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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

「こことよそ」のこと

2020-05-26 | 読書
保坂和志氏の小説「こことよそ」(「ハレルヤ」所収)を読んだ。これで4回目になるのか。最初に雑誌「新潮」に載った時と、本作が第44回川端康成文学賞を受賞した時にも読んだし、単行本が出てすぐと今回ということになる。
今回読んだのは、ずっと気になる作品ということはもちろんなのだが、その語り口というか、小説の流れをもう一度味わいたかったからだ。
それにしても、もしこの小説を外国語に翻訳するとして、翻訳者はこの文章をどのように処理するのだろう、思い悩むだろうというような文章が頻出する。

ずっと前、私がまだ組織に所属していた頃、一人前の顔をして後輩の昇任試験の小論文にアドバイスしたことがあるが、そうした採点される文章でまず気をつけなければならないのが「文のねじれ」というやつだ。
文章の中で主語と述語の関係が対応せず、意味的におかしくなる現象だが、保坂氏はこの「文のねじれ」を意図的に使っているか、あるいは自動筆記のように無意識に出てきたこの現象を小説の面白さに転用しているように思うのだ。
一例を引くと、単行本の107ページに次のような文章がある。

「私は会以来、ずっと尾崎を思い浮かべながら『異端者の悲しみ』を読んだ、死ぬというのは他の出来事と置き換えられないが誰かが死んだらいつもこんなに思いつづけるわけではないのは私は年が改まると尾崎よりずっと身近でつき合いがひんぱんだった知り合いが二人死んだが私は尾崎のことだけを思っていた。」

句読点の独特な使用もあって、この文章は主語と述語が交錯し、ねじれながら行き着く先を探っているようだ。
こうした文のねじれはしかし、この小説を書いている作家の現在進行形の思考をライブで覗き見するような感触を読み手にもたらすだろう。それが何とも言えないリズムとグルーブ感となって、何度読んでも飽きることがなく、また読みたいと思わせる魅力になっているように思う。
だが、この書き方は誰にでも許されるわけではない。この書法を真似た新人作家はおそらく大やけどを負うに違いないのだ。

それはそうとこの本の110ページに突然出てくる次の文章に思わず目を瞠った。

「……田中小実昌の面白さに出会うのはこの夕方の一ヶ月後だ、私はある晩、読みたい本がふっつりなくなり、毎月ほとんど読まないくせに買いつづけていた文芸誌の『海』の『ポロポロ』の連作の一つのどれかを読み出したらおかしくてベッドの上で深夜、げらげらげらげら笑いが止まらなくなった。……」

『ポロポロ』の話が出てくるのはここだけで小説の本筋とも関係がないといえばない。さらに言えばこの一節がなくても小説は成り立つのだが、これがあるがゆえにこの小説は面白いのであって、その意味でこのくだりは小説に不可欠だ、という言い方ができるのかも知れない。
さて、私がこの一節に引きつけられたのは、たまたまその直前に文芸誌の「文學界6月号」に掲載されている写真家の神藏美子氏の特別エッセイ「聖(セント)コミマサと奇蹟の父」を読んだからで、このエッセイは作家・田中小実昌とその父君である田中遵聖牧師の関係について書かれたものだが、その中で、田中小実昌氏が雑誌「海」の編集者だった村松友視氏から原稿を依頼され、『ポロポロ』を書いた時のことが色鮮やかに描かれている。
その部分や引用されている小説の文章を読みながら気持ちが高揚するのを私は感じて、すぐにも『ポロポロ』を読みたいと思ったのだが、あいにくわが家にはアンソロジーで編まれた短篇小説のほか、田中小実昌の本が一冊もない。私の住んでいる街の小さな書店には田中小実昌の本がどこにもなく、コロナのおかげで都心の大きな書店まで出かけることもできない、こまった……、という時にちょうど、先ほどの『こことよそ』の一節に出会った、というわけだ。

ただそれだけのことなのだが、こんな読書の楽しみ方もあるのだろう、と思う。
ちなみに『こことよそ』というタイトルだが、今回私ははじめて、ジャン=リュック・ゴダールとアンヌ=マリー・ミエヴィルが1976年に共同監督した映画に「ヒア&ゼア こことよそ」という作品のあることを知った。
小説の中では直接触れられていないので、その映画とこの小説が関係あるのかどうかは分からないのだが、そんなあれこれについて思いめぐらすのも勝手な楽しみ方である。


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