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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

「リサ伯母さん」「弓浦市」

2021-03-07 | 読書
 人間は記憶する生き物であると、まず簡単に定義づけることは出来るだろう。記憶によって人間は学習し、膨大な知識やデータを蓄積し、それを活用し発展させることで現在ある世界を構築してきたのだと、ひとまず言うことも出来るだろう。
 一方、その記憶というものが極めて曖昧で捉えどころがなく、頼りがいのないものであることもまた確かなのだ。底知れぬほどに深い無意識の海のなかで、得体の知れない記憶が思いもよらぬものに変容して、私たちをがんじがらめにする様を想像して身の竦む思いをした人は少なくないのではないだろうか。

 とまあ、そんな大仰な話ではなく、ごく最近あった記憶にまつわる出来事なのだが、引越をしたついでに家の中にあった写真のアルバムを整理していて、自分が20歳前後の頃、友人たちと旅行に行った時に撮った写真を見つけたのだ。その昔を懐かしむ思いもあって、それを接写したデータをそこに写っている何人かの友人にメールで送ったのだった。
 その反応は様々で、そこにいた別の友人の名前を確認したり、消息を問うものや、自身の現在と引き比べ、あの頃は髪の毛があったなあなどと嘆く声もあったりしたのだが、そのうちの一人の反応が意外だった。
 まず、そこに写っているのはもしかして自分なのか、そもそもこんな顔かたちの人物に覚えがないし、写真にあるような旅行先に行った記憶もないと言うのだ。
 私にしてみれば、その時の旅行は、鮮明な記憶として残り、折に触れ写真を見直すことで、大切な思い出として深く心に刻んできたものなのだ。それをまったく覚えてもいないというのはどういうことなのか。
 聞けば、彼は大学時代に実家を出た際に、そういったアルバムの類いは全て置いてきてしまい、以来それを見ることも思い出すこともなかったのだという。彼のなかでその時の記憶は欠落したまま、更新されることも補完されることもなかったということなのだ。
 それにしても、この彼我の差は一体どういうことなのか、遙か昔のささやかな旅行という小さな思い出にせよ、それをずっと心に抱えてきた者と、まったく顧みるどころか、欠片も記憶にとどめることなく今に至った者と、良し悪しの問題ではなく、その不思議にしばし呆然とする思いだった。

 そんな時、思い出した小説が山田稔の「リサ伯母さん」と川端康成の「弓浦市」である。いずれも短篇ながら深い印象を残す小説であり、記憶がテーマとなっている。

 「リサ伯母さん」は、老年となり、妻が骨折して入院したことにより、一人暮らしとなった主人公が、子どもの頃に憧れていたリサ伯母さんのことを思い出す話である。
 自分を産んで間もなく母は亡くなり、父と手伝いの女性との暮らしの中で、母の姉にあたる美しい伯母さんの来訪とその交流は何よりも美しい思い出だった。
 しかし、入院中の妻からそんな伯母さんのことなど聞いたこともないと存在そのものを否定された主人公は動揺する。そればかりか、日頃の物忘れの多くなっていることを指摘され、さらに若くして事故で亡くなった長男の思い出に拘泥する妻とのすれ違いが彼の心をより混乱させ、不安に陥れるようなのだ。
 その存在証明を示すべく手を尽くすのだが、リサ伯母さんの写真もなく、手紙もない。存在も証明してくれる人も物もないのだ。リサ伯母さんは彼の記憶の中にしか存在しない。そう気づいたとき、彼の不安は焦慮に変わる……。

 一方、「弓浦市」は、作家の香住のところに、九州の弓浦市で30年ほど前にお会いしたという婦人客が訪ねてきて、その弓浦市で邂逅した時の香住との思い出を語るのだが、彼にはその記憶がまったくない、という話。
 そればかりか、弓浦市でその女性の部屋を訪ねた香住が彼女に結婚を申し込んだというのだが、彼にはその過去が消え失せてなくなっている。
 どうやら幸せではなかったらしいその生涯を、香住の追憶によって慰めてもいるらしいその婦人客が帰ったあと、日本の詳しい地図と全国市町村名から、ちょうど同席していた三人の客にも探してもらったが、弓浦という地名の市は、九州のどこにも見あたらない。
 三人の客はその婦人客の幻想か妄想か、頭がおかしいと笑うのだが、香住自身は、自分の頭もおかしいと思わないではいられない。
 弓浦市という町さえなかったものの、香住自身には忘却して存在しないが、他人に記憶されている香住の過去はどれほどあるか知れないのだ……。
 
 「リサ伯母さん」が、自分の記憶に深く刻まれ、美しい思い出として増殖していった女性を巡り、自身の存在そのものの危うさを問いかける小説であるとすれば、「弓浦市」は、見も知らぬ他人の記憶の中で夢見られる自分とは何者なのかという問題を突きつける。
 いずれも深い余韻とともに、脆く儚い記憶の海に揺曳する人間存在のありようを私たちに提示する作品である。
 これまで折にふれて幾度となく読み返してきた二つの小説だが、物忘れの顕著になってきたこの年頃になって改めて読み直すと、わが身に引き寄せながらより複雑な心境を呼び起こされるようだ。

 「実際に起こらなかったことも歴史のうちである」と言ったのは寺山修司だった。
 妄想あるいは幻想であると、いかように名付けられようが、その人の記憶の中に長い時間をかけて沈殿し、根づき、息づく数々の思い出は、それがいかに歪み、変形したものであろうとも、その人生を形づくる掛け替えのないものだ。そのことに間違いはないのである。


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