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月照寺 大亀伝説

2013-09-05 21:34:55 | 日記

月照寺で有名なのはこの大亀の石像。
この石像、写真で見るとそれ程大きくは見えませんが、実は私(身長170センチ)が手を伸ばして亀の頭を撫でるのがやっとです。

~人食い大亀の伝説~
城下町、松江をこよなく愛した小泉八雲ことラフカディオ・ハーン。
彼は妻の小泉セツが、夜な夜な語り聞かせる怪談を数多くの著書に残した。
ここ月照寺にいる大亀の石像もハーンの随筆に登場する。
このような話で・・・・。
松平家の藩主が亡くなった後、亀を愛でていた藩主を偲んで大亀の石像をつくった。
ところが、この大亀が夜になると城下で暴れ人を食らうようになった。
困り果てた住職が深夜、その大亀に説法をすると、大亀は涙を流して住職にこう頼んだという。
「わたしにもこの奇行を止められません。
貴方にお任せいたします」。
そこで亡くなった藩主の功績を石碑に彫り込み、その石碑を大亀の背中に背負わせてこの地に封じ込めたと云う。
また、こんな口承も伝わっている。
1760年頃、月照寺の池に住んでいた亀が、夜になると妖力を使って大きくなり、寺を抜け出しては城下の子供をさらって食い続けた。
それを知った寺の住職は大きな亀の石像を造らせて、かつての藩主の墓所に安置したところ、池の亀は悪さをすることが無くなったと云う。

~頭を撫でて長寿祈願~
月照寺の境内で、無気味な怪談が伝わる大亀の石像を見つけて驚いた。
本当に大きいのだ。
こんな巨体な亀が夜な夜な暴れるとは、城下の人々はさぞや恐怖に震えたことだろう。
背中に背負っている石碑は、いわば大亀のパワーを抑える封印といったところ。
奇妙な格好であるが、何故か畏敬の念が起きてくる。
月照寺は松江藩松平家の菩提樹で、9代目までの御霊が葬られている。
大亀を封印している石碑は、不昧公として知られる7代目治郷が、父である6代目宗衍の長寿を祈願して奉納したものだ。
石碑に使われた石は出雲市平田の山奥から伐り出し、イカダに乗せて宍道湖と堀川経由して運んだそうだ。
月照寺の山門まで、わざわざ堀を削ってイカダを引き入れた跡が現在も残っている。
父の長寿を願う息子の祈念を宿したこの大亀は、今では頭をなでると長生きができるとされる。
大亀が首を伸ばした口先は、大人の背丈ほどもあるので、頑張って腕をあげないと頭まで届かない。
手を伸ばして撫でようとしたが、今にも動き出しそうな気がして思わず「南無阿弥陀仏」と呟いてしまった。
近くには、大亀が水を飲みに来たと伝わるハス池もあったが、こちらもひっそりとしていた。

~目撃される人魂~
月照寺は6月になると、あじさいが3万本も咲き誇ることから「あじさい寺」と呼ばれて親しまれている。
シーズンともなると多くの観光客が訪れて賑わう。
とは言っても平日はあまり人の気配もなく、不気味さが先に立つ。
とくに古い石灯籠がずらりと並ぶ場所は、妙な息苦しさを感じるくらいだ。
聞くところによると、夜中になると人魂がよく目撃されるらしい。
月照寺の名のように月光に照らされる満月の深夜、石の大亀は封印を解き放され、のそのそと境内を動き出す。
そんな光景も目に浮かぶ古刹である。


月照院 第六代天隆院廟

2013-09-05 21:24:38 | 日記

松平宗衍は、出雲松江藩の第6代藩主。
直政系越前松平家宗家6代。
享保14年5月28日、第5代藩主・松平宣維の長男として生まれる。
享保16年10月13日、父・宣維の死により家督を継いだ。
この頃、松江藩は財政が悪化し藩政も不安定化していた。
このため藩主となった翌享保17年にはイナゴの大群の襲来によって農作物が大被害を受け、19万石の所領で得ることができた石高はわずか12万石程度に過ぎず、しかもそれにも関わらずに家老たちは藩主が幼年であることをいいことに重税を強いたため、享保大一揆が発生してしまった。
このため、成長した幸千代は延享4年に家老による合議制を廃止し、親政を行なうこととしたのである。
この間、寛保2年12月11日、元服し、将軍徳川吉宗から一字を賜わり、宗衍と名乗り、従四位下に叙位。
侍従に任官。
出羽守を兼任。
また、財政改革のため、小田切尚足を登用した。
尚足は財政再建のために特産品の専売化、泉府方の新設、そして義田政策を行なうこととしたのである。
ちなみに泉府方とは藩直属の金融機関による土地を抵当とする資金調達法である。
専売化も泉府方政策もある程度の成功を収め、一時期は財政再建成功とまで思われた。
ところが改革の最中に天災が相次ぎ、さらに藩内で改革に対する反対派が力を盛り返したため、宝暦2年に改革は停止されて尚足は失脚してしまった。
宝暦5年11月26日、左近衛権少将に転任。
出羽守如元。
そして宝暦10年、幕命により比叡山山門の修築などを命じられて遂に藩財政は破綻状態となってしまったのである。
このため、周囲からは「雲州様(松江藩の藩主)滅亡」とまで噂されたと言う。
明和4年11月27日、改革に失敗した失意から次男・治郷に家督を譲って隠居した。
これは、改革失敗の責任を家臣団から問われての処置だったとも言われている。
同日、出羽守から主計頭に転任。
安永6年11月28日、入道して南海を号す。
天明2年10月4日に死去。
享年54。


月照院 第四代源林院廟

2013-09-05 21:08:29 | 日記

松平吉透は、出雲松江新田藩主のち松江藩第4代藩主。
直政系越前松平家宗家4代。
寛文8年7月16日、第2代藩主・松平綱隆の五男に生まれる。
元服の際には、第3代藩主となった兄の綱近から偏諱を与えられて近憲と名乗る。
また、元禄14年10月25日には綱近から1万石を与えられて分与されて松江新田藩主となり、同年12月6日には従五位下民部少輔に叙任。
しかし、松江藩主の兄には世継ぎとなるべく子が夭折して居らず、綱通自らも眼病を患ったため、元禄17年2月23日、松江藩の世継ぎとなった。
宝永元年5月29日、兄の隠居に伴い家督を相続。
同年6月5日に出羽守に遷任。
同年11月13日、将軍徳川綱吉から偏諱を賜り、近憲から吉秀と改名。
さらに従四位下に昇叙し、侍従を兼任した。
しかし家督相続から1年後の翌宝永2年9月6日、江戸で死去した。
享年38。
後を次男の宣維が継いだ。