長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

デライラの日

2011年03月25日 11時33分00秒 | やたらと映画
 心がかつえたので、音楽がききたいと思った。
 美しいものを見れば心いやされるものだが、ここしばらくというもの、目から入ってくる情報はあまりにも荷重で、視覚の世界から遮断されたいと思ったのだ。
 ふと、ここ10年以上聞いていなかったCD群が目につく。
 『南太平洋』のサウンドトラック。……。名曲ぞろいだけれど、この場合、シャレにならない。小林旭ベスト4枚組。『恋の山手線』は、歌詞を想い出すのに脳内がますます興奮・活性化するような気がしてやめた。
 エノケン。神楽坂はん子。森繁久弥の軍歌と流行り唄集。「銀座の雀」をシャンソンぽく唄うのもいいが、多少、癒されつつ、元気にもなりたい。
 やっぱり、気分を変えるには洋楽だ。それも、理由もなく毎日が明るく楽しく思えたころ聴いた曲。そしてまた、あまり浸りすぎずに済む、明朗快活な曲。
 小手調べにZep。黙祷するによい瞑想曲もあり、そののち「胸いっぱいの愛を」で溌剌とする作戦だったが、ラストの名曲「stairway to heaven」で、すっかり、ヒース生い茂る荒野に迷い込み、仙人化してしまいそうになったので、2回リピートしてやめた。

 現実世界に舞い戻るためには……おぉ、そうだ! トム・ジョーンズのベストアルバムが、あるじゃないか。
 これは、たしか前世紀の終わりごろ、映画『マーズ・アタック!』公開時に、再リリースされたCDだ。
 そうだった、あのとき、『マーズ・アタック!』の試写に行った同僚が、「この映画の意味がわかんない!」と、激怒して帰ってきたのだった。
 いーじゃないか、いいじゃないか。大ウソの世界はバカっ噺でいいじゃないか。虚構の世界に変な理屈をつけると、壮大な話が世話場になる。

 『マーズ・アタック!』を想い出すとき、私にはウェルズの『宇宙戦争』より、フレドリック・ブラウンの『火星人ゴーホーム』が連想される。
 中学から高校にかけて、ブラウンとブラッドベリは私にとっての両Bで、(ここらへん、竹中半兵衛・黒田官兵衛の両兵衛にかけてあります…緊張をほぐすにはまず、言葉遊びから!)早川書房、東京創元社から出ていた文庫本、晶文社の叢書など、翻訳された両所の著作本は、全部持っていた。
 ブラウンの簡潔でシニカルな文体は、清少納言に相通ずるものがある。
 ならば、ブラッドベリは紫式部か…というと…ううむ、あの類稀なる叙情性、ブラッドベリはブラッドベリだよね。色事から遠ざかった、叶わぬ恋への追憶、とでも申しましょうか。積極的な源氏物語とはちょと違う。

 トム・ジョーンズの全盛期、私は小学生だった。そのころ大好きだったルシール・ボールの「ルーシー・ショー」と同じように、当時、彼の冠番組があったように記憶している。60年代後半のオシャレなバラエティ番組は、すべて欧米伝来のショウ形式だった。
 いま思えば、杉良のような、中条きよしのような、小学生には分からない、大人のおねーさん方を覚醒させずにはおかない、艶物系大スターだったのだろう。
 しかし、こうしてまた、改めて聴きかえすと、007や、ピーター・オトゥールの顔が浮かぶ『何かいいことないか、仔猫ちゃん』のテーマ曲もあるし、知らない曲はひとつとしてない。
 一曲一曲が、今はもうこの地上の、どこにもないのだけれど、慣れ親しんだ生家のそばの商店街の軒先を、通り過ぎるかのように、なつかしい。
 そしてまた、70年代の日本の昭和歌謡に、多大な影響を与えていることがわかる。
 何より歌詞も唄い方も、骨太でストレートで直線的で、実にいい。

 …トム・ジョーンズは、『万葉集』だ。
 心の叫びを、せつせつとダイナマイツにうたいあげる。自分の真情を吐露することに終始するので、押しつけがましくない。人生に立ち向かっていこう、というエネルギーが沸々と湧いてくる、愉快なウキウキ感を増殖させる音楽だ。

 収録1曲目は「よくあることさ」…。そう言って、肩を叩いて軽く慰めてほしい。

 火星人の脳髄を直撃した、北米大陸版ヨーデルのような、コヨーテの遠吠えのような、あの秘密兵器は、ずっと、トム・ジョーンズの歌だと思っていたが、違うのだったかしら。
 そういえば、このCDを買った時も、ああ、あの曲は入ってないんだ…と軽く落胆したのだった。たぶん、私の思い違い。
 てっきり、トム・ジョーンズが地球の救世主なのだとばかり思っていたのだ。ターザンの雄叫びとはまた違う、のびやかなトム・ジョーンズ節が、火星人の延髄を破壊したのだ…と思っていた。
 もしそうなら、すごい! ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』の少年が、金切り声でガラスを割ってしまう、あの奇声に匹敵する破壊力だ。

 邦楽界でこの手の武器を有する人物はたったひとり。私の記憶の中の、清元志寿太夫お師匠さんしかいない。
 あるとき、新橋演舞場3階の菊廼舎の前で、ぼんやりと幕間をやり過ごしていたら、スタスタと、志寿大夫お師匠さんが歩いてきた。むき身の茹で卵のように、つやつやしていた。私は思わず会釈した。すると、志寿のお師匠さんはうれしそうににっこりしながら、そのまま菊廼舎に入っていった。
 そのとき観た芝居が何だったのか、さっぱり想い出せないのだが、あの風呂上がりのように血色のよい志寿太夫のにこやかな顔は、忘れられない。九十を過ぎても、声量はすごかった。ご長命の舞台を、最期まで看取ってあげなければ、という気持ちを観衆に与えるお人柄でもあったのだ。
 清元は、幕末の世相を色濃く映し出しすぎたあまり、退廃的かつ煽情的すぎるという理由で、お上から上演禁止処分を食らった。ほとんどすべてが心中物だ。そしてまた、あの超絶技巧的高音からなだれ込む節回し。
 世の中を破滅に導く…「滅びの笛」。ある意味、ダイナマイツなパワーを秘めた音曲なのだ。間違いない。

 20世紀に夢見ていた未来が、この手の上に出現してしまった21世紀。そして災厄も、SF映画のスクリーンで、いつか見た風景のままに訪れた。
 そうして、その先の未来は?
 小学生のころ想像していた、真空管コンピュータによって導き出される未来は進化を止めて、それにとって代わった半導体コンピュータが、新しい世界をもたらした。
 そんなふうにまた人類は、新しい未来を夢見ることができるのだろうか。

 …トム・ジョーンズは「letter to Lucille」を唄っている。
 歌詞の内容はほとんど分からない…でも、雨上がりに、東の空に虹を見たような気がした。
 今日どんなことがあっても、私は、明日を迎えることができるぞ…というような。



コメント (5)
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