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出雲ムラの伝誦

2013-09-08 22:46:56 | 日記

十二柱神社
祭神:
神世七代の神
・国常立神
・国狭槌神
・豊斟渟神
・泥土煮・沙土煮の神
・大戸之道・大苫辺の神
・伊邪諾・伊邪冊の神
・面足・惶根の神
地神五代の神
・天照大神
・天忍穂耳尊
・瓊瓊杵尊
・彦火火出見尊
・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊
十二柱神社は「出雲ムラ」の村社。
大昔は、社殿がなく、「ダンノダイラ」(三輪山の東方1700メートルの嶺の上にあった古代の出雲集落地)の磐座を拝んだ。
明治の初めごろまで、年に一度、全村民が「ダンノダイラ」へ登って、出雲の先祖を祀り偲んだ。
一日中、相撲したり遊んだり、食べたりした(出雲ムラ伝説)
西脇弥之吉氏(当時83才)より聞く。
1964年(昭和39年7月)
奈良県桜井市出雲
野見宿禰顕彰会


「出雲ムラ」の伝誦

「野見宿禰」さん
日本の国技相撲の発祥(はじまり)であるーー当麻蹶速と相撲して勝った「野見宿禰」さんは、この「出雲」に住んでいた。
野見宿禰塚は明治16年まで、出雲村大字太田小字塔の下にあった。
「野見宿禰」さんは、相撲の神様であり、埴輪の神様であることが日本書紀に記されている。
さらに、「野見宿禰」さんは、古墳時代に殉死の悪習をやめて、埴輪に改革した名アイデアマンで、知徳の神様でもあった。

五輪塔
高さ2.85メートルの巨大な五輪塔は、鎌倉時代のもので野見宿禰塚の上にあった。
四面に単独梵字仏(20体)と、地輪に1字1石経(23)が納められている全国でも珍しい古塔である。

狛犬と、それを支える力士像
土師部(上代、土器作り部民)の子孫が土器作りの高い技能と経験を石材彫刻に活用した埴輪の味がする芸術作品である。
更に、狛犬を支える力士像(8体)は、それぞれ異なった姿形力士像で写実的に力強く表現しており、相撲と埴輪の集大成した傑作である。

「出雲ムラ」の土人形
明治のはじめ頃まで「出雲ムラ」あげて土人形作りをしておった(窯元10軒、売店30軒、当時出雲ムラ戸数110)。
当時の出雲ムラの地場産業で、ムラは大いに賑わっていた(日本古代史の周辺ーー金谷克己著より)。
その古作品が近年、相次いで発現している。

出雲人形
明治後期から水野徳造氏が、もみがら焼き製法で埴輪説話と結びつけて水野家流の出雲人形を作った。
現在、水野佳珠さんが、後継者として活躍中。

その他
いままで、未知の「出雲ムラ」の古代の姿が、次から次へと新発現してきた

奈良県桜井市出雲
野見宿禰顕彰会



野見宿禰の五輪塔

2013-09-08 22:18:07 | 日記

この五輪塔、小さく見えますが意外と大きい。

高さ2.85m、鎌倉時代の五輪塔で、もともとは野見宿禰塚に鎮座していたものという。
明治時代に土地が整備され塚がなくなった際に、現在の場所に移されたという。
4側面に単独梵字仏を彫り、また地輪には一字一石経を納める全国でも珍しい五輪塔。

相撲開祖野見宿禰五輪塔由来
垂仁天皇の御代、天皇は野見宿禰と当麻蹴速を三輪山西麓の皇居纏向珠城宮に召して相撲をとらせ、宿禰が蹴速を倒した物語は「日本書紀」に記載されてある。
その相撲跡カタヤケシは現桜井市大字穴師にあり、相撲起源の伝承地として広く世に知られている。
当出雲地区には、古代より野見宿禰の古墳と言い伝える壮大な塚があり、旧出雲の村人らは鎌倉初期に五輪塔を建立し、その祖神宿禰を氏神として長く崇敬していたが、明治十六年農地整理により塚は形を失い、墳上の塔をここに移して祀った。
物語は古墳文化時代の四世紀前半のことと推定されるが、出雲村の宿禰がこの地より珠城宮に召された伝承は、神話伝説の構成と大和王朝の成立過程、万葉集の歴史地理の調査、研究から考察して史実の反影を示す重要な存在であることは明らかである。
よってここに日本建国の功労者、相撲開祖及び土師氏の祖、野見宿禰の五輪塔由来を記し、その旧跡とこの文化遺産を長く世に伝えたいと思う。
昭和四十年十二月
財団法人日本相撲協会 相撲博物館嘱託 池田雅雄謹説

財団法人日本相撲協会というのがあるのですね。



武烈天皇泊瀬列城宮伝承地

2013-09-08 21:54:27 | 日記

武烈天皇は、小泊瀬稚鷦鷯天皇
古事記によると、長谷(はつせ)の列木(なみき)宮で10歳から8年間天下を治めたことになっています。
初瀬谷の中央、この出雲の地あたりかと考えられています。

武烈天皇泊瀬列城宮伝承地
武烈天皇は、小泊瀬稚鷦鷯天皇とあり、仁徳天皇の大鷦鷯と対の名をもつ。
これは、仁徳の皇系が武烈天皇で絶えるため、仁徳を聖帝・武烈を暴君として描くのと同じ考え方であろう。
武烈があまりの悪政非道な政治をしたから、仁徳の皇系は絶えたことを記紀では強調しているが、実際のところはわからない。
壇場を泊瀬列城に設けたとあり、初瀬谷の中央、この出雲の地あたりかと考えられている。
桜井市教育委員会