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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

高校演劇

2022-08-03 | 演劇
今年の夏、全国高校総合文化祭演劇部門(全国高等学校演劇大会)に出場した東京都立千早高校演劇部の「7月29日午前9時集合」がヤングケアラーをテーマにした作品ということで話題を呼んでいた。
7月26日付毎日新聞の小国綾子氏のコラムで紹介されていたが、その他の新聞や演劇専門家の間でも話題になっていた。以下、一部引用させていただく。

舞台は夏休みの教室で、9月の文化祭に向け、高校生男女3人が不登校気味の仲間を案じつつ、演劇の脚本選びをしているという設定。
その合間の会話の中に、テーマであるヤングケアラーに関する話題が織り込まれる。遠いところにある問題のようでいて日常的でもあるその問題は、他人ごとのようでありながら、ごく身近にいる仲間の問題でもある。

その中で発せられる男子生徒の独白が印象的である。

「……新聞を見ても自分のことのような気がしない。ニュースを見ても自分と結びつかない。大変なことがあったとしてもぼくたちは相談しようとも思わない。解決するとも思っていない。(略)相談するって選択肢も持てない。本当はつらいとか苦しいとか言えばいいのかもしれないけど、それすら思い浮かばない……」

実にリアルである。ことさらに訴えかける身振りや作劇はなく、現状をただ提示することによって、ヤングケアラーの状態にある子どもたちの抱える問題の根深さがより浮き彫りになるようだ。
こうした脚本は、演劇部員たちが日ごろの学校生活のなかで会話を見聞きし、集めた言葉が下敷きになっているという。

あらためて演劇の持つ働きや役割について考えさせられる記事である。
演劇は、日常の中に潜む問題の芽を浮き彫りにし、再構築するなかで客観的な視座を提示する。
それを受け止めるのは観客なのだが、たとえ劇場に行くことが出来ず、こうした記事を読んでこの舞台のことを知った私のような読者にも何らかの力を及ぼすだろう。
最近よく耳にする言葉でいえば、「バタフライ・エフェクト」のような変化を社会に及ぼすかも知れない。

新聞の片隅の記事やSNSでの発信などにより、思いもよらない形での影響をもたらすことも含めて、そのすべてが《演劇》の持つ力なのだろうと思う。