いつもいいネクタイを締めておきたい、と思うようになったのはほんのささいな出来事がきっかけだった。
サラリーマンになって間もないころ、NTTからヘッドハンティングされてきた東大卒の上司と昼食をとりにオフィスを出た。
すると南新宿のビル風にあおられて上司のネクタイが裏返ったのだが、サンローランのものだった。
イヴ・サンローランだからというよりは、こういう風に他人に見られてしまうのだということのほうが、強く印象に残った。
以来、僕は安月給をやりくりして少しずついいネクタイを買い揃えて行った。
長い長い年月の間に、いいコートをクロークへ預けると一番取り出しやすい位置に置いてくれることや、いい車を乗りつけると一番出やすい駐車スペースへ誘導してくれることも知った。
世の中はそういうものなのだと。
40歳を過ぎたある日、出張で前夜泊まったビジネスホテルから電話が入った。
クローゼットの床にネクタイが落ちていたのですが、井浦様のものではありませんか?
ああ、ハンガーに掛けていたのが滑り落ちたのに気がつかなかったのかもしれません、たぶんランバンですよね?
さようです、高価なお品物ですのでお困りではないかと思いご連絡差し上げました。
映画「あの胸にもう一度」でのマリアンヌ・フェイスフルの衣裳がランバンだと知り、好んで買っていたのだが、いいものはこうして戻ってくるのか、と少し嬉しくなった。
風で裏返ると。