劇を、今一度を期し琉球新報社が支援した一つの文化運動だったことが、当時の紙面から窺えるが、参加団体は「新富座」(座長・与座朝明)「新生座」(座長・金城幸盛)「振興劇団」(座長・奥間英五郎)「ともえ劇団」(座長・平安山英太郎)「ゆたか座」(座長・名城政助)「眞楽座」(座長・高安才蔵)「みつわ座」(座長・松茂良興栄)「乙姫劇団」(座長・上間郁子)「大信座」(座長・大宜見小太郎)そして「ときわ座」の十劇団。

審査委員は、山里永吉、川平朝伸、仲井間元楷、新垣美登子、山田有功、池宮秀意、中今信、嘉陽安男など、で錚々たる顔ぶれ。結果は「乙姫劇団」の『王女御殿』、「ときわ座」の『多幸山』、そして「大伸座」の『丘の一本松』の三劇団が入選した。

「多幸山」は、長谷川伸の短編小説『敵討たれに』を脚色した芝居だが、登場人物や筋が巧みに構成され、原作よりもより一層深みをもった作品となっている。おそらく戦後の、いや沖縄芝居の歴史の中でも突出した作品と言えよう。もちろん作、演出、主演は真喜志康忠その人である。そしてこの作品に、後の沖縄芝居実験劇場の兆しがすでにあることに驚く。

芝居「多幸山」は、琉球王府時代、国頭から首里へ上る途中の旅人(先祖は侍の百姓)が、多幸山で兄弟のフェーレー(追いはぎ)に遭い、身ぐるみ剥がされ、逃げようとして争ったはずみに一人のフェーレーを殺し、その場を逃げる。しかし旅人は二十五年後、罪をあがなうために再び多幸山の山里を訪れ、ついに殺したフェーレーの家族を探し当てる。そして旅人はかのフェーレーの息子の刀(脇差)で潔く殺されようとするが、実はその息子が今持っている刀が、二十五年前(フェーレーが)旅人自身から奪った先祖伝来の宝刀だということが分かり、過去の事実が明らかになる。これが芝居の筋である。この筋はいわば、贖罪のために死を賭けた男の謎解きであるとともに、一方、殺された男の家族にとっては、「過去の暗部が白日に曝される」構造である。

 真喜志作は、旅人が、殺した相手の素性もわからないまま、二十五年の間、人殺しの罪に苦しみ、それでいて島(村)では「生き神」として慕われて生きてきたことや、その心の葛藤を、「小説には登場しない実の息子」に語らせる。ところが観客は最初から、事の真相を観客が知っているという仕掛けの中で舞台は展開し、事の成り行きは実に劇的アイロニーに満ちている。

真実の発見と逆転は正に見事で、これはギリシャ演劇の「オイディプス王」の構造そのものである。おそらく真喜志先生が「オイディプス王」を意識して脚本を書いたとは思えない。しかし、劇的効果を念頭に置いた時、自然に「オイディプス王」の構造と同位相に至ったというのが妥当なところだろう。

 また旅人役の真喜志先生の演技が、実に味わい深い。当初一九五ニ年に「討たれの旅に」の題で上演された時も、劇評家の嘉手川重喜は役者真喜志康忠(当時二九歳)の演技のしぶさを評価し(「琉球新報」一九五ニ年、四月十九日朝刊)、また、五五年の演劇コンクールで、審査員山里永吉は群集の動きに気を配った演出と役者真喜志の芸の力を高く買っている(「琉球新報」五五年、二月ニ四日、朝刊)。

さらに沖縄を代表する演出家の幸喜良秀は真喜志康忠芸暦五〇周年記念で公演された「多幸山」(八三年八月、沖映本館)を見て「悲劇や人情劇においても氏の演技には暗さがない。「多幸山」の旅人役においても暗いじめじめした罪の重荷を背負った型にはまった悲劇的な主人公を演じたのではなく、静けさの中に、人生の悲しみを耐え抜いた人間の美しさを、その内面の深い陰影を静的に演じることによって表現したのである」(「沖縄タイムス」一九八三年、九月十三日、朝刊)と絶賛している。

