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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

盤上の舞台

2010-04-12 | 日記
 この土曜日から日曜にかけて、秩父に出かけてきた。民宿に泊りがけで仕事仲間と囲碁に耽ろうというのである。
 上はもう80歳に手の届こうという高段者から、昨日今日碁のルールを覚えたばかりで、まだ石の生き死にもよく理解していないような初心者まで、酔狂な13人が食事の時間も惜しむように、折角桜の美しい秩父まで行きながら、暗い部屋に閉じこもって盤の前に座り込み、何時間もの間、総当りでこの古来からのゲームにいそしんだのだ。
 かくいう自分は30年ほど前にルールを覚えたけれど、熱心に実戦経験を積むこともなく、石を握るのは今回が20年ぶりというところである。したがって当然ながら棋力の方は推して知るべしというレベルだ。

 まあ勝ち負けはともあれ、利害関係を抜きにこうして多様な世代の人々が集まって試合が終われば和気藹々と酒を飲み交わし、また一年後の再会を約して去っていく、というのも何とも言えずさっぱりとして気持ちが良い。
 ゲームの合間の語らいで、70歳に手の届く年齢ながら気力活力ともに旺盛な尊敬する先輩の話に耳を傾けるのも楽しい時間である。

 さて、それはそうと、盤上のゲームが描かれた映画や文学にどんなものがあったかと行き帰りの電車の中で考えていた。
 そもそも私が将棋を覚えたのは、ボルヘスの小説を読んでチェスを覚えたいと思ったのがきっかけなのだが、なかなかチェスの相手を探すのが難しかったのと、その直後映画の「田園に死す」の中で主人公が子ども時代の自分自身と将棋を指すシーンが印象に残ったからだった。
 将棋熱が高じて、当時在籍した劇団の話し合いの最中にも小さな盤で将棋を指していて主宰の演出家にこっぴどく叱られたのを思い出す。
 当時は中原誠名人の全盛期で、剃髪した森九段との名人戦が話題となっていた。
 
 チェスが出てくる映画といえば、まず岩波ホールで観たサタジット・レイ監督の「チェスをする人」(1977年)を忘れることが出来ないし、「ボビー・フィッシャーを探して」(1993年)も私は好きだった。そういえば、トビー・マグワイアがボビー・フィッシャーを演じる映画が作られるとのニュースが最近流れていたっけ。
 フィリップ・マーロウ物の映画にチェスは欠かせない小道具だし、ハリー・ポッターでもチェスは重要な要素となる。
 小説ではなんと言っても小川洋子氏の「猫を抱いて象と泳ぐ」が最近の収穫だが、当然、レイモンド・チャンドラーやウラジーミル・ナボコフの小説、ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」も忘れてはならない。

 一方、囲碁はどうかと考えると、一時ブームになった「ヒカルの碁」以外に何かあるだろうか。
 源氏物語には宮廷の女官が碁を打ち交わす場面が出てくるし、川端康成の「名人」は必読だ。
 近年の映画では数年前に日中合作で天才棋士・呉清源の半生を描いた作品があるし、ラッセル・クロウが天才数学者ジョン・ナッシュを演じた「ビューティフル・マインド」の中にナッシュが同僚の数学者仲間と大学のキャンパスのベンチで囲碁を打つシーンがあって印象深かった。

 芝居では将棋の坂田三吉を描いた「王将」は誰もが知っているが、囲碁が主役級の位置づけとなる舞台はなかなか思い浮かばない。
 以前観た芝居では、登場人物の老人が一人盤に向かって石を並べながら詰碁をやっているという設定なのに、それがただの五目並べの石の並べ方で、この役者は碁を知らないんだなといっぺんに興醒めだったのを記憶している。
 つまらないことだが、役者というものは何でもそれらしく見えるように勉強しておくものだと思い知らされたひとコマだ。