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松平斉恒は、江戸時代後期の大名。
出雲松江藩の第8代藩主。
直政系越前松平家宗家8代。
寛政3年9月6日、第7代藩主・松平治郷の長男として生まれる。
文化元年12月23日に元服し、将軍徳川家斉から一字を賜わって斉恒を名乗る。
従四位下に叙位。
侍従に任官。
出雲守を兼任。
文化3年3月11日、父治郷から家督を譲られて藩主となった。
同日、出雲守から出羽守に遷任。
しかし父の道楽などにより、松江藩の財政は再び悪化してしまった。
また自身も茶や俳諧、書を能くした。
塙保己一に延喜式の校訂を命じた。
後年、雲州本と呼ばれる校定本であるが、斉恒や保己一の存命中には完成せず、子の斉貴の代である文政11年に完成した。
文政5年3月21日、32歳で死去。