「ときわ座」は第二回の演劇コンクール(五六年)で「復員者の土産」、さらに第三回の演劇コンクール(五八年)では「落城」で入選している。言うまでもなく、両作品とも作・演出・主演真喜志康忠だが、「復員者の土産」は現代喜劇で、戦争から帰ってきた男が母親を捜し求める少女を連れて帰ったことから巻き起こる夫婦の亀裂が面白おかしく描かれている。グジャー役で最高演技賞を受賞した真喜志八重子の嫉妬深い妻の役は、戦後強くなった女の本音がこぼれて痛快である。笑いの中に戦後の沖縄で多くありえたであろう家族の離別や再会など、悲喜こもごもな当時の世相が垣間見える作品である。また「落城」も按司時代を背景にした組踊の敵討もの系統の作品だが、女の教唆と色香に翻弄されて命を落とす男たちの因果応報の世界を描いている。

 この「落城」だが、この作品もシェイクスピアの悲劇「マクベス」の第一幕から二幕にかけてのマクベスとマクベス夫人のやりとり、そして実際の王殺しの場面がそっくり「落城」の乳母と真壁樽(まかびだる)、そして真壁(幸地按司の腹心)の性格づくりに影響を与えている。特に女(真壁樽)のために幸地按司を殺すに至る真壁は、ダンカン王を殺すマクベスと重なる。

そして真喜志は真壁役で最高演技賞を受賞したが、作家大城立裕は「貴兄の演技は、性格、心理の描写が沖縄芝居のワクのなかで到達した成果として記念すべきでしょう」(沖縄タイムス、一九五九年七月十日朝刊)と高く評価している。ここで見逃してならないのは、真壁樽への思いを達するために戦を仕掛け、ジチンダ城を攻め落とした幸地按司が、組踊「忠臣身替の巻」の八重瀬の按司や組踊「大川敵討」の谷茶の按司と同じ性格を付与されていることである。

つまり恋情が劇の展開に欠かせない動機になっている。また、「大川敵討」の有名な糺(ただし)の場面と類似する展開があり、真壁は満納の子(谷茶の按司の重臣)と重なる人物設定である。もちろん台詞劇ゆえに組踊の詞章の洗練された韻文のリズムはないが、糺の場に違いはない。糺と言えば「多幸山」でも二度の糺の場が真実を明らかにする劇の重要な山場になっている。

ところで真喜志先生は、「ときわ座」の座長として実に多くの作品を創作し、かつ舞台で上演している。二十年余に及ぶ巡業活動を支えたのは、正にそれらの作品あってのことであろうが、実際、今年(ニ00ニ年)二月に修了した十一年間の琉球大の講義で、何と七十一作品を取り上げている。その内、真喜志先生の創作は二十四作品だが、それでも、評判の高かった「流れ雲」や「醜女の恋」をはじめ、脚本として整理されていない作品は百をはるかに超すであろう。


整理されている作品は次の二十四作品である。

時代歌劇-- 恋の茨城、思い出の那覇港、くちなしの花

時代劇--多幸山、今帰仁城の花嫁、ぬれぎぬ、水は命、按司と美女、落城、
仇情け、辻情話、辻情話(第二話)、三悪人、浮かれ地頭、
悪を弄ぶ者、こわれたなんばん甕、首里子ユンタ

現代劇--復員者の土産、昔の恋人、てぃんさぐの花、親売ります、
老いらくの恋、合縁奇縁、大当たり一万ドル 

 歌劇「口なしの花」は、何百回となく上演された作品で、「執心鐘入」を除く朝薫の組踊四番にも確かと描かれている母と子の情愛が主題である。伊良波尹吉の「奥山の牡丹」の母探しの流れを汲む作品でもある。「奥山の牡丹」との決定的な違いは、悲劇ではなく、ハッピーエンドに終わることにある。勢頭の娘チラーと尾類(じゅり)チラーの違いはあるが、二人ともに、恵まれない下層の女の一途な愛が描かれる。そして子が母を慕う「心情」の深さも変わりはない。

