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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

「雪国」再読 その2

2022-05-04 | 読書
「雪国」の語り手的存在である島村は、親譲りの財産で、無為徒食の生活をしているとされているが、小説の中ではさらに、かつては彼が日本踊りの研究や批評めいたものを書いていて、自らも実際運動のなかへ身を投じようという時にふいと西洋舞踊に鞍替えしてしまったことや、今では西洋舞踊の書物と写真を集め、ポスタアやプログラムまで苦労して外国から手に入れたうえで、西洋の印刷物を頼りにそれらを紹介する文章を書くようになり、いつしか文筆家の端くれに数えられている、といったことが島村という人間を表すものとして書かれている。

こうした島村のあり様は、西洋舞踊に対してはもちろん、自分自身により一層冷笑的である、と感じる。

以下、引用すると、「……ここに新しく見つけた喜びは、目のあたり西洋人の踊りを見ることが出来ないというところにあった」「見ない舞踊などこの世ならぬ話である。これほど机上の空論はなく、天国の詩である。研究とは名づけても勝手気儘な想像で、舞踊家の生きた肉体が踊る芸術を鑑賞するのではなく、西洋の言葉や写真から浮かぶ彼自身の空想が踊る幻影を鑑賞しているのだった。見ぬ恋にあこがれるようなものである……」

こうした島村の態度は、仕事の対象である西洋舞踊を愚弄しているとも思えるのだが、無論重点にあるのは、「今の日本の舞踊界になんの役にも立ちそうでない」ものを書き、「自分の仕事によって自分を冷笑する」という姿勢なのである。
そうした姿勢がどのようにして彼の中に醸成されてきたのかまでは読み取れないにしても、「そんなところから彼の哀れな夢幻の世界が生まれるのかもしれ」ないと彼自身が考えていることは理解できるだろう。
そして、そうした彼の態度=生き方が、駒子に対する態度にも表れているのであり、このことは、小説の全体を貫くトーンとなり、構造そのものとなっているのだと言えるだろう。

島村が見ているのは、目の前の、肉体を持った駒子という女なのではなく、彼の空想が生み出した幻影としての女の美なのである。
そしてその空想は、小説の最後の繭倉の火事の場面で一気に転調し、新たな幻想が彼を包み込む。
それは、夢幻能におけるシテの唐突な退場によって、現実の世界にぽつねんと取り残されたワキ方の姿に似ているようである。