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野見宿禰塚跡2

2013-09-08 23:43:24 | 日記

暫く探して、田んぼの中に塚跡の碑を見つける。
時間は9時2分。

桜井市の田園の畦道に碑「野見宿禰塚跡」が建っています。
夏場にはホタルが飛び交うということです。
野見宿禰は天穂日命の末裔で、国技相撲の開祖、埴輪起源説話の土師連の祖、菅原道真大江朝臣の先祖です。
明治16年まで直径20m以上の塚と五輪塔(十二柱神社へ移す)がここにあったがその後、取り壊され、塚の中にあった朱を初瀬川に捨てたら三日三晩川が赤く染まったそうです。
塚からは、親子勾玉(子持勾玉)や埴輪、土器等が出土したと云われています。
また昭和42年には縄文土器や弥生式土器、須恵器などが出土しているため、縄文の時代から人々が住んでいたと推察されるのです。
相撲は、垂仁天皇の時代、「當麻蹶速」と「出雲の野見宿禰」が初めて天覧相撲をしたのが始まりといわれています。

因みに後ろに見えてる山は三輪山です。

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2013-09-08 22:59:06 | 日記
相撲開祖野見宿禰顕彰碑があります。

野見宿禰は、土師氏の祖として『日本書紀』などに登場する人物である。

天穂日命の14世の子孫であると伝えられる出雲国の勇士で、垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)(『日本書紀』では「捔力」に作る)をとるために出雲国より召喚され、蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えたという。
また、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、土師臣の姓を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなったという。
『播磨国風土記』によると、播磨国の立野(現在の兵庫県たつの市)で病により死亡し、その地で埋葬されたとある。

ところで、埴輪創出についての考古学的な知見からは、これは伝説にすぎないとされているが、こうした伝説も土師氏と葬送儀礼との関係から生まれたものであろうとの説がある。
それによると、まずその名前は、葬送儀礼の一環としての古墳の築営に際して、様々な条件を吟味した上での適当な地の選定ということが考えられ、「野」の中から墳丘を築くべき地を「見」定めることから「野見」という称が考案されたのではないかとし、次に相撲については、古墳という巨大な造形物を目の当たりにした人々が、これを神業と見て、その任にあたった土師氏の祖先はさぞかし大力であったろうとの観念に基づくものではないかと見る。
そして、土師氏が古墳造営を含めた葬送儀礼全般に関わったことから、これを死の国と観想された出雲国に結びつけ、その祖先をあるいは出雲出身としたり、あるいは都と出雲の中間である播磨国に葬られたとしたのではないかと見、最後に火葬の普及などの変遷を経て古墳時代が終焉を迎える頃、その技術が不要とされた土師氏が、自らの祖先の功業を語る神話として大事に伝承したものであろうと説く。
もっとも以上の説の当否はともかくとして、少なくとも野見宿禰が祖先として土師氏に崇められたことは確かである。


出雲ムラの伝誦

2013-09-08 22:46:56 | 日記

十二柱神社
祭神:
神世七代の神
・国常立神
・国狭槌神
・豊斟渟神
・泥土煮・沙土煮の神
・大戸之道・大苫辺の神
・伊邪諾・伊邪冊の神
・面足・惶根の神
地神五代の神
・天照大神
・天忍穂耳尊
・瓊瓊杵尊
・彦火火出見尊
・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊
十二柱神社は「出雲ムラ」の村社。
大昔は、社殿がなく、「ダンノダイラ」(三輪山の東方1700メートルの嶺の上にあった古代の出雲集落地)の磐座を拝んだ。
明治の初めごろまで、年に一度、全村民が「ダンノダイラ」へ登って、出雲の先祖を祀り偲んだ。
一日中、相撲したり遊んだり、食べたりした(出雲ムラ伝説)
西脇弥之吉氏(当時83才)より聞く。
1964年(昭和39年7月)
奈良県桜井市出雲
野見宿禰顕彰会


「出雲ムラ」の伝誦

「野見宿禰」さん
日本の国技相撲の発祥(はじまり)であるーー当麻蹶速と相撲して勝った「野見宿禰」さんは、この「出雲」に住んでいた。
野見宿禰塚は明治16年まで、出雲村大字太田小字塔の下にあった。
「野見宿禰」さんは、相撲の神様であり、埴輪の神様であることが日本書紀に記されている。
さらに、「野見宿禰」さんは、古墳時代に殉死の悪習をやめて、埴輪に改革した名アイデアマンで、知徳の神様でもあった。

五輪塔
高さ2.85メートルの巨大な五輪塔は、鎌倉時代のもので野見宿禰塚の上にあった。
四面に単独梵字仏(20体)と、地輪に1字1石経(23)が納められている全国でも珍しい古塔である。

狛犬と、それを支える力士像
土師部(上代、土器作り部民)の子孫が土器作りの高い技能と経験を石材彫刻に活用した埴輪の味がする芸術作品である。
更に、狛犬を支える力士像(8体)は、それぞれ異なった姿形力士像で写実的に力強く表現しており、相撲と埴輪の集大成した傑作である。

「出雲ムラ」の土人形
明治のはじめ頃まで「出雲ムラ」あげて土人形作りをしておった(窯元10軒、売店30軒、当時出雲ムラ戸数110)。
当時の出雲ムラの地場産業で、ムラは大いに賑わっていた(日本古代史の周辺ーー金谷克己著より)。
その古作品が近年、相次いで発現している。

出雲人形
明治後期から水野徳造氏が、もみがら焼き製法で埴輪説話と結びつけて水野家流の出雲人形を作った。
現在、水野佳珠さんが、後継者として活躍中。

その他
いままで、未知の「出雲ムラ」の古代の姿が、次から次へと新発現してきた

奈良県桜井市出雲
野見宿禰顕彰会