とある寺の墓地で、ウルトラマンと怪獣を見た。正確には、身の丈40cmほどの石像だった。寺が置いたものではなく、墓を建てた者が、墓の横に置いたものらしい。銘を見ると、その墓は、幼くして死んだ子供のものだと知れた。子供を亡くした親の思いが偲ばれて、どこの誰とも知らぬまま、手を合わせて帰ってきた。
ただ、坊主の感覚としては、墓にウルトラマンはやりすぎである。たとえ、墓に何を供えようと、亡くなった子供は、遊べない。むごいようだが、そのことは、しっかり、胸に刻んでおくべきである。
他方で、遺骨を山河に撒いて、墓など作るなと遺言する人がある。どこの馬の骨かも判らぬ者の骨だから、それで充分だというのも、確かに、理屈ではある。しかし、もし、死者と対話をしたくなったら、どこへ行けばいいのだろうと思う。遺族は仏壇があれば良いかも知れないが、知人、友人には、行く場所がない。古い川柳にも、「女房の 知らない女(ひと)の 墓参り」というのがある。
では、お前は、どう考えているのだと問われると、にわかには答えがたい。お釈迦様は、自分の遺骨に関わるなと、弟子達に遺言したが、弟子達は、これに従わずに塔を建てた。奈良や京都の三重の塔、五重の塔は、その名残である。原始仏教教団でさえ、墓については、こんな状態だったのである。
ただ、坊主の感覚としては、墓にウルトラマンはやりすぎである。たとえ、墓に何を供えようと、亡くなった子供は、遊べない。むごいようだが、そのことは、しっかり、胸に刻んでおくべきである。
他方で、遺骨を山河に撒いて、墓など作るなと遺言する人がある。どこの馬の骨かも判らぬ者の骨だから、それで充分だというのも、確かに、理屈ではある。しかし、もし、死者と対話をしたくなったら、どこへ行けばいいのだろうと思う。遺族は仏壇があれば良いかも知れないが、知人、友人には、行く場所がない。古い川柳にも、「女房の 知らない女(ひと)の 墓参り」というのがある。
では、お前は、どう考えているのだと問われると、にわかには答えがたい。お釈迦様は、自分の遺骨に関わるなと、弟子達に遺言したが、弟子達は、これに従わずに塔を建てた。奈良や京都の三重の塔、五重の塔は、その名残である。原始仏教教団でさえ、墓については、こんな状態だったのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます