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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

新しい働き方/古い働き方

2020-05-22 | 日記
この何日か3月下旬を思わせる天候が続いている。つい先日の夏日を経験した後では身体がなかなか適応してくれないようで、一日中眠くて仕方がない。
人出を避けて散歩をするように心がけてはいるのだが、3月以前の働き方や社会生活とは明らかに異なる移動手段や範囲と比べると運動量そのものが格段に少なくなっている。筋肉と神経はやせ細るが、反比例するように脂肪と体重は増え続けている。困ったものである。

さて、少し前の新聞になるが、5月9日の日本経済新聞の「今を読み解く」欄で甲南大学の阿部真大教授が「コロナ禍が問う働き方」について寄稿している。
この度のコロナ危機が、期せずして、テレワークやリモートワークといった「新しい働き方」の実効性を測る大規模な「社会実験」のようなものになったという前提に立ったうえで、現在巷間目にし、耳にもする「新しい働き方」が日本企業の「古い働き方」を変えられるのではないかという議論においては、「古い働き方」のメリットが見落とされがちであると指摘している。
以下、そのまま引用すると、「私(阿部教授)自身、勤務先の大学の要請でテレワークをはじめて気づいたことは、リアルな対面コミュニケーションのもつ情報量の豊かさと効率性である。今までリモートでも同じだと思っていた会議を実際にリモートでした時のコミュニケーションの困難さは、現在、多くの人が経験していることだろう。」「だからこそ、人々はテレワークにおけるコミュニケーションに、新しい種類の『疲れ』を感じはじめているのだろう。」

これについて同感する部分は大きい。対面のコミュニケーションにおいては、相手の身振りや複雑な表情の変化、距離が醸し出す空気感、それらを感じ取りながら交わす会話のやり取り、それらをリアルにオンライン上で代替することは現状では困難なのではないか。
いま、私たちが目にする多くのテレビの報道番組やワイドショーなどで、各分野の専門家やコメンテーターがソーシャルディスタンスを保つため、離れた場所からパソコン画面を通じて会話をするようになったが、それをずっと見続けていると、妙な苛立ちや疲れを感じるのだが、それは音声の不備や画面を通じた表情の不明瞭さとともに、人と人の会話の合間に生じるコンマ何秒かの微妙な「間」に起因しているように思える。

これを「演劇」に引き付けて改めて考えてみると、「演劇」という芸術は、その微妙な「間」や表情が生み出す空気感を材料として成り立つものなのだ。これをオンライン上で現前させるためには、まったく新しい発想の演技や演出が求められるに違いない。

コロナ禍が収束に動きはじめた時、やはりリアルなコミュニケーションを求めて「古い働き方」に回帰するのか、あるいは技術の進歩を加速させ、よりリアルな「新しい働き方」をあくまで希求するのか、その議論の帰趨は、これからの社会のあり方そのものを問いかけ、予測するものとなるだろう。

話は変わるが、今日(5月21日)の新聞紙面は、例の黒川幹事長辞任の動向に関する話題が多くの紙面を占めている。
こうした報道の裏に何が起こっているのか、本当のところは何なのか、それを読み取るのはなかなか厄介なことである。報道は発信する人間がいて、その発信には何らかの意図があるはずなのだが、それは記事の字面からだけでは読み取れない。
それはそれとして感じたのが、当の黒川氏とマージャン卓を囲んでいたのが新聞記者であったということだ。その是非はともかくとして、問題は、こうした関係がこれまでニュースソースたる人物との接点を保持するために良しとされてきた「古い働き方」にあるのではないか。
報道する立場の人たちの「新しい働き方」のあり方について、これから議論が深まり、見直しがなされることを期待したい。


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