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月照寺 第8代月潭院廟

2013-09-04 21:21:21 | 日記

松平斉恒は、江戸時代後期の大名。
出雲松江藩の第8代藩主。
直政系越前松平家宗家8代。
寛政3年9月6日、第7代藩主・松平治郷の長男として生まれる。
文化元年12月23日に元服し、将軍徳川家斉から一字を賜わって斉恒を名乗る。
従四位下に叙位。
侍従に任官。
出雲守を兼任。
文化3年3月11日、父治郷から家督を譲られて藩主となった。
同日、出雲守から出羽守に遷任。
しかし父の道楽などにより、松江藩の財政は再び悪化してしまった。
また自身も茶や俳諧、書を能くした。
塙保己一に延喜式の校訂を命じた。
後年、雲州本と呼ばれる校定本であるが、斉恒や保己一の存命中には完成せず、子の斉貴の代である文政11年に完成した。
文政5年3月21日、32歳で死去。


月照寺 第二代宝山院廟

2013-09-04 21:11:34 | 日記

松平綱隆は出雲松江藩の第2代藩主。
直政系越前松平家宗家2代。
松江藩初代藩主・松平直政の長男。
慶安4年12月26日、元服。
将軍徳川家綱より偏諱を賜って綱隆と名乗り、従四位下信濃守に叙任。
寛文6年2月、父が死去したために同年4月10日に家督を継いで当主となった。
その時に次弟の近栄に3万石(広瀬藩)、三弟の隆政に1万石(母里藩)を分与している。
同年12月28日、侍従に遷任。
信濃守を止め、出羽守を兼任。
しかし父・直政の治世末期からすでに始まっていた社会不安や士風の弛緩、さらには財政悪化の兆しなどから藩内で混乱が始まる。
その始まりが重臣・香西隆清の追放事件、次いで大水害による大被害である。
これらにより藩内では混乱と財政悪化が隠し切れないものとなり、綱隆は藩札を発行することでこれを切り抜けようとしたが、逆に財政が悪化した。
しかも延宝元年には綱隆が小野隆俊の美貌の妻に横恋慕するあまり、彼に無実の罪を着せて流罪とするという事件も起こった。
後に隆俊は死んだため、松平氏はその怨霊を恐れて推恵社に彼を祀ったが、綱隆は延宝3年閏4月1日に突如として急死した。
享年45。
後を四男の綱周(改め綱近)が継いだ。
あまりに突然の死であったため、隆俊の亡霊に殺されたと噂されたと言われている。


月照寺 第九代直指庵廟

2013-09-04 20:56:56 | 日記

松平斉斎は出雲松江藩の第9代藩主。
直政系越前松平家宗家9代。
藩主在任中は松平斉貴を名乗った。
文化12年3月18日、第8代藩主・松平斉恒の長男として生まれる。
初名は直貴。
文政5年3月、父の死により同年5月23日に家督を継いで藩主となった。
文政9年2月25日、元服し、将軍徳川家斉の偏諱を賜わって斉貴に改名、藩主在任中はこの名を名乗る。
従四位下に叙位。
侍従に任官。
出羽守を兼任。
しかし幼年のため、家臣の塩見宅共と朝日重邦の後見を受けた。
斉貴の代の松江藩は天保の大飢饉をはじめとする天候不順や水害、さらには領内では火事など天災が相次ぐ多難の時代であった。
この間、天保9年12月16日、左近衛権少将に転任。
出羽守如元。
ところが斉貴は幕府に12万両もの献金を行なった上、相撲や鷹狩などに興じて藩財政を極度に悪化させた。
また、弘化4年9月23日、従四位上に昇叙。
左近衛権少将出羽守如元。
嘉永6年9月5日、藩財政が悪化したため遂に家臣団の間で斉貴廃立の動きが表面化して斉貴は強制的に隠居され、美作津山藩から迎えた婿養子の定安を新たな当主として擁立したのであった。
隠居後は諱を斉斎に改め、文久3年3月14日、49歳で死去。

月照院 松平綱近廟

2013-09-04 20:32:38 | 日記

第3代隆元院、松平綱近廟

松平綱近は出雲松江藩の第3代藩主。
直政系越前松平家宗家3代。
第2代藩主・松平綱隆の四男。
別名、綱通。
延宝元年12月21日に元服し、父同様、将軍徳川家綱より偏諱を賜い、綱周を名乗り、従四位下甲斐守に叙任。
延宝3年4月、父の死去により同年5月晦日に家督を継ぎ、諱の表記を綱近に改める。
同年6月4日に出羽守に遷任。
同年23月36日に侍従兼任。
財政が極度に悪化していたため、大梶七兵衛による開拓や製鉄・産馬の奨励、倉崎権兵衛による楽山焼の創始など様々な改革を行なったが、あまり効果は無かった。
このため、「祖父直政には劣なるべし」と史書で批判されている。
晩年は眼病を患ったうえ、息子の早世などもあって弟の近憲を養嗣子として迎えた上で家督を譲って宝永元年5月29日に隠居し、大内記に遷任。
宝永6年11月15日に51歳で死去した。