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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

バベルの図書館

2009-12-12 | 読書
 子どもの頃、私の住んでいた町には小さな図書館がひとつあるだけだった。
 およそ貧しい蔵書ではあったが、私にとってはとてつもなく大きな宇宙のように思えた。館内のすべての本を読みつくすことを夢見ながら、この世界にはどれだけの本があるのだろうと考えてはそっとため息をついたものだ。

 つい最近の新聞記事で、国内で発行されたすべての出版物を収集・保存することが義務づけられている国立国会図書館では、昨今の出版点数の激増や本の大型化等により、収容スペースが限界に近づいていると報じられていた。
 片や別のニュースとして、米国の25図書館が参加する世界最大の「バーチャル(仮想)図書館」が本格稼働するとの記事がある。江戸時代の古文書など、英語以外の書物も含め、蔵書数は当初450万冊規模だが、1年半後には1千万冊超に拡大するとのことだ。
 米国検索大手某社の書籍デジタル化問題は日本の出版界を巻き込んで大論争となったが、電子化をめぐる著作権のルールが整備されれば、蔵書数はさらに飛躍的に拡大し、いずれは誰もが自分の部屋にいながら、パソコンの窓を通じて世界中のあらゆる書物を閲覧することができるようになると思われる。
 バーチャル図書館の出現は、蔵書の保存や収容スペースの確保に関する悩ましい問題を一挙に解決するものとなるのだろうか。

 アルゼンチンの国立図書館長でもあった作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、1937年に書かれた「バベルの図書館」という作品のなかであらゆる本を所蔵する無限の宇宙ともいうべき図書館を夢想している。一方、その末尾に付された注釈では「広大な図書館は無用の長物である」と断じ、無限に薄いページの無限数からなる「一巻の書物」で充分なはずと記述する。
 バーチャル図書館において、その一巻の書物は一台のノートパソコンや携帯端末に取って代わられるのだろう。

 さて、「バベルの図書館」が書かれてから5年ほど後、ボルヘスの10歳年下で昨年生誕100年を迎えた中島敦は「文字禍」という小説で、まだ紙というものがなく、粘土板に硬筆で符号を彫りつけて書物とした古代メソポタミア時代の図書館を描いている。いわく「書物は瓦であり、図書館は瀬戸物屋の倉庫に似ていた」時代の話である。
 主人公の老博士は、文字の霊の存在を確かめるために一つの文字を幾日もじっと睨み暮したあげく、その文字が意味を失い、単なる直線どもの集まりにしか見えなくなる。そればかりか、ある日、その地方を襲った大地震によって、夥しい書籍すなわち数百枚の重い粘土板の下敷きとなって圧死する。自らの存在を疑った者に文字の霊が復讐したのである。
 ボルヘスと中島敦、この二人の作家が、地球の裏側でほぼ同時期に対照的な図書館の物語を夢想したことは実に興味深い。

 デジタル記号と化した文字が縦横に飛び交う宇宙空間を経巡り、私の記憶は40年ほどの時間を遡って再び小さな町の図書館へと辿り着く。
 そこでは、捕虫網を片手に麦わら帽子をかぶり、鼻の頭に汗の玉を浮かべた子どもの私が、薄暗い図書館の片隅で、「ファーブル昆虫記」やドリトル先生、シャーロック・ホームズの冒険譚に読みふけっている。

 あの至福に満ちた読書の時間は再び訪れるのだろうか。