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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

100年前の「瀕死の白鳥」(「雪国」再読 その3)

2022-05-07 | 読書
川端康成が「雪国」を執筆した、昭和10年から22年頃まで、すなわち1930年代、40年代の日本における西洋舞踊の受容・理解はどの程度にまで進んでいたのだろう。
島村が、東京に妻子を養いながら、雪国の温泉宿に長逗留を許すほどの経済的余裕を、その執筆活動が賄っていたというのは疑わしいにしても、彼が書く西洋舞踊の紹介文や批評文に一定の需要があったというのは確かだろう。
それが特定の好事家の間に流通する雑誌なのか、同人誌的なものかは別にして、その頃(1930年代)にはすでに西洋舞踊というものが日本人の生活や意識の中に浸透していたということなのだろうか。

「雪国」の執筆開始の1935(昭和10)年から13年ほど遡った1922(大正11)年のこと、ロシア出身のバレリーナ、アンナ・パヴロワが世界巡演の一環として来日し、東京の帝国劇場をはじめ全国8都市で公演を行った。
今からちょうど100年前のことである。
パブロワの名声は当時の日本にもすでに伝わっていて、チケットは極めて高額だったにも関わらずすべて完売、大入り満員の盛況だったというのだが、何より、「バレエ」なるものを見たこともなかった一般大衆の間にその存在を知らしめ、わが国において西洋舞踊が定着・普及するきっかけを作ったと言われている。

その帝国劇場での公演を芥川龍之介も見ていて、「露西亜舞踊の印象」と題した文章の中で、その時の演目の一つ「瀕死の白鳥」について、「僕は兎に角美しいものを見た」と賞賛したことはよく知られている。
しかし、である。
その他の演目や公演を見た芥川の受けた印象は少し異なったようである。彼は次のように書いているのである。

「一体西洋の舞踊なるものは独楽のようにぐるぐる廻ったり空中へひらりと跳びあがったりする。
 あれは衛生上には少なくとも観客の衛生にはあまり好結果を与えないものらしい」
「一体アンナ・パブロワの舞踊は巧妙とかなんとかと思う前に骨無しの感じを与えるのである。
 実際我々日本人は骨無しと評するもの以外にああいう屈曲自在を極めたしなやかな身体を見ることはない。
 骨無しはもちろんグロテスクである。
 僕はこの感じのために、不気味になったり、滑稽になったり、角兵衛獅子を思い出したり、
 パブロワもロシアの酢を飲むかなどと下らないことを考えたり、要するに純一無雑なる鑑賞の態度にはいれなかった」

こうして引用してみると、何だか芥川には残酷なような気もするのだが、当時の日本における最高の教養人といってよい芥川龍之介にして、ことバレエに関してはこの程度の認識だったのである。
いわんや多くの一般大衆が西洋舞踊を受け入れる土壌はほぼ皆無といっても過言ではなかっただろう。
それが、その後の10数年で驚くほどの進展を見たということなのである。

アンナ・パヴロワの訪日公演以降、バレエを習いたいと希望する者が急激に増えたというが、その受け皿となったのが、エリアナ・パヴロワである。
エリアナ・パヴロワはロシア貴族の娘として生まれたが、ロシア革命を逃れ、母妹とともに祖国を捨てて日本にたどり着いたと言われる。それが1921(大正10)年頃のことである。
当初、横浜で社交ダンスを教えて生計を立てていたが、アンナ・パヴロワの舞台に触発されて急増したバレエ希望者のために、1927(昭和2)年、鎌倉七里ヶ浜にわが国初のバレエ専門の教室を開設した。
その門下からは、日本におけるバレエの第一歩を飾った多くの人材が輩出されたのである。
エリアナは門下生とともにバレエ団を結成、各地を巡業して好評を得たばかりか、戦時下の将兵慰問にも参加している。彼女は慰問巡業先の南京で亡くなったが、その働きががわが国におけるバレエ受容の土壌形成に大きく貢献したことは間違いない。

