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17時52分、境港台場跡の駐車場に車を入れる。
この向かいのお食事処峰で食事する為。
峰には何度か来ている。
境港には沢山の食事処があるのでそういう所を回るのも結構楽しい。
因みに隣には剥製の水族館があり、結構面白いのでお勧めです。
台場跡へは何回も来ているが、初めて登る。
境港台場跡は、幕末文久3年に築かれた鳥取藩台場8カ所の一つである。
ふつう「お台場」と愛称される。
その跡はいまも現地に残り、ほぼ旧時の遺構を保っている。
史跡として貴重な存在である。
幕末の攘夷思想の高まりを基盤とし、直接的には文久3年6月、大坂天保山の砲台から英船を砲撃した鳥取藩の方針により、急拠藩内の重要港湾に台場が築造された。
因幡では浦留・浜坂・加路の3か所、伯耆では橋津・由良・赤崎・淀江そしてここ境の8か所である。
その中でも規模が一番大きく、重装備の台場がここ境お台場であった。
当時この地は上道村の支村鼻であった。
台場の敷地約14,300?、原形は敷幅40m、高さ約7m、上部に8基の砲座を有し、3段式台形土塁を主体とした広大な台場であった。
備砲は御銘入鉄造5寸径台場砲5挺、同18斤砲2挺、6斤砲1挺計8挺。
砲台下土塁の盛り砂は、福定村以北の弓浜海岸や鼻東方の沖浅瀬から運び、被覆土は高麗山麓の黒土を淀江から船で運んだ。
基盤の石と山土とは、松江藩に交渉して対岸の島根半島からわけてもらっている。
工事には会見郡の農民延べ45,300余人が、動員され、ほぼ一年ばかりの短期間に構築された。
守備は構大庄屋で引きうけ、近村の農民で組織した農兵が守り、民兵銃取立役として鳥取藩士富山敬蔵があたった。
いま境一中のある所(上道町)は、その時の農兵訓練所であった。
境お台場の使命は明治維新とともに終わったが、明治30年に敷地1町4反余は代金505円余で境町へ払い下げられ、以降台場公園として市民に親しまれている。
境お台場跡の新しい施設活用が引続いて今日に至っている。
台場の東北隅にある灯台は、明治28年に開設された山陰最初の灯台を復元したものである(平成3年復元)。
昭和9年廃灯されるまで、港の入口を守った海の交通遺跡である。
また、東中央部に建つ慰霊塔は、昭和2年8月の連合艦隊大演習のさい二重衝突事故に遭難した駆逐艦葦と蕨の殉職者たちの弔魂の碑であり、昭和3年に地元の人たちによって建てられた。
境お台場は、文久3年に構築された由緒により「文久山砲台」とも呼ばれたという。
南の土塁跡には、明治40年の皇太子(大正天皇)山陰行啓記念植樹の黒松林が育ち、また300本を越す桜も植樹され、四季を通じて市民の憩の場となっている。