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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

アーティスト/寡黙な

2012-06-12 | 映画
 米国で1歳未満の乳児に占める白人とマイノリティー(ヒスパニック系を含む)の人口比が逆転し、白人が50%を割り込んで初めて少数派になったことが5月17日に発表された米国勢調査局の統計で分かったとCNNが伝えている。
 将来的に米国の多民族化が一層進展し、マイノリティーが重要な政治的、経済的役割を果たすようになるだろうと専門家筋は予想しているそうだ。

 こうした情報の一方で興味深いのが映画界である。こんな報道がある。
 今年2月の第84回アカデミー賞授賞式に先立って、ロサンゼルス・タイムズ紙が、同授賞式の鍵を握る米映画芸術科学アカデミー協会の会員の人種や年齢構成を分析した興味深い結果を発表したのである。
 映画界の最高峰、アカデミー賞の会員は、映画会社などの重鎮をはじめ、映画プロデューサー、映画監督、脚本家、俳優など、映画界を代表する人々によって構成されているが、このほど投票者5765人について、ロサンゼルス・タイムズ紙が分析した統計結果によれば、構成員の94%が白人で、77%が男性で占められ、さらに平均年齢は62歳であることが分かったというのである。
 アメリカの映画人口の多数を占める黒人、ヒスパニック系に関しては、メンバーの中でそれぞれ僅か2%以下であり、50歳未満のアカデミー会員は14%しかいないことも判明したという。
 今回改めて白人至上主義、高齢者のメンズクラブであることが数字で証明されたことで、今後は人種、年齢、性別の多様化に向けた動きが加速されることが期待されている、とこのニュースは伝えている。

 これら2つの報道を並べてみると実に面白い。米国の代表的文化である映画がすでに時代遅れで少数派に成り果てた白人のジイさんたちに牛耳られているという事実……。
 あと30年もしたら誰も映画なんて観なくなってしまうのではないだろうか、と考えると恐ろしくて夜も眠れなくなる。何を隠そう、私自身は映画に関してはカチカチの保守派なのであるが、そのこと自体、長年の間にそうした彼らの価値観によって教育されてきた証左なのかも知れないのである。

 今年、アカデミー賞の主要5部門を獲得した「アーティスト」はそうしたアカデミー会員たちのノスタルジックな夢が凝縮した作品であるということは言えるのだろう。
 ミーハーな私はこの作品を十分に楽しんだけれど、その私にも、主役のジャン・デュジャルジャンが果たして主演男優賞に相応しい演技だったかどうかは分からない。
 通常の映画の登場人物が、あたかも実在する人間であることを前提条件として、その感情なり行動が俳優の肉体や演技を媒介として造型されるのに対し、この映画の主人公はあくまで「映画」自身なのであって、主役のジョージ・ヴァレンティンは、多くの映画好きたちの夢が投影された影にしか過ぎないように思えるのだ。
 事実、ジャン・デュジャルジャンはその演技設計において、往年のスターであるダグラス・フェアバンクスやルドルフ・ヴァレンティノ、比較的新しいところではジーン・ケリーらを徹底的に研究したことだろう。無論、それは実在する彼らの実像などではなく、スクリーン上に映し出された彼らの「影」像であったはずだ。
 数多くの過去の映画へのオマージュにあふれ、その白黒画面もいったんカラーフィルムで撮影したものをデジタル処理によりモノクロに変換するといった技術をふんだんに活用しながら創り上げられた本作は、映画そのものの白鳥の歌なのかも知れない。
 この先、映画にはどんな未来が待っているのか。それは作り手たちの問題であって、私のような一観客が問題とすべきことではないのだろうけれど。

 はるか何年かのち、アカデミー会員の過半が女性やマイノリティーの若者で占められるようになった時代……、そんな時代が来るかどうかは分からないけれど、その時、映画は何を映し出すのだろうかと、ふと思った。