長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

星なき夜の行軍

2011年07月07日 23時59分00秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 新暦の7月7日は七夕じゃない。
 「ママ、お星さま見えなかったね…」とつぶやく子どもたちが不憫なので、無理な年中行事はしないほうがいいんじゃないかなァ…と思う。
 それに、これこれこういうわけで、七夕は旧暦でやることにしましたョ、と教えるほうが、子どもたちにも物事の成り立ちってものが分かって、いいのではないだろうか。
 今あることは、突然、昨日や今日できたことじゃない。来歴というものがあるのだ。一夜にして出来たのは、秀吉くんの努力とハッタリによるお城ぐらいなもので。
 ♪昨日はきょうの昔なり…。ご存じ長唄『二人椀久』にもございます。

 今日は旧暦だと、平成廿三年六月七日。
 西日本一帯が梅雨末期の大豪雨に襲われていた西暦2011年、私は相州から武蔵野に小返ししていたが、1582年、羽柴秀吉はやはり暴風雨のなか、備中高松城から大返しの最中だった。
 運命の天正十年六月二日、わが心の星・信長くんは山城国に果て、どういう天のめぐり合わせでか、誰よりも早くその報を手に入れたサルちゃんは、四日には水攻めしていた高松城主の腹を切らせて毛利と講和し、五日、撤収して明智光秀を討つために畿内に向かった。
 七日。430年前の水無月七日、秀吉軍は姫路城まで戻ってきて、そのまま九日まで滞在し、兵力を養生した。
 岡山近郊の西北西にある備中高松城から播磨国・姫路城までだいたい80キロ。どこまで続くぬかるみぞ…とうそぶく間もなく彼らは行軍した。

 それにつけても、なんか怪しい。こんなに手際がいいということは、準備していた、つまり予見していたということだ。第一、信長くんだって、秀吉に呼ばれなければ本能寺に逗留することもなかったのだ。

 光秀が自分より格下の秀吉と結ぶことはまずあり得ない。でも秀吉は、こうなることを、きっと知っていたに違いない。いや、ひょっとすると、光秀本人がそうと気付かないうちに、無意識下に焚きつけたぐらいのことはしたのじゃあるまいか。
 天下を取ったあとの秀吉が家康に対する気の遣い方もおかしい。そこまで…というぐらい配慮している。秀吉が知っていたことを家康も知っていたのではないだろうか。光秀の係累を重用したのは、秀吉への無言の圧力なのではないのか。

 民主主義の現代でさえ、政治は腹の探り合い、化かし合いだ。すべてが水面下での根回し手回しによって決まっている。
 福岡は中洲のbarで、ジャンケン最強の名物ママさんに、三本勝負を手もなくストレート負けしてしまう素直な私には、もはや想像だに及ばぬ領域である。

 本能寺の変よりも、私はそのあと、山崎の合戦に至るもろもろの事どもに、ものすごく作為的な違和を、感じるのである。
 星の見えない夜には、地上では有象無象がうごめいて、歴史の闇を生みだしているのだ。
コメント
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