seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

歩いてゆく poetry note No.12

2021-10-06 | ノート
 雑草の生い茂った水辺を散策しながら草いきれのうちに身をゆだねたり、木洩れ日のなかを歩き、樹々をわたる風の音や鳥の鳴き声に耳をすませたりするのと同様に、都市のさまざまな建造物を眺めやり、明滅する光を浴びつつ街の雑踏を歩くことや、人の群れにまぎれてあてどもなく彷徨うことに不思議な安らぎを感じるのは何故だろう。
 息づく自然や動植物の営みと無機質なコンクリートや鉄の固まりといった、一見対極にあると思われがちなそれらの内側には、ある種の共通する波動やリズム、ゆらぎのようなものがあって、それが親和性のある形状の相似となって私たちに居心地の良さを与えているのだろうか。

 「芸術は自然を模倣する」と言ったアリストテレスに対し、オスカー・ワイルドの言った「自然は芸術を模倣する」という言葉はあまりに有名だが、いつしか私たちは自然の本来の姿を見失ってしまい、人の手になる建築や造営物、芸術が新たに見出した「美」を通してしか自然の美を感知できなくなっているのかも知れない。

 そんなことをぼんやりと考えながら私は歩いていたのだ。



 私の頤は船の舳先だ ぐいと突き上げ 背を反らし
 波を切り裂くように 人の群れを漕ぎ分けてゆく
 立ちはだかる闇と霧に向かって 少しずつ 少しずつ 歩いてゆく
 そうすることでしか胸にわだかまる影の消えることはない
 そうすることでしか目の前の黒々としたものの
 何であるかを知ることはないのだと 独り言ちながら





 自然がつくり出す紋様と 人の手によって作られた形がリズムを刻む
 それは波動となって空気をふるわせる そのゆらぎに囚われたのか
 あるいは安息の場所を見つけたという錯覚に目が眩んだのか
 のがれようのない心地よさが わたしの目を蓋い 耳を塞ぎ
 静かな眠りへと引きずり込んでゆく


台風の日

2021-10-06 | ノート
 わくら葉の季節は過ぎて 秋台風のざざめく日

 遠くけぶるビルの輪郭を淡く染め雨かぜの白く疾くざんざめく



 とある事情から都内の病院に一週間ほど入院することになった。いわゆる検査入院なのだが、今回懸念されることとなった病気が、従前から治療を続けているものに由来するものなのか、あるいは別のものなのかを特定するために当該臓器の組織の一部を切除して調べる必要が生じたのである。
 全身麻酔による手術自体はあっという間のことで、それこそ手術台に横たわり、気がついたら終わっていたというくらいの間隔だったのだが、その後の始末の方が厄介だった。点滴の針や導尿カテーテル、酸素マスク、血栓予防のために下半身をマッサージする器具などが装着され、身動きのままならない状態で一昼夜を過ごすのだ。
 その翌日は飲食も可能で歩行することも出来るのだが、船酔いを催したような感じで胃がムカムカし、血の気も引いて気持ちの悪いことこのうえない。
 ちょうどそんな時に台風が日本列島を直撃し、強い風雨が吹き荒れた。
 私のいる高層にある病室からはその風圧や雨量を体感することは出来ないのだが、窓を打つ雨が滝のようになって流れ落ち、街並みの風景を歪ませるのをぼんやりと頼りない意識の中で見ていたのだった。
 巨大な大気の変動と私の身体の中の微細な細胞の変化がどこかでつながっているような思いに捉われながら。



 夜になると関東地方は台風圏域から離れ、雨も止んだようだ。水に洗われた空気を通してあざやかな夜景が目に映る。この厖大な光の一つ一つに人々の人生があり、物語があるというのはいかにもありきたりの感慨でしかないが、高い場所から俯瞰して見るというのはそうした単純な客観視をもたらすのかも知れない。
 チャップリンは「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」と言ったそうだが、ここで言うロングショットが単純な客観視を意味するのでないことは明らかだ。そこには自在に多様な視点からものを《見る》という意志と意図がある。身動きもならず漫然と高い場所から見下ろすばかりの姿勢とはまったく異なるものなのである。



 翌朝、窓ガラスにカメムシのような昆虫がこびりついていた。こんな高いところになぜやって来たのかは分からないのだが、あるいは早く地べたに下りて来いよと私を誘いに来たのかも知れない。