真喜志先生は、「奥山の牡丹」と対照的に、息子と母親を再会させるとともに首里に旅立たせている。そこには、明治時代の琉球と戦後沖縄の世相の違いが見て取れる。戦争の修羅場を乗り越え、戦後の復興期の中でそれぞれに苦難を乗り越えてきたアンマーたちの報われたい思い、が投影されている。「首里子ユンタ」(六七年初演)も母探しを主題にした物語だが、やはり小浜島で親あんまー(現地妻)だった母親と長じて在番になった息子との再会物語である。ところで、親子の情愛・母探しが沖縄芝居に多く見られるとはいえ、息子と母親の設定は、母思いの真喜志先生を思い起こせば、先生の母に対する思いが移入されている、とも言えよう。

さて、沖縄芝居が口立てゆえに、戦前上演された芝居の多くが失われていったことは、残念だが、例えば伊良波尹吉の名作歌劇「奥山の牡丹」「薬師堂」も、真喜志先生が「ときわ座」で上演するために脚本化したため、紛失を免れたいきさつがある。その結果、琉大講義録の全七十一作品の中に伊良波作品が八作も収録された。また時代劇「武士松茂良」(松村竹三郎原作)、山里永吉の史劇「首里城明け渡し」「那覇四町気質」、上間朝久の「護佐丸と阿麻和利」、も日本語で書かれた原作はあるが、原作と方言台本にかなりの変容があり、珊瑚座などで演じられた記憶が掘り起こされている。そのほか渡嘉敷守良の「今帰仁由来記」「大新城忠勇伝」「北谷真牛」、また真境名由康の「恐ろしき一夜」「謝名親方」「王女御獄」など、親泊興照の「中城情話」「報い」、平安英太郎の「佛桑華」「義理の兄弟」など、名作が多く収録されているが、無論これらは全て真喜志先生の記憶の掘り起こしである。

 なお、琉大での収録からもれた作品には、「天妃宮(てんぴぐう)梵鐘(ぼんしょう)縁起(えんぎ)(伊集田実作)」「悟道院変化(作者不詳、珊瑚座初演)」、「アナタハンの女王蜂(仲井間元楷作)」「眠れぬ人(山川泰邦作)」などもあるが、これらの作品の上演回数は限られていたようだ。これら収録された七十一本もの台本に圧倒される一方で、失われた作品の多さに驚愕する。

また戦前から受け継いできた作品の数々を戦後に継承してきた真喜志先生の芝居への情念に敬意の念すら覚える。未収録、また消滅した沖縄芝居の台本は「乙姫劇団」や「大伸座」など、他の劇団で上演された新作を含めるとその数は軽くニ、三百作を超えるであろう。何と、文化とは、このように消滅するものなのであろうか。文化とは人間の生きた証しなのだが・・・・・。

ともあれ真喜志先生が戦後創作した芝居は、戦前、組踊を母胎に創作された歌劇や史劇などの作品を、なお新たに継承する形で創作されていることは、作品に当たれば明白だが、また同時に新しい時代の感性が封印されているのを見逃してはならない。シェークスピアやモリエール、そして日本の文学作品を沖縄芝居の様式で濾過した一連の作品は、もはや、普遍的な魅力すら醸していることを、この機械に特記しておこう。

それは、真喜志先生の芝居を大きく評価する知識人や文化人、それに同業の役者たちの顔ぶれからも頷ける。「ときわ座」の十周年記念誌(一九五九年)を見ると、琉大教授=山田有功、医師=名渡山兼一、千原繁子、作家=新垣美登子、大城立裕、船越義彰、嘉陽安男、また新聞人=池宮秀意、演劇評論家=仲井間元楷、嘉手川重喜、舞踊家=島袋光裕、役者=大宜見小太郎(大伸座座長)などが一文を寄せ、役者真喜志康忠の芸を高く評価している。