もう一人、わが国の「バレエの母」と称されるのが日本人外交官と結婚し、1936(昭和11)年に来日したオリガ・サファイアである。
来日後、当時の日劇ダンシング・チームのバレエ教師に就任にしたオリガは、伝統的かつ正統派のロシアのクラシック・バレエをわが国にもたらした最初の人であり、技術のみならず理論や、バレエ上演のノウハウといったものをわが国に定着させるのに多大な貢献を果たした。
彼女のもとからは、第二次世界大戦後の日本におけるバレエ・ブームを支えた多くの人々が影響を受け育っている。
                 (以上、公益社団法人日本バレエ協会のHPから一部引用)

こうして見ると、100年前のアンナ・パヴロワの訪日公演がわが国にもたらした影響がいかにエポック・メイキングなものだったかが分かるのだが、1930年前後になると、バレエばかりでなく、大正前期に帝国劇場歌劇部教師だったジョヴァンニ・ヴィットリオ・ローシーの門下だった石井漠、高田せい子はじめ、ドイツに留学した江口隆哉、宮操子などのモダン・ダンスの舞踊団、さらには浅草に創立されたカジノ・フォーリーにおけるレヴューなど、多彩な西洋舞踊が活況を呈しはじめている。

川端康成もまた、こうした舞踊界のうねりの中に身を投じた一人であった。
川端は、1929(昭和4)年に小説「浅草紅団」を執筆したように、当初は数多くのレヴューを見て歩き、入れ込んでいたようだが、カジノ・フォーリーに出演していた梅園龍子という美しい少女との出会いから、彼女を大衆娯楽の踊り子ではなく芸術舞踊家に育てようという野心を抱き、それを契機としてバレエの世界に関心を寄せていったことはよく知られている。

実際、川端はその頃から舞踊に関する文章を多く書いていて、「わが舞姫の記」(1933年)の中では、「この頃は読む小説の数よりも見る舞踊の数のほうが遙かに多い」と言っているほどだ。
ただ、自身の立場については、あくまで素人の舞踊愛好家であるとして、日本の舞踊の発展のためにそれを紹介する宣伝広告塔であるという自覚と使命感を持っていたようだ。

そのうえで川端は、専門の舞踊批評家を鼓舞するように次のように書いている。

「一般に西洋舞踊を見る予備知識の乏しい日本では、見物の無理解を嘆く前に、親切な啓蒙が必要である。これは批評家の義務でもある。
 私が批評家または研究家に望むところは、自ら舞踊の実際運動に身を投じて泥まみれになるほどの愛情と熱意である」
                            (「舞踊界実際」1934年)

さらに川端は、舞踊批評家に対し、批評が「道楽」になっているとして、その知識不足や勉強不足を批判するのだが、次の文章には目を惹かれる。

「見もしない舞踊を評論するなんか、全くたわいない話だ。法螺吹きの毛唐の本を、そのまま受け入れるよりしかたない。見ない舞踊に対しては、なんの懐疑も幻滅も、実感として生じるわけがないから書物や写真で西洋舞踊を見物するほど結構なお道楽は、またとないだろう」
                            (「舞踊界私見」1934年)

実に強烈な批判だが、誠に興味深い文章である。
ここでやり玉にあがっている批評家の姿勢は、まさに「雪国」で描かれた島村が西洋舞踊に対する時の姿勢そのものではないだろうか。

川端は、自分が書く小説の主人公に、自身が批判してやまない「お道楽」にうつつを抜かす舞踊評論家の姿を織り込んだのである。
川端が「島村は私ではない」と明言しているのは先に紹介したとおりだが、私でないどころか、自身が忌み嫌う評論家の姿をあえて映し込んだのは何故なのだろう。

仮説として考えられるのは、ネガフィルムのように川端自身とは白黒反転した島村を造形することで、その陰画を背景として、雪国の世界に匂い立つような駒子の姿を浮かび上がらせようとした、ということなのだが、どうだろう。
興味は尽きない。