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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

マスク越しの愛

2021-09-01 | 演劇
 演劇のエチュード(練習のための即興劇)にこんなのがあったのを思い出した。
 二人の俳優が、与えられた一語の台詞、つまり、「こんにちは」であったり、「おはよう」という言葉であったりを使って即興でシーンを作り上げるというものである。
 二人の俳優が舞台上に登場する。台詞はたった一言「こんにちは」あるいは「おはよう」というその場で指示された言葉に限定され、お互いにそれ以外の言葉を発してはいけないのだが、その条件のほかは泣こうが喚こうがまったくの自由である。その制約のもと、二人が芝居の上でコミュニケートしながら、どれだけの世界を作り上げられるか、というのがこのエチュードの眼目である。
 
 そんなエチュードを行う場面が漫画の「ガラスの仮面」にあったような気もするのだが、ま、それは不確かな記憶である。でも、その限られた条件のもと、たった一語の言葉を使って想像を超えた世界を繰り広げる北島マヤと姫川亜弓……というのは、いかにも興味深いと思うのだが、どうだろう。
 このエチュードの効能は、ともすれば勝手で独りよがりな芝居に陥りがちな俳優の矯正、という点にある。
 相手がどのようなシチュエーションを仕掛けてくるのか、あらかじめ分かっていないため、双方の俳優はお互いに全神経を研ぎすませながら、相手の言葉の息遣いや感情、表情をくみ取り、そのうえで相手の考える世界観や芝居の展開を想像し、反応するしかないのだ。その過程を通して二人は、相手の呼吸を受け止めたうえで演じるということを学ぶのだ。

 思うのだが、このエチュードをマスクをしたり、相手の表情が分からないといった状況で演じたらどうなるのだろう……? まったく支障はないのか、あるいは従来とは異なった反応や展開が見られるのか。
 コロナ禍のもと、芝居の稽古やリハーサル中もマスクをして演じることを余儀なくされていると聞く。それで演技は成立するものなのだろうか。
俳優によっては、本番になって初めてマスクを外した相手役の顔を見ると新鮮な気持ちで演技できる、といった声もあるようだが、本当にそうなのだろうか……。

 8月31日付毎日新聞に映画監督山田洋次氏へのインタビューが載っていて、映画製作における新型コロナの影響は? と問われた山田監督は次のように語っている。
 ……撮影中はスタッフはもちろん、俳優もマスクを着けているので表情が分からない。そんなのリハーサルと言えません。監督がスタッフや俳優に自分の思いを伝えるというのは言葉だけではなく、身ぶり手ぶり、目の色から察する、ということなんです。パソコンやデータで伝えられるものではない。……

 ところで、子どもの生育、とりわけ赤ん坊の成長にとって、言葉の分からないうちから、親や周囲の人間に見つめられ、微笑みかけられたり、しかめ面をされたり、怒った顔や泣いた顔など様々な表情を通じてコミュニケートする意味合いは実に大きいと言われている。
 現在、コロナ禍のもと、保育園でも学校でも、場合によっては家庭でさえも、マスク越しの育児やパソコンの画面越しの教育が否応ないものとして行われている。
 しかし、表情の半分以上が布に覆い隠されたり、スキンシップが制約された状態で読み取り得る感情にはやはり限界があるだろう。このことが常態化した日常で子どもの生育や教育に及ぼす影響は想像以上に大きいと思うのだが、これを何とかして補完する手立てはないものだろうか。
 そこで演劇の様々な技法や訓練方法を活用するという手はあるだろう。そこに一つのヒントがあるのではないかと考えるのだが……、どうだろうか。



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