なお十週年記念公演では「浮かれ地頭」「豊年」「大新城忠勇伝」を上演、座長の真喜志は無論、真喜志八重子、小島伸太郎、池原センスル、花城精一、花城光子、玉木伸、玉木信子、平良進、平良トミ、仲嶺真栄、真喜志康三郎、らが「ときわ座」の芸を披露した。

また、役者真喜志康忠芸に心を寄せたのは、作家・上間朝久、画家・南風原朝光、末吉安久、随筆家・古波蔵保好、新聞人・豊平良顕、新聞人で評論家・新川明、芸能研究家・三隅治雄・矢野輝雄・當間一郎、詩人・仲里友豪、劇作家・謝名元慶福、など他列挙にいとまがないが、詩人・山之口獏、作家・島尾敏雄との出会いも興味深い。獏との出会いは、漠が三十有余年ぶりに帰郷した折、南風原朝光と末吉安久に案内されて、那覇劇場公演中の芝居を見にきたのが切っ掛けだという。その後、三人は日を置かず芝居を見にきて、よく楽屋で談笑したりしたという。ところである日、色紙をおねだりすると、実に楽しそうに書いてくださったとのことだが、それは獏の愛娘・泉さんの「父は書くことについては、実に厳しかった人なので、色紙とはいえ、そう容易に書かなかったと思う」ということからも、その色紙に込めた獏の心情がほの見える。

さらに、作家・島尾敏雄との出会いも特筆に値する。島尾はよく那覇通いと言っていいほど、大島と那覇を往来したが、訪沖の際は「ときわ座」の芝居を見た後、真喜志先生の楽屋でひと時を過ごし、その度に沖縄芝居の良さを誉め励ましてくれた、という。それは一九八四年八月十日の島尾から真喜志先生宛の手紙からも窺える。


今後の課題

今、私たちは、大きな課題に直面している。沖縄口が絶滅の方向に限りなく追いやられ、芝居言葉を解する人々も日々、減少している。その流れの中で、いかに過去の文化の記憶を継承し、保存し、新しい創作へつないでいくかが問われている。演出家・幸喜良秀は「芝居渡し」という彼自身の言葉で、実演家・行政・県民が一体となって継承の手立てを考え、かつ早急に実行することを提案している。


「言葉が滅びる時に何をしなければならないのか」、琉球大学名誉教授の上村幸雄先生が一九九❍年、琉球大学に真喜志先生を招聘したことは、実に歴史的に意義深い決断だったと言えよう。後にも先にも時間は残されていないのだ。七十一本の録音テープと文字化されたテキスト(芝居台本)を前にして、それは、圧倒する真喜志先生の記憶力の賜物であり、やはり余人をもってして適任者はいなかったのだと、つくづく思う。幸い、七十一本の芝居のテキストは刊行に向け動き出した。もし出版されれば、貴重な文化遺産として、活用されるに違いない。


将来の可能性は、若い「沖縄県立芸術大学」の学生やOBの実演家の方々にある。彼らが古典音楽、民謡、琉球舞踊、組踊の研鑚を土台にして、歌劇や方言セリフ劇(史劇など)に挑戦していくことが、非常に望ましい。もちろん、戦後設立された商業劇団の皆さんの健闘も期待される。またさらに伝統組踊保存会、琉球舞踊保存会、琉球歌劇保存会や俳優協会の方々、の労を惜しまぬ努力はいうまでもない。戦後、組踊の復活に尽力した真境名由康の芸をまっとうに継承した真喜志先生の組踊芸を再評価することは、これから沖縄の芸能をになっていく方々にとって、確かな指針になるはずである。沖縄の芸能の歴史を原点に戻って追体験し、言葉の壁に果敢に挑戦し、沖縄芸能をより極めることは可能だと信じたい。

真喜志先生の憂いが杞憂であれば、それに越したことはないが、一つの文化が滅びることは、一つの魂が消滅することであり、私たちは何としても、沖縄の伝統文化を守り育てなければならない。それは沖縄に生まれたものとして、もはや歴史の必然である。


                   (日本演劇学会会員・演劇学専攻)

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