長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

ひこにゃん警報 デッドエンド

2011年04月22日 03時00分00秒 | 旧地名フェチ
 3.11のショックも冷めやらぬ2週間ほどのちの3月末。西の方へ傾く午後の光を浴びながら、私は千代田城の濠端を歩いていた。
 気象庁前の内濠では、オシドリが巴の渦を巻きながらぐるぐる回っている。やっぱり、城の石垣とは美しいものだ…と、ひとしきり感じ入りながら、和田倉門から東京駅のほうへ曲がろうと歩を進めると、あろうことか、大手門すぐわきの石垣が、10間ほども崩れている。
 城の石垣が破れているのを見たのは、10年ほど前だったか、泉州・岸和田城に行って以来だ。たしか、台風で、室生寺の五重塔が、杉木立に壊された年のころだった。
 城壁や天守が無くなっても、石垣だけは堅固に残っている印象があったので、私はちょっと、うろたえた。
 いよいよ、国破れて山河あり…の想いを深くしながら、何となくうつむき加減になって、でも大手門に来たのは久しぶりなので、空を見上げた。隅櫓に陰を落とす日輪がまぶしい。
 …それで、安政の大地震のことを思い出した。

 1867年(慶応三)の大政奉還から遡ること12年ほど前の、やはり卯歳。安政二年(1855)、江戸に大地震があった。
 そのころ、時の政府は大火に備えての防火対策一本遣りで、とにかく建築物の壁を厚く、屋根を頑丈にするような政策を進めていたから、自身の重量による倒壊家屋はおびただしく、圧死者は2万5000人にものぼったという。
 猫に導かれ災厄を免れた二代藩主直孝から200年ほどのち。彦根の殿様も、安政五年に粛清の嵐・安政の大獄をやらかした、十五代藩主・掃部頭(かもんのかみ)直弼へと、代を重ねていた。彼が大老になる、3年ほど前。
 黒船が来た嘉永六年(1853)、日本はついに幕末になって、一方的に開国を迫る外国との付き合い方をどうするかで国体が揺らいでいたのだが、地面もまた、揺れていた。

 本丸から西北側一帯は武蔵野台地。東南側は日比谷入江の堆積層。霞が関の坂と九段の坂を歩いてみれば実感できると思うが、同じ江戸城の周りとはいえ、地盤の違いがあったから、諸大名屋敷の被害も、場所によってかなりの差があったらしい。
 すわ一大事と、お城に駆け付けたある旗本が、常のように大手門から登城しようとしたが、大手門正面の酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷が炎上していて近づけなかったという。

 この酒井雅楽頭は、井伊直弼と並び、江戸幕府二大大老として名を残す、酒井忠清の子孫である。
 酒井雅楽頭忠清は、四代将軍家綱のもとで絶大なる権勢をふるい、山本周五郎『樅の木は残った』、歌舞伎『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』のモデルとなった「伊達騒動」の一因を握る、悪のキーマンとして描かれる。

 大手町1丁目。いまある東京消防庁本部から、三井物産の本社がある辺り一帯が、酒井邸。
 現在、井伊直弼が襲われた桜田門外に治安の要・警視庁があり、安政大地震で炎上した酒井邸跡に東京消防庁がある。何となく因縁めいて、興味深い。

 一方、井伊直弼との因縁ただならぬ小石川の水戸藩邸は、やはり揺れに揺れて、賢臣・藤田東湖、戸田蓬軒の両田を地震によって失う。九代藩主徳川斉昭は、ますます怪気炎を吐きわが道を爆走。この大地震が、ひょっとすると、幕末の水戸藩のターニングポイントだったのかもしれない。

 そうして、和田倉門の正面に屋敷のあった老中筆頭で水戸家寄りの阿部伊勢守正弘も、安政大地震で甚大な被害を被り、わずか2年後に病没。
 それと入れ替わるように台頭した井伊大老も、安政七年(1860)三月三日に暗殺され、それから半月後の三月十八日、安政は万延に改元される。

 明治以降、一世一元となったが、それ以前は何かにつけて改元された。天変地異をも、天下を治める者の至らぬのが原因とされたから、いにしえの天下人は責任重大だったのだ。
 公武合体策により、十四代将軍家茂に降嫁した和宮の兄である孝明天皇が、在位した1846年から20年の間、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応と、元号は七たび、変わった。

 面白いことに、日本には、辛酉(しんゆう・かのととり)の年には天命があらたまる、つまり革命が起きて王朝が変わる、という考え方があった。その災厄を逃れるため、改元が行われたのである。
 それゆえ、菅原道真公が大宰府に左遷された901年に始まる、醍醐天皇の延喜の御代から60年ごとの辛酉の年は、戦国の騒乱の時などを除いて、必ず改元されているのだ。
 この思想は、明治になる前の1861年の文久元年の改元を最後に、901年から辛酉の年は17回マイナス始まりの1回目、掛けることの60年で、960年もの間、続けられてきたのである。お手元に日本史年表がある方はお確かめください。
 肌が粟立つような、ビックリさ加減である。これというのも、日本が二千年もの間、たった一つの皇統を頭に戴いて国を形づくっていたという、この地球上どこにも類を見ない形態の国であったからだろう。

 しかしまあ、こうも閉塞感が世の中を覆い尽くすと、ここらで、パーッと改元してみますか、人心刷新のためにも…という方策が分からないでもない。

 一昨日、4月20日は旧暦では平成廿三年三月十八日で、ざっと百五十年ほど前の日本では、そんなことがあったのである。
 安政大地震は卯歳に起き、江戸市中が瓦解した。そしてさらに12年後の卯歳、慶応三年(1867)、江戸幕府が崩壊する。
 そしてまた2011年の平成23年の卯歳、東日本大震災が起き、大地のみならず、日本の国の在りようも揺れている。

 安政七年に、井伊家にひこにゃん警報があったら、歴史はどう変わっていたのだろう。
 こうして打っているキーボードはローマ字変換だが、それどころか、もう全然違う、英字だけの言葉を使う国になっていたのかもしれない。…平成になって加速する欧米化は、もうひとつの別の未来では、百年がところ、進んでいたのかもしれない。
 ねぇ、どうなのよ…と、ここしばらくぶら下げられて、やや面長になったひこにゃんのあごの長さを睨んでみた。
 ひこにゃんは、ぴくともしない。


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2 コメント

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歳月 (おば)
2011-04-27 23:37:54
柳条湖から8月15日までが14年間でしょ? 黒船から大政奉還までも14年間。いまどきの失われた十年か二十年って、けっこう長いのよね。
それにしても、おしさんの文章を読んでいると、なぜか純邦楽を聞きたくなります。長唄から清元へ行って、最後に新内まで行きます、このごろ(笑)。「四谷で初めて会うたとき」なんて、14年ぶりぐらい? しばらくぶりで聞いたわよ。
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時と土岐はかけ言葉。 (徳桜)
2011-04-29 06:34:23
時間って不思議なもので、短いのか長いのか、よく分からなくなります。
還暦六十年って長いようで、でも年表見てるとあっという間ですし。
古城にたたずんだとき、ふと頭の中をよぎるメロディーというのは、そのときの心的条件によるものが多く、20年近く前に傷心で丸亀城に訪れたとき、三橋美智也の「古城」がついと、口に出ました。
子供のころ、よく「明治は遠くなりにけり」という言葉を聞いて、不思議に思っていたものですが、今なら分かる。「昭和は遠くなりにけり」。
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